【第310話:牙の誓い、その命脈】
魔将の刃が大地を裂き、爆ぜた衝撃が戦場を震わせた。
砂煙の中で、イエガンは膝をつきながらも、なお剣を手放さなかった。
右肩から流れる血が鎧を濡らし、視界の端を赤く染めている。
それでも彼の視線は、ただ目の前の敵に向けられていた。
「まだ立つか、獣人」
魔将の低い声が、嘲るように響く。
「立つさ」
イエガンはゆっくりと立ち上がる。
足は震え、呼吸は荒い。
だが、その背は折れていなかった。
「我が主が戦っている以上、牙部隊長が地に伏すわけにはいかない」
魔将の巨体が一歩踏み込む。
地面が陥没し、衝撃波が走る。
イエガンは横薙ぎの一撃を紙一重でかわし、逆に刃を滑り込ませた。
だが硬質な魔力の鎧がそれを弾き返す。
刃が軋み、火花が散った。
「浅い」
次の瞬間、拳が腹部に叩き込まれる。
空気が肺から押し出され、身体が宙を舞う。
地面に叩きつけられた衝撃で意識が遠のきかける。
それでもイエガンは歯を食いしばった。
脳裏に浮かぶのは、ただ一人。
己が主、クロナの背中だった。
あの方は今、魔王と対峙している。
誰よりも苛烈な戦場の中心で、孤独に刃を振るっている。
ならば自分は何をするべきか。
「少しでも負担を…減らす!」
立ち上がりながら、イエガンは低く呟いた。
魔将が再び踏み込む。
今度は全力の一撃だった。
イエガンは正面から受け止める。
腕が悲鳴を上げ、骨が軋む。
だが退かない。
「貴様の命は、ここで尽きる」
「それはどうかな」
血に濡れた顔で、イエガンは微笑んだ。
その足元に刻まれているのは、戦いながら密かに描いてきた魔法陣だった。
踏み込み、受け、弾き、退きながら、少しずつ位置を調整してきた。
牙部隊長としての誇り。
積み重ねてきた戦場の知恵。
すべては、この一瞬のために。
「我が命を燃料とし、牙を穿て――」
魔将の目が見開かれる。
地面が光を帯び、無数の魔力の刃が噴き上がる。
それは四方から魔将を拘束し、動きを封じた。
「小細工を――」
「小細工かどうか…その目で確かめてみろ」
イエガンは剣を両手で握り直す。
全身の魔力を一点に収束させる。
視界が白く染まる。
鼓動が遠のく。
それでも彼は踏み込んだ。
「これが、グリムファング牙部隊長の一撃だ…!」
渾身の突きが、魔将の胸を貫いた。
拘束の魔法陣と共鳴した刃が、内側から魔力を破砕する。
爆ぜる衝撃が天を裂き、黒い魔力が霧散していく。
魔将の巨体が崩れ落ちた。
静寂が訪れる。
イエガンは剣を地に突き立て、なんとか立っていた。
だが次の瞬間、膝が崩れる。
全身の感覚が薄れていく。
視界が霞む。
遠くで、まだ続く激突の轟音が響いている。
あれが、主の戦いだ。
イエガンはかすかに笑った。
「……これが、俺の牙だ」
地面に倒れ込みながら、空を見上げる。
呼吸は浅い。
だが、意識はまだある。
己の役目は果たした。
後は――
「後は任せましたよ…クロナ様…」
そう呟き、イエガンは静かに目を閉じた。
その胸は、確かに上下していた。




