【第230話:影を率いる背、王の名を待つ夜】
夜森を抜けた先、外側の世界の空気はわずかに乾いていた。
血と影が混じった戦場の匂いは薄れ、代わりに冷えた土と草の匂いが肺に入ってくる。
クロナは歩きながら、無意識に背中の黒翼をたたんだ。
戦闘時ほど大きくは広げていない。それでも翼は消えず、影と肉体の境目なく、そこに在り続けている。
喰界王としての力。
そして、影の王を喰らったことで芽生えた、別の“支配”。
その二つが、今はまだ重なりきらず、互いの輪郭を探るように内部で静かに軋んでいた。
「……妙だな」
クロナは小さく呟いた。
歩調は変えていない。だが、影の動きが明らかに変わっている。
木々の影、岩の影、自分自身の影――それらが視界の端で、ほんのわずかに揃って動く。
命じてはいない。
意識を向けただけだ。
「……ついてきてる、って感じか」
影は答えない。
だが、否定もしなかった。
後方で、イエガンが足を止める気配がした。
次いで、低く、抑えた声。
「……クロナ様」
「どうした」
クロナは振り返らずに応じる。
「この先……影が、道を示しているように見えます」
その言葉に、クロナは初めて立ち止まった。
視線を前方へ向けると、確かに影の濃い部分が自然と道の端に寄り、進行方向を空けている。
まるで――
「……王の通り道、ってやつか」
冗談めかした言葉だったが、胸の奥は静かにざわついた。
喰界王として、喰らった力は“自分の中”にある。
だが、影の王の力は違う。外に在る影が、自分を“主”として認め、動いている。
イエガンは一歩前に出ることなく、慎重に言葉を選んだ。
「……恐れながら申し上げます。
影が、クロナ様を中心に……秩序を持ち始めているように見えます」
秩序。
その言葉に、クロナは短く息を吐いた。
「支配、じゃねぇのが救いだな」
喰界王の力は、喰らい、取り込み、発展させる力だ。
奪うことはできる。だが、従わせることを本質とはしていない。
それなのに、影は――
「……俺に合わせてる」
クロナは、自分でも驚くほど落ち着いた声でそう言った。
影の番人を取り込んだ時。
影の王の力が流れ込んだ時。
あれは“上書き”ではない。
喰界王としての器に、影の在り方が溶け込んできた結果だ。
だからこそ、暴れない。
だからこそ、拒まれない。
クロナは歩き出す。
影は自然にそれに続き、道を整え、闇を深め、そして守る。
「……まだ名乗る段階じゃねぇな」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
今はまだ、喰界王でいい。
影を喰らい、影を使い、影に認められただけだ。
だが――
胸の奥で、確かな予感が脈打っている。
いつか、この二つの王の力が完全に重なった時。
その時は、もう“別々”ではいられない。
夜は深く、影は静かだ。
だが、その静けさは、嵐の前のものではない。
王が名を選ぶ、その時を待つ沈黙だった。




