【第286話:腐界の本質】
違和感は、前触れなく訪れた。
ルーニーは、展開していた王庭術式の一部が
“抵抗せずに消えた”ことに気づき、目を見開く。
「……消えた?」
破壊ではない。
侵食でもない。
最初から、存在しなかったかのように――無に戻った。
「気づいたか」
ヴァル=グラドの声は、先ほどよりも低い。
いや、正確には――重い。
「これが、腐界魔術の本質だ」
魔将が、ゆっくりと両手を広げる。
「腐すのではない。壊すのでもない」
黒紫の魔力が、霧のように立ち上る。
だがそれは、今までのように暴れない。
静かだ。
異様なほどに。
「――“成立を否定する”」
瞬間。
王庭の一角が、ごっそり消えた。
「っ!?」
ルーニーは反射的に再構成を試みる。
だが、術式は戻らない。
「ちょ、待って……再展開できない!?」
魔力はある。
術式も組める。
なのに、置く場所がない。
まるでその空間だけ、
「魔術が存在できない領域」になっている。
「腐界魔術【虚蝕域】」
ヴァル=グラドが名を告げる。
「この領域では、術式・魔力・概念は成立しない」
黒い領域が、じわじわと広がってくる。
「……反則でしょ、それ」
ルーニーは歯を食いしばりながら、後退する。
王庭を移動させる。
展開位置をずらす。
遠隔からの構築に切り替える。
だが――
虚蝕域は、追ってくる。
「逃げ場を計算するか?」
ヴァル=グラドの声に、嘲りはない。
「無意味だ」
魔将が、一歩踏み出す。
その足元から、虚蝕域が一気に拡張した。
「っ――!」
ルーニーは咄嗟に防御術式を張る。
だが、術式は触れた瞬間、
“なかったこと”にされる。
衝撃が、直に来た。
「がっ……!」
地面を転がり、ルーニーは何とか体勢を立て直す。
息が荒い。
魔力消費ではない。
選択肢を削られている感覚が、何よりきつい。
「制御、再構築、隔離……」
ヴァル=グラドは淡々と告げる。
「貴様の魔術は、世界が“ある”ことを前提としている」
虚蝕域が、背後に回り込む。
「だが、腐界は違う」
前後を挟まれた。
「世界そのものを、否定する」
ルーニーは、歯を食いしばる。
(まずい……)
術式を置けない。
防げない。
計算する“盤面”が、消されていく。
「このままじゃ……」
額から汗が滴る。
それでも、ルーニーは杖を離さない。
「……まだ」
小さく呟く。
「まだ、詰んでない」
だが――
ヴァル=グラドの虚蝕域は、確実に距離を詰めていた。
ルーニーが、初めて明確に“追い込まれた”瞬間だった。




