【第9話:言葉と、まなざしと】
「……起きた?」
少女の声に、クロはわずかにまぶたを持ち上げた。
柔らかな朝の光。森の中の仄暗さとは違う、安心できる明るさだった。
「ふふ、よかった。……ちゃんと、息してる」
少女はそう言って、微笑んだ。
クロはその笑みに思わず目を逸らした。
敵意がないことは感じていた。けれど、心の奥にはまだ拭いきれない不安が残っていた。
「ねえ……」
少女が言葉を続けた瞬間、クロの中で何かが引っかかった。
(……ん? 今の言葉……)
理解できた。
意味が、すんなりと頭に入ってきた。
「……な、なんで……?」
思わず口から声が漏れる。
それに、少女の目が驚きに見開かれた。
「しゃ、喋った!? ほんとにゴブリン? え、言葉……わかるの?」
クロも目を見開いた。
(俺、言葉……わかってる?)
今さらのように、自分が人間の言葉をそのまま理解していることに気づいた。
心臓がバクバクと鳴る。
この“異常”は、果たして転生の影響なのか、それとも自分だけの能力なのか——。
「ご、ごめん……ビックリしちゃって。ゴブリンって、普通しゃべらないと思ってたから」
少女は頭をかきながら笑う。
「でも、ちょっと嬉しいかも。……私、こうやって話すの、ずっと久しぶりだから」
クロは黙って少女を見つめた。
少女の背後に見える森。
その影の中に、どこか懐かしい匂いがした。
(この子……本当に“ただの人間”か?)
なにか違和感があった。
笑顔の奥に、どこか“こちら側”に近い何かを感じた。
——そして、彼女がふと、ぽつりとつぶやいた。
「昔ね、私、森で助けられたことがあるの。……人間じゃない、誰かに」
クロの胸が、僅かにざわついた。
(それって……)
少女の言葉の意味を尋ねようと、クロは唇を震わせた。
「ねえ、君の名前ってある?」
唐突な問いだった。
少女はごく自然にそう聞いたが、クロは言葉に詰まった。
(名前……)
意識の底に、黒い影のようにぼんやりと“それ”が沈んでいる。
喉が渇くような感覚。
それでも、絞り出すように呟いた。
「……クロ……俺は、“クロ”……だ」
少女は目を見張ったあと、ゆっくりと微笑んだ。
「クロくん、だね。いい名前。君の肌、色が綺麗だったから、“ミドリ”って勝手に呼んじゃってた。ごめんね」
クロは軽くかぶりを振った。
この醜いゴブリンの肌色が綺麗…?
この少女の感覚は、どうにも普通じゃないらしい。
それが謝るようなことなのかも、よく分からなかった。
けれど、自分の名前を口にしたことで、どこかに一本の“芯”が通った気がしていた。
少女はふわっとした表情のまま、焚き火の火を見つめる。
「じゃあ、改めてよろしくね。クロくん」
まだ、何も信用したわけじゃない。
だけど、この火の温もりと声だけは、今の自分を肯定してくれているように思えた。
クロは静かにうなずいた。
——森の片隅で、生まれたばかりの名前が、ようやく誰かに届いた瞬間だった。




