【第243話:怒りの名目、興味の本音】
戦場に残ったのは、踏み荒らされた大地と、まだ熱を帯びた空気だけだった。
鬼族の者たちは、もはや戦う意志を失い、背を向けて散っていく。統制もなく、互いを顧みる余裕すらない。イエガンは大剣を肩に乗せたまま、その様子を冷ややかに見送った。
「……逃げる判断ができただけ、まだ命は惜しいらしいな」
吐き捨てるような声だったが、追撃の指示は出さない。ここで重要なのは、敵を殲滅することではない。越えてはならない一線を越えた結果がどうなるか――それを刻み込むことだ。
ティナは戦場を歩き、警備兵たちの状態を一人ずつ確認していく。
「落ち着いてください。大きな損傷はありません。すぐに治療班を向かわせます」
丁寧で静かな口調は変わらないが、その視線は常に周囲を警戒していた。戦闘は終わった。しかし、事態はまだ終わっていない。彼女は一度だけ、視線を高台へと向ける。
そこに、影と同化するように立つクロナの姿があった。
姿を現すことなく、しかし確実に戦場を支配していた存在。遠隔から放たれた影の力は、鬼族にとって抗いがたい“王の圧”だった。イエガンもまた、その気配を感じ取り、短く息を吐く。
「……ああ、これで十分だ」
言葉はそれだけで足りた。
クロナは戦場全体を一瞥し、影を静かに引き戻す。力を誇示するためではない。王として、示すべき境界を示しただけだ。その背中を、イエガンとティナは無言で見送った。
この一件が、ただの小競り合いで終わらないことを、三人とも理解していた。
*
鬼族領、中心部。
巨大な石柱が並ぶ広間には、重く沈んだ空気が満ちていた。玉座に腰掛ける鬼王は、報告を終えた配下を冷たい眼差しで見下ろしている。
「……つまり」
低く響く声が、広間全体を震わせた。
「我が軍に連なる者たちの中から、命を預かる覚悟も浅い連中が、我の許しなく国境を越えた――そういうことだな」
片膝をつく将は、額を深く下げたまま答える。
「はっ。いずれも下位の戦士たちです。正式な命令系統には属さず、独断で――」
「軽率にも程がある」
鬼王の声に、明確な怒りが滲んだ。玉座の周囲にひびが走り、石が軋む音が広間に響く。
「国を背負う名を、己の血の荒さで汚すつもりか。あれは戦ではない。無作法な越境だ」
鬼王は深く息を吐き、しばし沈黙する。その沈黙が、周囲の者たちにとって何よりも重かった。
「越境した者たちには、相応の裁きを下せ。二度と、我が意志を借りずに刃を振るえぬようにな」
「はっ……!」
命令を受けた将が身を強張らせる中、鬼王は背もたれに体を預けた。
その表情から、怒りだけが消えていく。
「――だが」
一言で、空気が変わった。
「グリムファングの王……クロナ」
その名を、鬼王は確かめるように口にした。
「報告では、姿を現さずに戦場を制したというな」
「はい。影を通じて戦場を制圧したとのことです。こちらが劣勢に立たされた瞬間を、正確に――」
「ほう」
鬼王の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「力を誇るでもなく、無駄に殺すでもなく、ただ越えてはならぬ線を示したか。……王としての振る舞いだ」
怒りは消えていない。だがそれとは別に、確かな興味が芽生えていた。
「喰界王にして、影を従える王。噂だけの存在と思っていたが……実在するらしい」
鬼王はゆっくりと視線を巡らせる。
「将よ」
「はっ」
「使者を立てよ。名目は謝罪だ」
将が一瞬、息を呑む。
「国境を越えた無礼について、正式に頭を下げる。その上で――」
鬼王の目が、鋭く細められる。
「グリムファングの王と、直接言葉を交わす場を設けろ。礼を尽くし、然るべき手順を踏め」
「……承知しました」
「我は、あの王をこの目で見たい」
鬼王は低く笑った。
「どこまで“王”として立っているのか。力だけの存在か、それとも国を背負う器か……確かめねばなるまい」
こうして、末端の軽挙から始まった衝突は、新たな局面へと進む。
謝罪という名を纏いながら、その本質は探り。
王と王が、真正面から向き合うための――静かな布石だった。




