【第218話:幻層の脈路、揺らぐ影の根】
幻層の深部を進むにつれ、空気は徐々に重たくなっていった。
まるで湿った布を何枚も重ねて胸に押し当てられているような圧迫感があり、息を吸うたびに影の粒が喉を滑っていく感覚が残る。
クロナはそれを嫌がるでもなく、むしろ当然のように受け入れて歩き続けた。
黒翼の端が時折ふるりと震え、周囲の霧と影を払うたび、道とも呼べない空間がわずかに拓ける。
ティナは影の揺らぎを読み取るように視線を巡らせていた。
「……奥へ進むほど、“脈”がはっきりしてきます。幻層はただの異空間ではなく……いまは核の残滓が中心となって、半ば生きた構造を保っています」
イエガンもその言葉に頷く。
「昔読んだ記録に……影界が極限まで歪んだとき、“層”そのものが生命の形を模倣する、とありました。これは……まさにそれでしょう、クロナ様」
クロナはただ「ふーん」と低く声を漏らし、足を止めずに進んだ。
そのとき、地面の膜が急に沈んだ。
足元が脈動し、次の瞬間——影の根のような黒い線が、無数に走り出した。
それは地面を割って伸び出すのではなく、膜そのものからにゅるりと“生え”、生き物の触手のようにうねりながら三人へ向けて蠢く。
ティナが杖を構える。
「来ます……!」
イエガンはクロナの前に半歩出た。
「御身をお守りします、クロナ様!」
だが——クロナは手を伸ばして二人を制した。
「いや……これはただの“反応”だ」
影の根が一斉に襲い掛かる。
クロナはその中心に踏み込んだ。
黒翼が横に広がり、刃のように影を裂く。
バシュッと乾いた音を立てて根が切断されるが、断面からすぐに別の影が伸び、また形を成す。
切っても切っても再生し、幻層の“呼吸”と連動して脈打っている。
ティナは即座に分析を口にした。
「クロナ様、これは……核の残滓に引き寄せられているのでしょう。こちらの影に反応して……」
「じゃあ、向こうの誘導ってわけか」
クロナは軽く笑う。
「なら、望み通りに行ってやるよ」
次の瞬間、クロナは地面に手を突き刺した。
影が爆ぜた。
黒い波紋が広がり、幻層の地面全体が一瞬だけ震える。
影の根はクロナの影の圧に押し返され、ざわざわと音を立てながら後退した。
ティナが目を見張る。
「……幻層の“脈”が、クロナ様の影を避けています……!まるで——」
「俺を中心に、形を変えてるな」
クロナは立ち上がった。
踏みしめた地面は、先ほどより静かだ。
まるで彼の存在を受け入れたかのように。
イエガンは驚きと敬意を隠さず言葉を漏らす。
「……さすがでございます……。外側の世界すら……クロナ様の影に道を譲るのですな……!」
クロナは肩を回し、森の奥へ視線を向けた。
「さ、行くぞ。
この揺れ……向こうに“本命”がいる」
幻層の奥で、さらに深い脈動が響く。
森の影がざわめき、まるで心臓の鼓動のように震えた。
クロナたちはその呼び声へ向け、再び歩みを進めた。
幻層は揺れ、影の森は道を成し、彼らを奥へ奥へと誘う。
決戦の中心へと——確実に。




