【第135話:記憶の綻び】
午前零時を過ぎたオフィスには、蛍光灯の白々とした光だけが残っていた。
黒川圭は画面を睨みながら、硬い指先でひたすらキーボードを叩いていた。
同僚たちはとっくに帰り、フロアに残るのは彼と数人の疲れ切った影だけだ。
書類の山、散乱するコーヒーカップ、微かに焦げたプリンターの匂い。
すべてが圭にとっては慣れきった光景――のはずだった。
ふと、視界の端でモニターが一瞬だけちらついた。
その刹那、意味のないはずの模様が走り、まるで鋭い牙を持つ影が一瞬こちらを睨んだように見えた。
「……っ」
心臓が跳ねる。だがすぐに映像は元に戻り、ただの数字の羅列が画面に並んでいるだけ。
「……疲れてるんだ、俺」
苦笑して、再び仕事に没頭しようとする。
だが背筋に冷たい汗が伝っていた。
その夜、帰路についたときも違和感は拭えなかった。
電車の窓に映る自分の顔――疲れ切った黒川圭。
だが、その輪郭の影が、別の「誰か」の面影に重なった気がした。
人間ではない、もっと異形で……それでいて気高い何者か。
「……俺は、誰だ?」
口にした瞬間、胸の奥で鈍い痛みが広がった。
すぐに頭を振り、無理やり忘れようとする。
日常に戻らなければ、考えてはいけない、と。
翌日。
上司に怒鳴られながら、圭は資料を抱えて走り回る。
昼休憩も取れず、ただ与えられたタスクをこなすだけの時間。
だが――廊下の窓から差し込む陽光に目を細めた瞬間、不意に胸が揺れた。
森を駆ける風の匂い。
炎に煌めく刃。
仲間と呼べる誰かの声。
知らないはずの光景が、鮮烈に胸を打った。
「……あれは、夢か……?」
圭は呟く。
だが夢にしては、あまりにも生々しい。
名前も、姿も掴めない。けれど確かにそこに「絆」があったと、魂が訴えていた。
気づけば指先が震えていた。
落ち着こうとポケットに手を突っ込む。
その時――何も入っていないはずのスーツの中で、微かに冷たい感触を覚えた。
取り出そうとした瞬間、上司の怒声が響く。
「黒川ぁ! まだか!」
「……はいっ!」
慌てて駆け出す。
だが胸の奥に残った「冷たい感触」が、圭を苛むように消えなかった。
忘れられぬ何かが確かにある。
その綻びは、日常という繭をゆっくりと食い破りつつあった。




