【第289話:禁忌、解放】
世界が、鳴った。
それは爆音でも衝撃でもない。
法則そのものが軋む音だった。
「――は?」
ヴァル=グラドが、初めて間の抜けた声を漏らす。
虚蝕域が広がり切る直前。
ルーニーは杖を掲げもせず、ただ――指を鳴らした。
「……やれやれ」
軽い調子の声。
だが、その瞬間、周囲の魔力の流れが逆転した。
吸われていたはずの魔力が、今度は吐き出される。
空間が、悲鳴を上げる。
「禁じ手ってさ」
ルーニーは一歩、前へ出る。
「使うと面倒なんだよ。後処理が」
その足元から、光でも闇でもない“何か”が広がった。
術式ではない。
魔法陣でもない。
数式のような線が、空間に直接刻まれていく。
「な……」
ヴァル=グラドが、明確に後退する。
「それは……魔術ではない」
「そりゃそうだろ」
ルーニーは肩をすくめる。
「魔術は“世界を使う”もんだ」
線が、絡み合い、立体を形作る。
「これは――」
次の瞬間。
虚蝕域が、止まった。
侵食でも、相殺でもない。
ただ、そこだけが――計算外として固定された。
「……俺が嫌いなやつだ」
ルーニーの声が、少しだけ低くなる。
「世界を信用しないやり方」
空間に刻まれた数式が、一斉に輝いた。
「禁じ手【原式展開】」
――爆ぜた。
音もなく、光もなく。
だが確実に。
虚蝕域が、折り畳まれた。
「馬鹿な……!」
ヴァル=グラドが叫ぶ。
「成立を否定する領域を、どうして……!」
「否定してないよ」
ルーニーは、笑った。
「参照してないだけ」
折り畳まれた空間が、圧縮され、
黒紫の魔力ごと――一点に封じ込められる。
大地が沈み、空気が震える。
その中心に、ルーニーは立っていた。
「俺はさ」
額から血が一筋、流れる。
「世界を前提にしない魔術が嫌いなんだ」
息が、少し荒い。
「だってそれ、魔術師じゃなくなるから」
それでも、杖は下ろさない。
「でも――」
視線が、遠く、戦場の奥を向く。
(クロナ様が前に立つなら)
(後ろは、俺が壊れる番だ)
圧縮された虚蝕域が、悲鳴のような音を立てる。
「く……っ」
ヴァル=グラドが、片膝をついた。
「この私が……術式ではない力に……!」
「勘違いすんなよ」
ルーニーは、ふっと息を吐く。
「これ、勝ち技じゃない」
数式が、さらに輝く。
「時間稼ぎだ」
その瞬間、
封じられた虚蝕域が、内部から暴れ始めた。
空間が、再び軋む。
「……やっぱ一回限界か」
ルーニーは苦笑し、膝をつく。
視界が、揺れる。
だが――戦況は、確実に変わった。
ヴァル=グラドは、立ち上がれない。
腐界魔術は、完全に止まっている。
「……覚えておけ、魔術師」
魔将が、低く言う。
「貴様は――危険だ」
「ありがと」
ルーニーは、軽く手を振った。
「褒め言葉だ」
次の瞬間、数式が砕け散り、
封印は限界を迎える。
だがその“猶予”は――
仲間にとって、十分すぎる時間だった。
ルーニーは、倒れ込む直前、心の中でだけ呟く。
(役目は果たしましたよ、クロナ様)
(後は――お願いします)
禁忌は解かれ、
戦場は、次の局面へと押し出されていった。




