【第212話:黒核の震え、喰界に走る鼓動】
空間は、壊れた音を引きずりながら歪み続けていた。砕けた床の下からは赤黒い光がにじみ出し、骨組みのような壁は生き物の皮膚のように脈打ち、場そのものが巨大な心臓の内部と化している。
クロナは空中で身を翻しながら、黒翼を大きく打ち鳴らした。衝突の余波で空気が波打ち、背後に引いた影が尾を引くようにのびていく。胸の奥に息苦しいほどの熱がこみ上げ、それは喰界王の力が暴れ出そうとする合図でもあった。
黒核は、確かに揺れていた。
拳を叩き込まれた中心部分に細かな亀裂が走り、ひび割れの奥からどす黒い光が漏れている。それでも核はなお輝き続け、その鼓動はむしろ先ほどよりも強く、周囲の闇を引き寄せるように脈動していた。
『……まだ……終わらぬ……』
声は、もはや口から出たものではなかった。壁から、床から、空気そのものから響いてくる。三本の腕がだらりと下がった“本体”の胴体がゆっくりと持ち上がり、その内部で黒い靄が渦を巻く。
ティナは思わず一歩踏み出しそうになり、それを必死にこらえた。
「……クロナ様……」
喉の奥で小さく響いた声には、不安と祈りの両方が混ざっていた。影は彼女の足元からぶれることなく伸び、彼女の意思と完全に重なっている。かつて奪われていた“存在としての影”は、もう完全に戻っていた。
イエガンは歯を食いしばり、拳を握り締めていた。
「……御身……どうかお気をつけてください……クロナ様……!」
クロナは、それらの声を背に受けながらも、振り返らなかった。視線は黒核から一瞬も外れず、全身にまとった影が風のようにざわめく。
クロナは地面に着地した。
砕けた床を踏みしめ、ゆっくりと腰を落とす。構えは低く、獣が飛びかかる直前のそれに近い。黒翼は大きく広がり、空間全体の闇と繋がるように静かに揺れていた。
「……まだ……生きてやがるな」
低く呟きながら、クロナは口元を歪めた。
黒核が応えるように強く光り、次の瞬間、胴体の裂け目が大きく広がった。内側から無数の黒い“線”が飛び出し、鞭のように空間を裂く。
ドガッ!と空気が裂ける音。
床が削れ、壁が砕け、黒い線がクロナの頭上をかすめていく。
クロナは跳んだ。
一歩踏み込み、真横へ身体を流し、影を足場にするように空中で踏み替える。翼を打ち下ろしながら距離を詰め、裂けた胴体の真正面へと躍り出た。
喰界王の力が、腕の奥で静かに唸る。
暴れ叫ぶような力ではない。積み上げてきた、喰らってきた力が、骨や血に馴染んだ重たい手応え。
クロナは拳を握り締めた。
「……逃げ場は……ここしかねぇぞ」
黒核が、さらに大きく脈打つ。
空間の歪みが急激に強まり、まるで世界そのものが呼吸を止めたように静まり返った一瞬。
クロナは踏み込んだ。
床を蹴る音が空間を突き破り、影が一斉に後方へと引き千切れる。
拳は、まっすぐに。
黒核へと向かっていった。
衝突は、まだ先だ。
だが、確かに世界はその一瞬を待っているように静まり返っていた。
決着への距離は、確実に縮まっていた。




