【第232話:影陣、群れを護る王威】
夜森の縁に、火の光が見えた。
それは敵のものではない。グリムファングの見張りが焚いた、控えめな篝火だった。
クロナは足を止め、遠目にその光を確認する。
その瞬間、影が先に反応した。
足元から広がる黒が、森の起伏に沿って薄く伸びる。意識して動かしたわけではない。だが影は、篝火を中心とした円を描くように、自然と陣を組み始めていた。
「……おい」
クロナは小さく声を漏らす。
影は止まらない。命令も合図もなく、群れの周囲へと配置されていく。
見張り役のゴブリンたちが、異変に気づいた。
「な、なんだ……地面が……」
「影が……増えて……?」
ざわめきが広がる前に、イエガンが一歩前へ出た。
剣を抜くことはない。ただ、空気を制するように声を張る。
「慌てるな! クロナ様の御力だ!」
その一言で、群れは踏みとどまった。
影はなおも広がり、木々の根元、岩陰、見張り台の足元へと染み込んでいく。
クロナはゆっくりと歩み寄り、篝火の手前で止まった。
群れの全員が、無意識のうちにクロナへ視線を集めている。
「……敵が来る」
断言だった。
予感ではない。影が、すでに“触れて”いる。
その直後だった。
森の奥、影の濃い一帯から、空気を削るような気配が走った。
数は多くない。だが、質が違う。
「外側の獣……いや、違う」
クロナは目を細める。
闇に紛れて進んでくるのは、影をまとった異形の影狼だった。身体は半ば実体、半ば影。森の夜に溶け込むように迫ってくる。
通常なら、見張りを抜かれていた。
だが――
影が、動いた。
群れの外縁に張り付いていた影が、地面からせり上がる。
壁ではない。柵でもない。
“立ち上がった影”が、影狼の進路を狂わせた。
ギャッ、と短い悲鳴。
足を取られ、体勢を崩した一体に、見張りの投槍が突き刺さる。
「なっ……当たった!?」
「影が……止めた!?」
混乱は一瞬で、すぐに理解へ変わる。
影が敵を“押さえている”のではない。
敵の影を、影として絡め取っている。
クロナはその様子を、動かずに見ていた。
(……防いでる)
喰界王の力のように、喰らう必要はない。
影の王の力のように、支配を誇示する必要もない。
ただそこにある影が、「ここは王の領域だ」と告げている。
残った影狼たちは、境界を越えようとして、足を止めた。
見えない線が、確かに引かれている。
「……退いてる」
クロナの口から、静かな声が漏れた。
影狼は唸り声を上げ、やがて森の奥へと溶けていく。
追撃は必要なかった。
篝火の周囲に、静寂が戻る。
群れの者たちが、恐る恐る影を見下ろす。
だが影は、もう牙を剥いていない。ただ、そこにあるだけだ。
イエガンが、深く息を吐き、クロナへと向き直る。
「……群れを、囲っておりますな。
これは……防衛陣……」
ティナもまた、影の流れを見つめていた。
その表情に、怯えはない。むしろ、確信に近い光がある。
「影が……クロナ様を中心に、自然と……
まるで……王の御座のようです……」
その言葉を聞いた瞬間、クロナの中で、何かが噛み合った。
喰界王として喰らい、
影の王の力を宿し、
そして今――
群れを護るために、影が“場”を作っている。
クロナは、ゆっくりと息を吸った。
影が、応えるように静かに脈打つ。
「……ああ」
その声は、低く、だが揺れていなかった。
「これは……力じゃねぇ」
一歩、前へ出る。
影は自然と道を開いた。
「群れを護るための……」
クロナは、はっきりと口にする。
「――王の力だ」
その宣言に、影が一斉に沈黙した。
否定も、抵抗もない。
ただ、完全な服従が、そこにあった。
グリムファングの夜は、静かに続いていく。
だがその静けさは、もはや脆いものではない。
影に護られた群れの中心で、
クロナは確かに、一段上の領域へと足を踏み入れていた。




