【第193話:裂け目の正体、外側の来訪者】
裂け目は小さかった。
森の奥、ひっそりと開いた黒い口から、薄い煙のような影が漏れていた。だがそれが油断のもとだった。
裂け目から出てきたのは、一匹の「幼体」。
体長は人のこぶしほどで、形はぐにゃりと変わる。顔のようなものはない。しかしその動きは素早く、頭の良さを感じさせた。
「クロナ様、あれは……!」
ティナの声が震える。影は言葉を持たない。
だが、こちらの空気を掬うように近づき、仲間たちの視界をかすめていく。触れられた木の葉が黒く変わり、そこから小さな瘴気が立ち上る。刃はただの空気を切るように空を裂き、当たらない。
「動くな!」
イエガンが叫び、牙部隊が突入する。
だが幼体は逃げる。姿をくねらせ、木々の間を縫うように走る。追えば追うほど、奴は罠を仕掛ける。踏んだ場所が崩れ、根が突然動いて足をすくう。地面から細い棘が飛び出し、隊の足を止める。幼体は笑うように、じわりと距離を詰める。
クロナは息を整え、黒核を高鳴らせる。胸の中の喰いの衝動が熱くなる。だが今回の相手は「喰らうだけ」では片付かない。幼体は逃げることで時間を稼ぎ、本体の居場所へ仲間を誘導するタイプだ。もし本体が現れれば、こいつら一体では済まない。
「ティナ、イエガン、俺が囮になる。奴をおびき出して、場所を限定する!」
「承知しました、クロナ様!」
ティナは即座に返す。眼差しに迷いはない。イエガンも頷いて、牙を鳴らす。
クロナは黒翼をたたみ、敢えて遠くへと走り出した。幼体はそれを追った。相手の罠が次々と発動する。倒木が急に動き、藪が竜巻のようにうねる。クロナはそのひとつひとつを躱しながら、わざと跡を残す。追跡線を作り、仲間が後から安全に追えるように――作戦だ。
だが幼体は狡猾だ。ある瞬間、黒い霧が谷を満たし、視界を奪った。クロナの足元で地面が抜けかけ、彼はバランスを崩す。幼体はそこに潜み、飛び上がって噛みつくような体勢をとる。クロナは咄嗟に黒核を爆発させ、霧をはじき飛ばした。黒の奔流が蹴散らされ、幼体が宙に弾き出される。
「喰うぞ!」
クロナが叫び、拳を振り下ろす。幼体は回避動作を見せるが、黒核の一撃が追いついた。体が弾け、黒い粒子が弧を描いて空中を漂う。だがその粒子は完全に消えない。むしろ、地面に落ちると瞬時に小さな黒い芽となり、裂け目の方へ向かって這い出した。
「くそっ!」
イエガンが叫ぶ。幼体を一匹潰しても、種は残る。小さな芽は裂け目へと帰ろうとする。そこへ吸い込まれれば、また新たな幼体が生まれるかもしれない。クロナは咬んだ拳を引き寄せ、胸の黒核を強く握る。
「奴らは逃げる罠師だ。一匹壊しても、種を絶たねぇと終わらねぇ」
「では、どうすれば……?
」ティナが問い、声が震える。
「根を見つけろ。根を叩く。俺が焦らせるから、イエガンは裂け目の周りを固めろ。ティナは残り香を追跡して、根の位置を示してくれ」
指示は簡潔だ。仲間たちは即座に動く。牙が裂け目を囲み、ティナは地面に手を当て、小さな黒い痕跡を探る。そこにあるのは“生き物の匂い”ではない。もっと冷たい、計算された息遣いだ。
「見えました、クロナ様。こちらです」
ティナが指差す先、裂け目の側面。黒い粘膜のようなものが床に貼りつき、そこから細い根が伸びていた。根は生温く、吸い付くように動いている。
クロナは息を整え、翼を広げる。今回は喰うだけじゃない。根を一気に切り裂く必要がある。黒核が重く脈動し、彼の身体を満たす力が牙のように尖る。大きく踏み込み、空気を切って跳び上がる。
「今だ、イエガン!」
クロナの合図で、牙部隊が一斉に剣を振るう。剣が根に当たり、黒い粘膜がはがれ飛んだ。裂け目が揺れ、そこから不穏なうめき声が漏れる。小さな芽が次々とくしゃりと崩れ、裂け目は縮んでいく。
幼体の一匹が、最後に悲鳴のような高い声をあげる。だが、その声は裂け目の奥で吸い込まれ、闇に溶けていった。裂け目は完全には閉じなかった。だが活動は弱まった。クロナの黒核は強く脈打ち、喰ったものがゆっくりと彼の中で収まっていく感触があった。
ティナが膝をつき、顔を上げる。
「クロナ様……みなさま、大丈夫ですか?」
「問題ない。だが、油断はできねぇ。あいつらは隠れ足が速い。完全に根絶するにはもっと調べる必要がある」
「承知しました、クロナ様」
夜はまだ深い。裂け目は小さな傷を残したが、そこから漏れた黒は次第に薄れていった。だがクロナの胸の黒核は、以前より確かに重くなっていた。喰らった相手の“器用さ”と“狡猾さ”が、彼の中で新しい棘となっている。
「これで終わりじゃねぇ。奥に本体がいるはずだ。奴らは囮だ」
クロナが低く言うと、仲間たちの視線が固まる。裂け目の暗がりが、まるで何かを食べる前の深呼吸をするかのように、静かに息を吸った。




