【第266話:折れぬ牙、その先に】
治療室には、重い沈黙が落ちていた。
石床に横たわるイエガンの身体は、包帯と簡易の治癒陣に覆われている。呼吸は安定しているが、傷は深い。魔将の一撃は、確実に彼の命を削っていた。
クロナは、その傍らに立ったまま動けずにいた。
影は抑えられ、静かに床に沈んでいる。いつもなら自然と広がるはずのそれが、今は意識的に押さえ込まれていた。
「……」
言葉が、出てこない。
クロナの視線は、イエガンの胸元に巻かれた分厚い包帯に固定されていた。そこに刻まれた“結果”が、否応なく現実を突きつけてくる。
――守れたのか。
そう問いかけて、すぐに打ち消す。
守れた。
城は落ちていない。
民も、群れも、生きている。
それでも。
「……イエガンが、ああなる必要はなかった」
クロナは、低く呟いた。
力はあった。
喰界王として、影の王の力を束ねた喰影王として、魔将を退かせるだけの力は確かにあった。
だが、それは“クロナ一人がいる場所”だけだ。
城の外。
別の戦線。
同時に起こる複数の脅威。
そこすべてに、クロナ自身が立つことはできない。
ティナが、少し距離を置いて立っていた。
「……クロナ様」
静かな声だった。
責める色はなく、ただ事実を共有するための声音。
「魔族は、組織として動き始めています。
今回の侵入も、おそらく“試し”でしょう」
クロナは、ゆっくりと頷いた。
「分かってる」
拳を、無意識に握りしめる。
影が、わずかに震えた。
「俺がどれだけ強くなっても……
全部を一人で守るのは、無理だな」
それは、敗北宣言ではない。
現実の確認だった。
イエガンが身を張ったのは、弱かったからではない。
むしろ逆だ。
強かったからこそ、最前線に立ち、結果として深手を負った。
クロナは、その事実から目を逸らさなかった。
「……王様ってのは、前に出るだけじゃダメなんだな」
呟きは、苦笑混じりだった。
ティナは一瞬、言葉を探し、それから静かに告げる。
「クロナ様が前に立つからこそ、皆はついてきます。
ですが……支えを得ることも、王の判断かと」
クロナは、その言葉を噛みしめた。
支え。
脳裏に浮かぶのは、鬼王の姿だった。
荒々しく、だが王としての理を持ち、力を誇る存在。
軍事的友好。
限定的な協力。
その先にある、本当の意味での同盟。
これまでは、どこかで距離を取っていた。
自分がいれば足りる、と。
自分が立てば済む、と。
だが、今は違う。
イエガンの傷が、その考えを否定している。
「……鬼族との提携」
クロナは、はっきりと口にした。
その言葉に、ティナの表情が引き締まる。
「本気で、考える」
クロナはイエガンに視線を戻し、静かに続けた。
「守るために、他の力を借りる。
それを“弱さ”だとは、もう言わねぇ」
影が、床で静かに脈打った。
それは迷いではなく、決意の揺らぎだった。
クロナは、王として次の段階に足を踏み入れようとしていた。
個の力で戦う王から、
国と国を背負う王へ。
その選択が、これからの戦いを大きく変えることを――
クロナ自身が、誰よりも理解していた。




