悪役令嬢くらいタダでやればよかった
その日、クラリス・アルセリナ公爵令嬢は上機嫌であった。ずっとほしいと思っていた歴史書の初版が手に入り、誰にも邪魔されたくないと人払いまでして校舎裏の人気の少ないガゼボで夢中でその本を読みふけっていたからである。
そんなクラリスの至福の時間を邪魔したのは、ミレナ・ロゼリア男爵令嬢だ。
「ちゃんと悪役やれよ!」
――ぱさり、とページをめくる音が風に溶ける。
ありていに言うと、クラリスにはその声がまったく耳に入っていなかった。公爵令嬢として清く正しく美しくと育てられた彼女にとって、不躾に声をかけてくるもの、言葉づかいがなっていないものは、見えないようになる能力が備わっていたからだ。
念願の初版本の一文字一文字をかみしめ心を躍らせるクラリスにとって、ミレナの言葉はそよ風以下である。
「ちょっと!聞こえないの!?クラリス・アルセリナ!」
名前を呼ばれ、クラリスの意識がようやくミレナに向く。楽しい気分を台無しにされたクラリスは、それでもいきなり怒りをぶつけたりはせず、目を細めてミレナを見た。最近読書のしすぎで、目が疲れていたのである。
しかしそのクラリスの視線をにらまれたと解釈したミレナは、びくりと肩を震わせると、少しだけ声のトーンを落とした。
「クラリス、あなたね、ちゃんと悪役を――」
「あなたは、何?」
クラリスは扇で口もとを覆い、しげしげとミレナを見る。この王立学園には、身分の貴賤による貧富の差を目立ちにくくするため、生徒たちは制服の着用が義務付けられている。それ以外は生徒の良心に委ねられ、公序良俗に反しない限りは自由な校風ではあるのだが。
目の前に立つミレナは制服のスカートを膝よりも上まで短くし、挙句に裾にフリルをつける「魔改造」を行っていたのだ。たいていの女生徒は膝下のスカート丈で、中に着るシャツで少しおしゃれを楽しむ程度だというのに。
まるで娼婦のように肌を露出するミレナに、クラリスは言いようもない嫌悪を覚える。清く正しく美しく育てられたクラリスにとって、淑女がむやみに肌を露出することは考えられないことであった。
だからこその、「何」という、およそ人にぶつけるのに似つかわしくない疑問になったわけだが、ミレナはそんなクラリスの意図に気づくはずもなく、なぜか胸を張る。
「わたしはミレナ・ロゼリアよ!」
「そう……」
ロゼリア男爵家と言えば、堅実な領地経営をするとクラリスは父から聞いたことがある。とてもでないが、こんな珍獣を生み出すような家とは思えない。庶子か養子の類だろうかとクラリスは考えた。
「そんなことより、もしかしてあんたも転生者!?なんで悪役令嬢しないの!?」
唾を飛ばす勢いで話すミレナに、クラリスは顔をしかめる。
「……はい?」
「だから!ここはクロノステラの世界だろ!?」
「ここはヴェルディア王国よ?」
「そうじゃなくて!レオニスを攻略したいのに、あんたが悪役しないから好感度が上がらないんだってば!」
ぎゃあぎゃあとわめくミレナを、クラリスはぽかんと見つめる。これまで社交界であまたの貴族たちに揉まれてきたつもりでいたが、どうやら自分はまだまだぬるま湯につかっていたようだ。ここまでの珍獣――もはや魔獣――は見たことがない。
ミレナの言葉をつなぎ合わせると、どうやらここはナントカという物語の世界で、ミレナはその物語のヒロインであるという。そして、クラリスの婚約者である第二王子のレオニス・ヴェルディアとミレナが結ばれるために、クラリスは悪役令嬢になるべきだということらしい。
「その悪役令嬢とやらは何をするの?」
「は?えっと、わたしのことをいじめるのよ」
「どうやって?」
「教科書を破いたり複数人でわたしのことを囲んだり……」
クラリスにとって、ミレナがレオニスに懸想していることはどうでもよかった。王家に命じられて婚約したものの、王子妃教育だ王妃とのお茶会だと読書の時間が奪われるからである。第二王子のことも好きでもなければ嫌いでもない――どちらかと言えば興味がない。誰かが代わってくれるならば諸手をあげてレオニスの婚約者の立場を譲るつもりである。
問題はそこではない。ミレナがレオニスと結ばれたいなら好きにすればいいが、自分が悪役をするメリットが何一つないことである。紙の本は貴重品だ。それを破るなどあり得ない。複数人でミレナを囲むための根回しもめんどうだ。
「それを、なぜわたくしがやらないといけないの?」
「だから、レオニスと結ばれるために……」
「殿下と結ばれたいなら好きにすればいいでしょう」
「そのために悪役令嬢が必要だって言ってんの!」
このままでは堂々めぐりである。クラリスは小さくため息をつき、扇をぱちんと閉じる。
「悪役令嬢をやればいいのね。なら、いくら出すの?」
「は?」
「わたくしにとって何一つメリットのないことをやれと言っているのよ?だったら、それに見合う報酬をいただかなければ」
「はあ〜!?何言ってんの?さいってい!」
「最低でけっこうだわ。いくら出すの?」
「ほんと性格終わってんね!最悪!さすが悪役令嬢!ほんとキモイ!」
ミレナは口汚くクラリスを罵ったかと思うと、そのまま走ってどこかに行ってしまった。結局何がしたかったのかわからないが、ようやく無益な時間から解放されクラリスの肩が軽くなる。
「……お嬢様」
「ビビアン、のどが渇いたわ」
「かしこまりました。……それはそうですが、よろしいのですか?」
「もしかしたら精神異常者の方かもしれないわ。放っておきなさい」
「お嬢様が飛び出すなと指示されたので我慢しましたが、正直腸が煮えくり返っています」
クラリスが扇で顔をおおったのは、ミレナが見苦しかったのもあるが、側で控えているだろう従者たちに合図を送るためでもあった。あのやりとりだけで男爵令嬢を断ずることはできるが、あの魔獣のねらいはレオニスである。レオニスとの婚約がなくなることを望むクラリスにとって、不本意ながらミレナとは目的が同じなのである。
「悪役?とやらはごめんだけれど、殿下と結ばれてくれるなら喜ばしいことじゃない」
「それは……殿下がおかわいそうです」
「わたくしのようなつまらない女よりよっぽど刺激的な日々を送れるわよ?」
「ああいうのは劇薬と言うのでは?」
さっさと婚約解消したいわと言わんばかりに再び歴史書に目を落とす主人を見て、ビビアンは婚約者のレオニスに同情を禁じ得なかった。
その日、レオニス・ヴェルディアは上機嫌であった。明日は婚約者のクラリスが王宮に上がってくる日である。
八歳のころ王命で結ばれた婚約者に、レオニスは初顔合わせのときに一目ぼれをしていた。さらさらとなびく銀色の髪に、理知的なサファイアの瞳、白磁のような肌にレオニスの胸は高鳴っていた。
クラリスが婚約者に決まった日から、レオニスは一生懸命勉学に打ち込んだ。婚約者ができて、第二王子として次期国王となる兄を支える自覚ができたのだと両陛下は喜んだが、残念ながらそうではない。知識量のすさまじいクラリスと対等な会話ができるようになるためだ。
クラリスが何よりも読書が好きだとわかれば、なるべく彼女の読書の時間を邪魔しないよう、婚約者としての交流は最低限に控えた。宝石やドレスよりも貴重な書物をクラリスが喜ぶとわかったら、レオニスは迷うことなく書物をクラリスに贈った。レオニスにとって、クラリスとの婚約が自分のすべてになったと言っても過言ではない。
そんな大切な婚約者との貴重なお茶会の時間に思いをはせ、レオニスは今にも鼻歌を歌いださんばかりに浮かれていた。明日のクラリスとのお茶会で渡そうと思っていた歴史書の写本――すでにクラリスは初版本を入手済みである――のことで少しでももりあがろうと図書室で関連図書を読んでいたところにミレナに突撃されたレオニスは、ふだんならクラリスに勘違いされたら嫌だと他の令嬢を相手にしないのに、そのときばかりはミレナの勢いにも押されて、うっかり相手をしてしまったのである。
「殿下ぁ!」
甘えたように語尾を伸ばすミレナに、レオニスは一瞬眉をしかめる。魔改造されたミレナの制服が目に入り、レオニスはぎょっとした。静かに本を読みたいからと従者も護衛騎士も少し離れたところに置いてきたことを後悔した。
「……君は?」
声をかけて、レオニスはますます自分のうっかりを恨む。
「ミレナ・ロゼリアと申します。殿下に聞いてほしいことが……」
レオニスに近づこうとするミレナをとっさに手で制す。
「そ、それ以上近づくな」
「やだぁ、殿下ったら、照れてるんですか?かわいい」
体をくねくねさせるミレナに、レオニスにはぞっとする。あの質実剛健なロゼリア男爵が、このような精神異常者を放置しているはずがない。あとで従者に調べさせなくては、とレオニスは考える。
「そんなことより、殿下に聞いていただきたいことがあるんです!クラリス様が……」
婚約者の名前に、レオニスの眉がぴくりと動く。クラリスに、こんな頭のおかしな友人はいないはずだ。
「わたしに『殿下に近づくな』とか、『男爵令嬢の分際で』とかひどいことを言ってきて……」
目の前でさめざめと泣くミレナに、レオニスの頭は混乱しっぱなしだった。
この魔獣の言っていることが正しければ、クラリスはこの男爵令嬢を罵ったと言う。しかも、その内容は、あきらかにレオニスと男爵令嬢の仲を疑う内容だ。
レオニスは、クラリスと万が一でも婚約解消とならないよう、身辺は異常なまでに清潔を保っている。夜会でも、クラリス以外と踊ることはない。仮にダンスをしなければならないときは、事前にクラリスに説明をして――もちろん、クラリスはほとんど聞いていない――了承を得るようにしている。
クラリスに嫉妬をさせて自分への愛情を確認しようなど、愚かなことも思ったことはない。
「クラリスが、本当にそんなことを?」
「そうなんですぅ〜わたし、ほんとうにこわくて。わたしが男爵令嬢だから気に入らないみたいで」
まったくもって意味不明であるが、これでこの男爵令嬢が虚偽の発言をしているだろうとレオニスは確信を得た。あのクラリスが、「男爵令嬢だから」という理由で感情的になるとは思えない。なぜなら――婚約者のレオニスに対しても、クラリスは無関心を貫いているのだから。
「そうか。では真偽は私で確かめよう」
「レオニス様、わたしをお守りくださるのですか?」
ミレナの瞳が爛々と輝く。何かを勘違いしているようだが、今のレオニスにとっては都合がよかった。もし裏で誰かが糸を引いているなら、芋づる式に吊るし上げることができるだろう。レオニスのなかで、ミレナの処分は決定した。あとは証拠を固めるだけである。
レオニスがほしくてたまらないクラリスからの関心を得たという嘘だけは、どうしても許すことができない。
ミレナの運命は、この瞬間に決したのである。
クラリスは定例のお茶会に向かうため、王宮の中庭に向かっていた。この日は朝から準備で忙しく、本を読む時間が一切持てない。王子妃教育で専門書を目にする時間は至福だったが、そのあとのレオニスとのお茶会がクラリスにとっては無駄な時間そのものだった。
中庭に到着すると、レオニスだけでなく、昨日クラリスに突撃してきたミレナの姿もあった。ミレナはうれしそうにほほを染め、レオニスの隣に立っている。レオニスは王族として笑みは浮かべているものの、目は一切笑っていなかった。
「クラリス、よく来たね」
「レオニス様におかれましては、ご機嫌うるわしゅう」
ちらりと横にいるミレナを見ると、夜会でもないのに胸もとの空いたドレスを着て勝ち誇ったようにクラリスに視線を向けていた。婚約解消は今回も無理そうだとクラリスは小さくため息をつく。
「今日は、ロゼリア男爵令嬢にも来ていただいたんだ」
「それはそれは……」
「クラリス、ロゼリア男爵令嬢に暴言をはいたと聞いたけど――」
「そうなんですぅ!」
ミレナは恐れ多くも王族の言葉をさえぎる。
願わくば、男爵家にお目こぼしがあることを願うばかりだ。
「クラリス様は、わたしを男爵令嬢と見下して、『殿下に近づくな』とか――」
「ちょっと黙っててもらえるかな?」
レオニスの合図で、近くにいた護衛騎士がミレナを
押さえつける。言葉が出せないように口には布が当てられた。ジタバタと暴れる様子に、クラリスは思わず顔をしかめる。
「この男爵令嬢の話は嘘だよね?クラリスが、こんな女に興味を示すわけないだろう?」
「そうですね。殿下との仲をとりもつために悪役になれとは言われましたけれど」
「断ったよね!?」
「悪役になってあげてもいいので、それに見合う報酬を用意してほしいと申しました」
クラリスの言葉に、レオニスはがっくりと肩を落とす。やはりクラリスの関心は、レオニスには一切ないようだ。
「ひどいよ、クラリス……」
「わたくしとしては殿下に真実の愛を見つけていただければありがたいのですけれど」
「それはクラリスだよ!そうだ、これ、クラリスがほしがっていた歴史書の写本――」
「あら、それならつい最近初版本を手に入れましたわ」
クラリスが喜ぶと思って用意した写本も一蹴され、レオニスは意気消沈する。
「……それで、その方はどうなさるんですか?」
未だ暴れるミレナを見て、クラリスは声をかける。レオニスは興味がなさそうに「ああ」と頷くと、「適当に牢につなげ」と短く命令する。護衛騎士二人がかりでミレナが退場すると、再び静寂が訪れた。呆然としているレオニスは放置して、クラリスは席につき紅茶でのどを潤す。
今日も王宮のお茶は、クラリス好みのすっきりとした味わいで、彼女は満足げに鼻から抜ける香りを楽しんだ。
「教科書を破ったり複数人で囲んだりしてほしいと言われたので報酬を求めたのに……」
クラリスの小さなつぶやきはばっちりレオニスの耳に届いており、その言葉で正気を取り戻したレオニスは、クラリスが退屈を覚えないようさまざまな話題をあれこれとぶつける。そんな必死なレオニスを見ても、クラリスは退屈そうに扇を出して顔を隠す。
「――どうしてこうも話が長いのかしら」
小さなため息ともに少しだけの後悔がよぎる。
あんな罵倒くらいなら、タダで引き受けてあげればよかった、と。