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【第294話:選別の境界線】

 魔王が、指を一本、わずかに動かした。


 それだけで、戦場の空気が変わる。いや、正確には――“切り替えられた”。


 それまで交錯していた無数の戦線、そのすべてが、まるで見えない糸に操られるかのように一瞬で再編される。敵も味方も関係なく、位置が、間合いが、優劣が――強制的に塗り替えられていく。


「……これは……っ!」


 ティナは反射的に地を蹴っていた。考えるよりも先に、身体が動く。視界の端で、ルーニーが異様な圧に呑まれかけているのが見えたからだ。


 次の瞬間には、ティナの姿はそこにない。


 爆ぜるような加速。空気を裂く音すら置き去りにする速度で、彼女はルーニーの前へと滑り込む。


 間に合う――その確信と同時に、目の前の“力”が輪郭を持った。


 見えないはずの圧が、形を持っている。


 押し潰すのではない。“選ぶ”力。


 この戦場に存在するすべてを、価値で、強度で、意味で――選別し、不要と断じたものを消し去るための圧。


「……っ、させません!」


 ティナは踏み込む。速度をさらに上げる。重ねる。限界のその先へ。


 視界が歪むほどの加速の中で、彼女は“その圧”の隙間を縫うように動いた。真正面から受け止めるのではない。触れられる前に、そこにいないことを選ぶ。


 それが彼女の戦い方だ。


 しかし――


「遅い」


 低く、静かな声が落ちた。


 魔王の指が、わずかに動く。


 それだけで、ティナの世界が反転した。


「――なっ……!?」


 避けたはずの圧が、既に背後に回り込んでいる。いや違う。空間ごと“選び直された”のだ。彼女が避けた未来そのものが否定され、別の結果に差し替えられている。


 衝撃。


 だが、それを受け切るよりも早く、ティナは地面を蹴っていた。吹き飛ばされる軌道すら利用し、体勢を立て直す。


 速さで負けるわけにはいかない。


 それが彼女の矜持だった。


 連続加速。加速。さらに加速。


 残像が幾重にも重なり、戦場の至る所にティナの影が現れては消える。そのすべてが実体であり、すべてが囮であり、そしてすべてが本命だ。


 だが――魔王は、動かない。


 ただ指を、ほんのわずかに傾ける。


 それだけで、ティナの“最短ルート”が切り落とされる。最も効率的な一手が、最初から存在しなかったかのように消されていく。


「くっ……!」


 速さでは届かない。


 その事実が、じわじわと現実として迫ってくる。


 ――だが、それでも止まれない。


 ティナは歯を食いしばり、さらに速度を上げた。考えるな。感じろ。思考が追いつく前に、身体を動かせ。


 その瞬間だった。


「そこまでだ」


 低く、しかし確実に戦場を貫く声が響く。


 次の瞬間、空間が“裂けた”。


 黒い影が割り込む。


「クロナ様……!」


 ティナの視界に、見慣れた背が映る。


 クロナは、片腕でその“選別”を受け止めていた。空間ごと削り取るはずの圧が、彼の腕で止まっている。いや、正確には――“喰われている”。


「面白えな、その力」


 クロナは、わずかに口元を歪めた。


 圧が、軋む。食い破られるように、魔王の力が削れていく。


 その横に、もう一つの影が立った。


「……やり過ぎだな」


 鬼王。


 その存在が現れた瞬間、空気の質がさらに変わる。圧と圧がぶつかり合い、戦場全体が震えた。


 魔王の指が、初めて止まる。


 ほんの一瞬――その“選別”が、途切れた。


 その隙を、ティナは見逃さない。


 地を蹴る。一直線に、魔王へ。


 だが、直前でクロナの腕が伸び、彼女を制した。


「下がってろ」


「ですが――!」


「お前ならわかるだろう?」


 短い言葉。しかし、それだけで理解できた。


 この領域は――まだ、自分の届く場所ではない。


 ティナは唇を噛み、しかし即座に後退する。無理に踏み込めば、今度こそ消される。それは直感ではなく、確信だった。


 魔王が、ゆっくりと指を下ろす。


「……興が削がれた」


 その一言で、圧が消えた。


 だが、それは終わりではない。


 むしろ――始まりだ。


 選別は、まだ終わっていない。


 ただ、“基準”が変わっただけだ。


 魔王の視線が、クロナと鬼王へと向けられる。


 戦場のすべてが、その二人と一体に集中する。


 ――次に選ばれるのは、誰か。

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