【第231話:影を踏み、牙を重ねる】
外側の世界の夜は、静かすぎた。
夜森を越えてなお、風は弱く、虫の声も少ない。まるで影そのものが音を飲み込んでいるようだった。
クロナは歩みを緩め、周囲へ意識を広げる。
敵の気配はない。だが、“何か”がこちらを避けている感覚だけが、薄く残っている。
「……来ない、か」
呟いた瞬間、足元の影がわずかに揺れた。
否定ではない。警告に近い反応だった。
クロナは立ち止まり、腰を落とす。
喰界王としての感覚を抑え、意識を影へと寄せていく。喰らう力ではなく、影の在り方を“感じ取る”ように。
――どこだ。
問いかけに応じるように、影が細く伸びた。
地面を這い、岩陰へ、さらにその奥へと静かに続いていく。
「……案内してるな」
クロナの口元が、わずかに歪む。
命令していない。だが、影は最適な距離を保ち、過剰にも不足にもならず、情報だけを差し出してきている。
後方で、イエガンが息を潜めた。
「……クロナ様。前方、影の密度が異常です」
「分かってる」
クロナは短く答え、影の伸びる先を見据えた。
次の瞬間、闇が跳ねた。
地面から立ち上がるように現れたのは、獣の形をした影の集合体だった。輪郭は曖昧だが、牙と爪だけははっきりしている。夜に溶けきれなかった、外側の世界の残滓。
「……雑魚、ってわけでもねぇな」
影獣は唸りもせず、一斉に距離を詰めてくる。
速い。だが、動きは単調だ。
クロナは跳ばない。
迎撃の姿勢も取らない。
ただ、足元の影へ意識を落とした。
次の瞬間、クロナの影が“立ち上がった”。
黒い面が地面から盛り上がり、獣の進路を塞ぐ。
衝突。影獣の動きが一瞬、鈍った。
「……止まる、のか」
驚きは、ほんの一瞬。
すぐに理解が追いつく。
影は、影に干渉できる。
だがそれは、力で押さえつけた結果じゃない。
“影としての優先権”を、クロナが持っているだけだ。
「……なら」
クロナは踏み込む。
影獣の懐へ、一直線に。
拳に集めるのは、喰界王の力。
だが、狙いは影獣そのものではない。
影だ。
ドンッ、と鈍い衝撃。
影獣の核となっていた影の束が砕け、霧のように散った。
残った影は、逃げない。
消えもしない。
クロナの足元へ、自然に集まってくる。
「……吸収、じゃねぇ」
喰らってはいない。
それでも影は、拒まず、従っている。
イエガンが、静かに息を呑んだ。
「……影が……クロナ様の影へ……」
「……ああ」
クロナは拳を開き、影の流れを感じ取る。
喰界王の力は、獲物を選ばない。
だが、影の王の力は違う。
“影として成り立つもの”だけが、自然と残り、整えられていく。
「……これが、洗練か」
力を振るう感覚ではない。
世界の一部を、自分の“影域”として扱う感覚。
クロナはゆっくりと立ち上がる。
影は足元で静まり、先ほどよりもはっきりと輪郭を持っていた。
「……まだ荒いが」
確かな手応えが、そこにあった。
喰界王として喰らい、
影の王として影に認められる。
その二つが、ようやく同じ地平に立ち始めている。
夜は、まだ終わらない。
だが、影はもう、クロナの背を裏切らなかった。




