【第287話:計算外の選択】
逃げ場が、削られていく。
それは比喩ではなく、現実だった。
ヴァル=グラドの放つ虚蝕域は、地面を、空間を、そして――
ルーニーの思考領域そのものを侵食してくる。
「……っ、ここもダメか」
展開しようとした術式が、形になる前に消える。
魔力は流れている。
詠唱も正確だ。
それでも、成立しない。
まるで「この場所では魔術師であることを許さない」とでも言うように。
「焦りが見えるな」
ヴァル=グラドは、ゆっくりと距離を詰めてくる。
急がない。
殺しに来ていない。
追い詰めるためだけの歩み。
「計算を誇る者ほど、盤面を奪われると脆い」
「……余計なお世話だよ」
ルーニーは息を整えながら、周囲を見渡す。
王庭は、もはや半分以下。
残っている術式も、いつ虚蝕域に呑まれるか分からない。
(このままだと……)
敗北は、明確だ。
だが、まだ“決定打”は来ていない。
それが逆に、きつかった。
逃げ続けるしかない戦い。
反撃の目が、見えない戦い。
(私は……)
ルーニーの脳裏に、過去の言葉がよぎる。
――「その術は、使うな」
――「お前には向いていない」
――「制御できても、戻れなくなる」
魔術師として学んできた中で、
**一度だけ、はっきりと“禁じられた分野”**があった。
理論は知っている。
構築も、できる。
だが、それは――
“魔術師である自分”を壊しかねない代物。
(まだ、使う段階じゃない)
ルーニーは、そう自分に言い聞かせる。
今は耐える。
隙を探す。
その瞬間。
虚蝕域が、跳ねた。
「――っ!?」
背後。
避けきれない。
咄嗟に身体を捻るが、
左腕をかすめた瞬間、感覚が消えた。
「っ……!」
痛みすら、遅れてくる。
腕が、重い。
いや、魔力が通らない。
「その部位では、もう術は使えまい」
ヴァル=グラドの声は、淡々としている。
「腐界は、便利だろう?」
ルーニーは歯を食いしばる。
(……腕一本、封じられただけ)
だが、それは致命的だった。
魔術師にとって、
構築速度と選択肢が半分になるという意味だからだ。
残った王庭が、また一つ消える。
足元が、狭くなる。
(このままじゃ……本当に、何もできなくなる)
視界の端で、別の戦場が一瞬だけ見えた。
ティナの閃光。
イエガンの咆哮。
皆が、命を削っている。
(……なのに)
自分だけが、「使うかどうか」で立ち止まっている。
ルーニーは、杖を強く握った。
(魔術師として正しい選択?)
(それとも――)
もう一度、虚蝕域が迫る。
次は、回避できない。
その瞬間、
ルーニーの脳裏に、禁じ手の構造式が浮かび上がった。
使えば、確実に状況は変わる。
だが――代償も、分かっている。
(……使えば、私は)
魔術師として、
今まで積み上げてきた“在り方”を捨てることになる。
それでも。
杖を持つ手が、震えながらも――
術式の“入口”へと、近づいていく。
「……まだだ」
ルーニーは、小さく呟いた。
「でも……準備だけは、させてもらう」
ヴァル=グラドは、その気配を感じ取ったのか、足を止める。
「……ほう?」
魔将の目が、細く光った。
「何を選ぶつもりだ、魔術師」
答えは、まだ出ていない。
だが――
ルーニーは、もう引き返せない場所に立っていた。




