【第115話:絶望をも呑み返す牙】
空気そのものが震えていた。大地がひび割れ、天を覆う闇が奔流となって渦を巻く。解き放たれた“喰界王”の真の力は、まるで世界の理を食い破るかのように膨張し、押し寄せる圧が戦場を呑み込んでいく。
その中心で、喰界王の肉体はさらに異形へと変貌していた。幾重もの顎が重なり、背からは触手とも刃ともつかぬ影の翼が伸び、口々からは飢餓の呻きが漏れる。その姿を目にしただけで、牙部隊と爪部隊の兵たちは膝を折りかけた。
「――喰う……すべてを、我が空腹に」
その咆哮は、存在そのものを噛み砕かれる幻覚を伴って群れを襲う。恐怖に息を奪われ、血を吐く者まで出た。だが、その中でただ一人、クロナだけが歩を進めた。
地を蹴るたびに、彼の脚から生じる黒炎が大地を焼き裂く。背後にはティナやイエガンの視線が突き刺さる。誰もが心臓を握り潰されそうな圧に耐えながら、それでも彼の背を信じていた。
「……クロナ、行け……! 俺たちの力は、もう渡してある……!」
「忘れないで、あなたは群れの希望。私たちが繋いできたものを、喰われるわけにはいかない!」
仲間の声を背に受け、クロナは静かに瞳を細める。内に宿る精霊たちの力がざわめき、異形の身体に脈打つ。獣の咆哮と人の意思がひとつとなり、クロナは顎を開いた。
「――喰うのは……俺だ!」
次の瞬間、黒炎が嵐となって解き放たれた。
“喰界王”が振るった闇の触手と衝突した瞬間、空間がひしゃげ、爆ぜる。影の奔流が押し寄せるたび、クロナの牙が食らい、飲み込み、逆流させるように黒炎を吹き荒らした。
力は拮抗していた。だが、クロナの中にあるものは“喰う”というただの欲望ではなかった。仲間を守るための執念、奪われ続けた世界への怒り、そして群れが託した誇り。
喰界王が咆哮する。
「戯言を……我は喰界王! 貴様ごときが、我を呑み返すなど――!」
「試してみろよ」
クロナの全身から噴き出す黒炎が巨大な獣の顎を形作り、天を覆うほどに開かれる。炎の顎と、喰界王の影の顎が正面からぶつかり合い、天地を裂く轟音を響かせた。
轟撃。
光と闇が拮抗する中、クロナの背後に群れの声が重なる。牙部隊の雄叫び、爪部隊の祈り、ティナの叫び。全てが力となって黒炎へ注ぎ込まれる。
「俺は……仲間を喰わせないッ!」
炎の顎が、影の顎を噛み砕いた。
喰界王の巨体がたじろぎ、膨張する闇が押し返されていく。初めて、群れが絶望に押し潰されることなく、確かな「反撃」の手応えを感じた瞬間だった。
その光景に、喰界王の眼が赤く燃え上がる。怒り、狂気、そして飢餓を超えた本能が彼をさらに駆り立てる。
「小僧……! その牙、折り砕いてくれる!」
次なる衝突を予感させる咆哮が、戦場を震わせた。クロナは構えを崩さぬまま、血を滾らせ、応えるように笑みを浮かべた。
「上等だ……この牙で、何度でも喰い返してやる」
戦場を覆う絶望が、わずかにだが群れの希望へと傾き始めていた。




