【第177話:歪む残響、喰界の胎動】
廃都の中心――崩れ落ちた尖塔の群れが、沈黙のまま黒い霧に溶けていた。
そこに立つクロナの背には、淡く脈打つ紅黒の光が滲んでいる。
空気は凍てつき、世界の輪郭さえ曖昧だった。
その前方に、影の王がいた。
姿は完全ではなく、形を保つこともできぬ“残滓”――それでもなお、空間そのものがひび割れるほどの存在圧を放っていた。
『喰らう者よ。貴様は何を求める?』
低く、波のように広がる声。
クロナは応えず、ただ一歩踏み出す。
ティナの影が消えたまま――
“視えるのに、存在しない”という異様な状態が、彼の中の何かを明確に変えていた。
「お前は、影を喰らうんじゃない。定義を喰らうんだな」
『定義――そう呼ぶか。存在は概念の束、名を失えば形は崩れる。
我は“存在を削る者”。光が生まれぬ限り、影は絶えぬ。』
「……なら、俺は“喰らう者”。
お前が奪った“概念”を喰って、別の形に発展させる。」
影の王の眼孔の奥で、赤い光が瞬いた。
『喰らい、発展させる? 滑稽だな。喰らうとは、失わせること。
貴様は私と同じだ。違うふりをするな。』
「同じなら、ティナの影はもう戻らない。……でも違う。
俺が喰うのは“力”だ。お前のように“存在”そのものは奪わない。」
空気が裂けた。影の王が指先を動かすだけで、廃都の地面が反転し、
灰の砂が天へと流れ出す。
塔の残骸が浮き上がり、影の波がクロナを飲み込もうとした。
だが、次の瞬間。
クロナの足元に円環が走った。
紅と黒の紋様が絡み合い、地を這うように広がっていく。
それは“喰界”――彼の内に宿る異界の反応だった。
「喰界王の名にかけて、ここで見せてやる。
“喰う”とは、奪うことじゃない。“受け継ぐ”ことだ。」
影の奔流が彼を呑み込む。
だが、霧の中で音がした。何かが軋む音――喰らわれる音だった。
影の王の表情が、わずかに歪む。
『……何を、している?』
「お前の力を、喰っている。」
クロナの左腕が黒く染まっていく。
影を喰らいながら、その“定義”を塗り替える。
――奪うのではなく、変換する。
喰界王の力は、他の存在の能力を“別の形へと発展させる”特異な系譜だった。
黒と紅が渦を巻き、地が震えた。
塔の断片が崩れ、空が逆さに流れる。
影の王の輪郭が揺らぎ、声が軋む。
『……理解した。貴様の喰界は“喰らいの果て”。
概念を削る私とは対極……しかし、それゆえに――危険だ。』
「危険? お前の言葉で聞くと、褒め言葉に聞こえるな。」
黒い残滓が爆ぜ、影の王は霧となって退く。
ティナが膝をつき、震える声で問う。
「……クロナ様……」
「逃げたな。まだ完全じゃない……だが――」
クロナは自らの左腕を見た。
黒い紋様がゆっくりと沈み込み、皮膚の奥で蠢いている。
“影の王”の一部――喰らい、取り込んだ証。
「これが、“喰界王”の真なる胎動か……」
彼の声は低く、だが確かな決意を帯びていた。
イエガンが一歩前に出る。
「クロナ様、これで……奴の力を一部取り込んだと?」
「そうだ。だが代償もある。奴の残滓が……俺の中でまだ蠢いている。」
風が吹き抜ける。
遠く、廃都の空にひとつの影が残った。
それはまるで、次なる災厄の胎動のように。
――影と喰界、二つの王の系譜が、ついに交わり始めた。




