【第241話:国境の火種、無秩序の牙】
グリムファング北東国境。
なだらかな丘陵に敷かれた警戒線の向こうで、空気がわずかに濁っていた。
警備兵たちは気づいていた。
この数日、同じ場所を何度も踏み荒らす足跡。
隠れる気もない、乱雑な侵入。
「……来たぞ」
岩陰から現れたのは、数名の鬼族だった。
隊列はなく、歩き方もばらばら。
視線は落ち着かず、興味本位で周囲を見回している。
「止まれ。ここはグリムファングの国境だ」
警備兵の声が張る。
だが、鬼族の一人が口の端を歪めた。
「国境? 誰が決めた?」
そう言って、あっさりと線を越えた。
警備兵が前に出る。
制止しようと腕を伸ばした、その瞬間だった。
拳が飛んだ。
鈍い音が響き、警備兵の身体が横へ吹き飛ぶ。
地面を転がり、動かなくなる。
「――っ!」
周囲の警備兵が一斉に構える。
「何をする!」
「侵入と暴行を確認! 応戦準備!」
だが鬼族たちは笑っていた。
「弱ぇな」
「これで国とか言ってんのか?」
完全に、遊び感覚だった。
高台からその様子を見下ろし、クロナは動かない。
黒翼も、影も、沈黙したままだ。
(……末端の暴走)
だからこそ、ここで王が出る意味はない。
イエガンはすでに歩を進めていた。
「クロナ様、警備兵だけでは押されます」
「分かってる。…イエガン、ティナ」
短く、はっきりとした返答。
イエガンは深く一礼した。
「承知いたしました」
その横で、ティナも静かに息を整える。
「致命傷は避けます。ですが……抑えきれる保証はありません」
「構わん。まずは止めろ」
二人が前線へ出た瞬間、鬼族の一人が気づいた。
「おい、なんか来たぞ」
「今度は少し強そうだな?」
イエガンは剣を抜かない。
盾を構え、警備兵の前に立つ。
「これ以上、我が国の兵に手を出すことは許可できません」
声音は低く、揺れがない。
鬼族の一人が鼻を鳴らした。
「だったら、どうする?」
返答はなかった。
次の瞬間、鬼族が踏み込む。
腕が振るわれ、爪が光る。
ガンッ、と音が鳴った。
イエガンの盾が正面から受け止める。
衝撃が地面へ逃げ、土が弾ける。
「……っ!」
鬼族が一瞬、目を見開いた。
「硬ぇ……!」
その隙に、ティナの影が地面を滑った。
足首に絡むほどではない。
だが、踏み込みを狂わせるには十分だった。
体勢を崩した鬼族の脇腹に、イエガンの盾打ちが入る。
鈍い衝撃。
鬼族が吹き飛び、地面を転がる。
「――やりやがった!」
残りの鬼族が一斉に動いた。
統制はない。
だが数だけはある。
左右から、正面から、好き勝手に襲いかかる。
イエガンは一歩も引かない。
盾で受け、体で押し、警備兵の前線を死守する。
ティナはその背後で、影を細く操る。
絡め取らず、斬らず、ただ“邪魔をする”。
だが鬼族は止まらない。
「おもしれぇ!」
「殺さなきゃいいんだろ!」
戦いは、完全に始まっていた。
高台でクロナは、じっとその様子を見ている。
(……これで引く連中じゃない…か)
だからこそ、ここからが本番だ。
国境に落ちた火種は、
まだ燃え始めたばかりだった。




