【第246話:王域、触れ得ぬ攻防】
迎賓殿の空気が、目に見えない重さを帯びて沈んだ。
最初に動いたのは鬼王だった。踏み込みは速い。だが荒々しさはなく、長年王として戦場を見てきた者特有の無駄のなさがあった。床が軋み、衝撃が波紋のように広がる。
クロナは、その動きを正面から受け止めた。
避けない。だが、受けもしない。
一歩、半身をずらすだけで、鬼王の拳は空を切った。拳圧だけが風となって殿内を走り、柱の一部が粉を散らす。
イエガンは、歯を食いしばった。
近い。だが、近づけない。
力量の差ではない。そこには、明確な“壁”があった。踏み込もうとすれば、身体が拒絶されるような感覚。王同士の間に生まれた、不可侵の間合いだ。
ティナも同様だった。影を伸ばそうとした瞬間、それが意味を成さないと直感的に理解する。これは補佐や護衛が介入できる戦いではない。
鬼王は一撃を空振りすると、即座に距離を詰め直した。肘、膝、掌底。連続する攻撃は、どれも致命を狙わない代わりに、相手の“格”を測るものだった。
クロナはそれを、すべて最小限の動きで捌く。
影は、まだ静かだった。
喰界王の力も、奥で息を潜めている。
「……抑えているな」
鬼王が低く呟く。
「お互い様だろ」
クロナは視線を逸らさずに返した。
次の瞬間、鬼王の踏み込みが変わった。
重い。
ただ速いのではない。空間そのものを踏み固めるような一歩。床が沈み、空気が圧縮される。王として、鬼族を率いてきた年月が、そのまま力として乗っていた。
クロナは、初めて腕で受けた。
拳と前腕がぶつかり、鈍い音が殿内に響く。衝撃は互いの足元へ逃げ、床石に細かな亀裂が走った。
それでも、どちらも退かない。
「なるほど……」
鬼王の目が、わずかに細まる。
「貴様、力を誇示する気がないな」
「王の力は、見せびらかすもんじゃない」
クロナは静かに答えた。
「必要な時に、必要な分だけ使う。それで十分だ」
一瞬、鬼王の口元が歪んだ。
次の攻防は、さらに激しさを増した。踏み込み、受け、流し、返す。そのすべてが一瞬で行われ、周囲の者には残像の応酬にしか見えない。
イエガンは理解していた。
これは戦技ではない。
王として、どれだけのものを背負い、どれだけ抑えられるかを競う戦いだ。
やがて、二人は同時に距離を取った。
殿内には、破壊された形跡だけが残り、余計な音はなかった。
「……十分だ」
鬼王が、ゆっくりと構えを解いた。
「これ以上続ければ、国の客間が持たん」
クロナもまた、自然体に戻る。
「で、結論は?」
鬼王は、短く笑った。
「貴様は壁ではない」
そして、真剣な眼差しで続ける。
「我らが向き合うべき“王”だ。軽々しく刃を向けていい相手ではない」
その言葉に、イエガンとティナは息を呑んだ。
王同士の戦いは終わった。だが、それは終結ではない。
ここから先、国と国の関係が、静かに動き出す。
その予感だけが、迎賓殿に深く残っていた。




