表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

136/187

【第135話:記憶の綻び】

 午前零時を過ぎたオフィスには、蛍光灯の白々とした光だけが残っていた。

 黒川圭は画面を睨みながら、硬い指先でひたすらキーボードを叩いていた。


 同僚たちはとっくに帰り、フロアに残るのは彼と数人の疲れ切った影だけだ。

 書類の山、散乱するコーヒーカップ、微かに焦げたプリンターの匂い。

 すべてが圭にとっては慣れきった光景――のはずだった。


 ふと、視界の端でモニターが一瞬だけちらついた。

 その刹那、意味のないはずの模様が走り、まるで鋭い牙を持つ影が一瞬こちらを睨んだように見えた。


「……っ」


 心臓が跳ねる。だがすぐに映像は元に戻り、ただの数字の羅列が画面に並んでいるだけ。


「……疲れてるんだ、俺」


 苦笑して、再び仕事に没頭しようとする。

 だが背筋に冷たい汗が伝っていた。




 その夜、帰路についたときも違和感は拭えなかった。

 電車の窓に映る自分の顔――疲れ切った黒川圭。

 だが、その輪郭の影が、別の「誰か」の面影に重なった気がした。

 人間ではない、もっと異形で……それでいて気高い何者か。


「……俺は、誰だ?」


 口にした瞬間、胸の奥で鈍い痛みが広がった。

 すぐに頭を振り、無理やり忘れようとする。

 日常に戻らなければ、考えてはいけない、と。




 翌日。

 上司に怒鳴られながら、圭は資料を抱えて走り回る。

 昼休憩も取れず、ただ与えられたタスクをこなすだけの時間。


 だが――廊下の窓から差し込む陽光に目を細めた瞬間、不意に胸が揺れた。

 森を駆ける風の匂い。

 炎に煌めく刃。

 仲間と呼べる誰かの声。


 知らないはずの光景が、鮮烈に胸を打った。


「……あれは、夢か……?」


 圭は呟く。

 だが夢にしては、あまりにも生々しい。

 名前も、姿も掴めない。けれど確かにそこに「絆」があったと、魂が訴えていた。


 気づけば指先が震えていた。

 落ち着こうとポケットに手を突っ込む。

 その時――何も入っていないはずのスーツの中で、微かに冷たい感触を覚えた。


 取り出そうとした瞬間、上司の怒声が響く。


「黒川ぁ! まだか!」


「……はいっ!」


 慌てて駆け出す。

 だが胸の奥に残った「冷たい感触」が、圭を苛むように消えなかった。


 忘れられぬ何かが確かにある。

 その綻びは、日常という繭をゆっくりと食い破りつつあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ