【第288話:捧げる理由】
虚蝕域が、すぐそこまで迫っていた。
足元の感覚が薄れていく。
空間が、魔術師としての居場所を拒んでいる。
(……もう、時間がない)
ルーニーは息を吸い、ゆっくり吐いた。
左腕は、まだ重い。
魔力は流れない。
それでも――
思考だけは、まだ奪われていなかった。
ふと、戦場の喧騒が遠のく。
耳に届いたのは、ずっと昔の声だった。
あの日は、雨だった。
城の裏庭。
訓練場でも、執務室でもない、ただの石畳。
「……本当にいいのか?」
そう言ったのは、クロナだった。
当時の彼は、今よりずっと小さくて、
それでも、不思議なくらい強かった。
「俺のそばにいるってことは、楽な道じゃないぞ」
敵は多い。
責任も重い。
命を懸ける場面も、きっと一度じゃ済まない。
それでも。
ルーニーは、迷わなかった。
「分かってます」
そう答えた自分の声を、今でも覚えている。
「でも……だからこそです」
誰かが、支えなければならない。
剣でも、拳でもなく――頭脳で戦う者が。
「クロナ様は、前に立つ人です」
「だったら私は、後ろで考えます」
「あなたが守ろうとするものを、
“守りきれる形”にするのが、私の役目です」
クロナは、少し困ったように笑った。
「……重いな」
「承知の上です」
そう言って、頭を下げた。
忠誠でも、義務でもない。
選んだのだ。自分で。
(……あの時)
ルーニーは、今の自分を思い出す。
理論を守ってきた。
魔術師としての矜持を、大切にしてきた。
禁じ手に触れなかったのは、
「正しいから」だけじゃない。
壊れるのが、怖かったからだ。
(でも……)
虚蝕域が、再び広がる。
ヴァル=グラドは、もう目の前だ。
「まだ考えているのか」
魔将の声に、嘲りはない。
ただ、事実を述べているだけ。
「選択を先延ばしにする者から、先に死ぬ」
その言葉に、ルーニーは――
なぜか、静かに笑った。
「……違うぜ」
杖を、地面に突き立てる。
「俺は、もう選んでる」
頭の中で、禁じ手の構造式が完全に組み上がる。
危険性。
不可逆性。
そして、失われる可能性。
全部、理解した上で。
(俺は、クロナ様に尽くすと決めた)
(“魔術師として正しいか”なんて――)
今は、どうでもいい。
「守るって決めた人がいる」
「その人が、前に立ち続けるなら」
ルーニーは、まっすぐ前を見た。
「俺は、後ろで壊れる役でも構わない」
禁じ手の“入口”に、意識が踏み込む。
魔力が、ざわりと逆流した。
ヴァル=グラドの表情が、初めて変わる。
「……ほう」
「その顔……覚悟を決めたか」
ルーニーは、答えない。
ただ一つだけ、心の中で言った。
(待っててください、クロナ様)
(これは――あなたの背中を守るための選択です)
禁じ手を、使うと決めた。
もう、迷いはなかった。




