第二話 封鎖地区 2
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ビアンコが朝のトレーニングを終え、いつもの服装で宿舎のリビングにやってくるとまず香ばしい匂いが出迎えてきた。そのままちらりと物陰からリビングを覗き込むと、まず三人分の食器類がセッティングされたテーブルが目に入り、その先にある左右にカーテンの開かれた大きい窓から朝日が差し込んでいる。
テーブルの奥にあるシンクを挟んでオリファとリーチが朝食づくりに精を出しているらしく、オリファは白いエプロンを身に着け上機嫌に鼻歌を歌いながらフライ返し片手にジュージューと音を立てているフライパンを振るっている、一方のリーチも同じく白いエプロンを身に着けゴム手袋をつけた手でまな板に乗っている半玉レタスを包丁でさらに半分に切り、適当にちぎって平たい皿に乗せている。だが身長190センチ近い大男がややサイズの小さいエプロンを着ているのがやや滑稽に見えた。
「…はぁ」
その様子を見ているビアンコは以前と同じように緊張感が拭えていないのか相変わらず顔が暗い。
「―おはよう」
「ちょっ!?」
いつの間にか背後にいたイリーナに声をかけられ、びっくりしてリビングにビアンコが飛び出していった。飛び出しながらバタバタ足音を立てながら一回転し、その場にいた面々の視線をいっぺんに集める。
「おやおや?」
「危なっかしいねぇ」
それを見ていたリーチとオリファが口々に感想を言う一方で、けしかけたイリーナは笑みを浮かべている。
「驚かさないで下さいって…、―おはようございます」
「ハハハ、分かったわかった」
言いたいことがいっぺんに湧き上がってしまったものの吐き出すのを堪え、やや不貞腐れた顔をするビアンコにイリーナが笑いながら着席するように促した。それを見たオリファが「できましたよ~」と料理を持ってくる、同じ皿に盛りつけられメープルシロップとバターが一切れ乗ったワッフル二個とベーコン二枚、スクランブルエッグだ。そして真ん中に牛乳が入った容器が置かれる。
食事が必要な三人のテーブルマットの上に料理が盛り付けられた皿を置くとイリーナ、オリファ、ビアンコがテーブルにコの字の配置で席に付く、ビアンコとオリファが向かい合った。リーチは両手をシンクに付きながらその様子を見ている。イリーナとオリファがナイフ、フォークを手にとって料理を食べ始めると、ビアンコもフォークを手に取ってワッフルを突く、そして俯き気味に目だけ動かして周りを見渡した。以前のように隣に座っていても嫌がらせされる雰囲気は全くないものの、警戒心が抜けず食べ物を口に運ぶ気になれない。するとそれに気づいたイリーナが声をかけた。
「ん、食べないのか?
「あっ、いえ…。その…、こういうのに慣れてないもので…」
しどろどもどになりながら誤魔化そうとしたものの、結局事実を白状してしまう。てっきり嘲笑われると気落ちしたビアンコを見て一瞬間を開けて一言「ほう」
「そうか…、まぁしっかり食べろ」
イリーナのその声色に少なくとも嘲笑の類は含まれておらず、むしろ戸惑い近いものの割合が多かった。その後に静かにコップに入ったミルクを飲みだす。予想に反して意外な反応が返ってきたため、イリーナの方を向いたままその場で固まるビアンコ。それを見ていたオリファが「冷めちゃうよ?」と言葉を投げかける。その言葉にハッと我に返ったビアンコはオリファを怪訝そうに一瞥するといそいそと食事を口に運び始めた。
先進国の兵士というものは、実に様々な装備を身に着ける。身を守る銃やヘルメット、ボディアーマーだけではなく、食料や水、野営するための道具なども原則一人で持ち歩かなければならない。戦闘に必要な装備だけで25~30キロ、行軍も行うとなると50~70キロに達すると言われている。せめて前者の装備重量で軽快に動き回れなければ話にならない訳だが、その戦闘用装備でビアンコが射撃場の中を自動小銃を抱えて走り回っている。
いつものブーツとズボン、コンバットシャツは一緒だが両ひざに黒の膝あて、ニーパットを一対、胴体には防弾プレートが入ったタンカラーのボディーアーマー、その上からチェストリグと幾つもポーチ類が付いた呼ばれる予備の弾薬など携行するための胸当ての軍用の弾帯を付け、頭にはボディーアーマーと同じような色をしたバイザー付きヘルメットを被っていた。
険しい表情で少し走った後、地面に引かれた白線の前で急停止し、素早く右ひざを付く。と同時に彼の目の前三方に三つのターゲットがせり上がる。ビアンコが素早く自動小銃を構えると、銃声を響かせながらターゲット一枚に対し二つの穴を穿つ。三枚のターゲットに書かれた円の中心付近に穴を開けた後、チェストリグから素早く予備のバナナ型弾倉を取り出し自動小銃に刺さっている空の弾倉を弾き飛ばして予備弾倉を装着する。そして立ち上がりつつ自動小銃を操作して初弾を装填、すぐにそれを構えたまま隣にあるキルハウスと呼ばれる建物の間取りを簡易的に模した空間に突入していった。それを少し離れた観戦台からリーチが眺めている。その手にはタブレットとペンが握られ、視線をタブレットの画面に落としていた。
「ずいぶん早いな、少佐」
イリーナが観戦台を上るための階段の一段目に足をかけるより早く、リーチが声をかける。画面を見たままで振り返りもしない。イリーナが呆れ気味に鼻を鳴らすとゆっくり階段を上がってきた、その手にはコーヒーが注がれたカップが一つ。そんな二人を他所にパンパンと銃声が響く。
「いいでしょ、これも仕事のうちよ」
階段を登り切りリーチの横で両手を腰に当てるイリーナ、心なしか表情が明るく口調も女性らしいものになっている。軍での最小行動人数は四人、つまりはビアンコが正式に隊員となれば晴れて彼らは部隊として活動できるようになる。特にイリーナはそれを心待ちにしていたために、それが表情を通して漏れ出ているのだ。とは言え必要とされる技量に達していなければ使い物にはならない。だから技量が水準に達しているか、若しくはその見込みがあるか、ビアンコが今まさに試験で試されているのだった。
「で、状況は?」
イリーナがリーチが持っているタブレットを指さすと、無言で画面を見せるリーチ。画面には上空を飛んでいるドローンやキルハウス内部に設置されたカメラからのライブ映像が分割された状態で流されていた。ビアンコが設置されたターゲットを撃ちきり、次の部屋へ向かうべく廊下に当たる部分をクリアリングしながら進んでいる映像が流れている。ドローンは全てリーチがコントロールしており、端末を介さずとも映像を見ることもできる。ロボットである点を最大限生かしたメリットの一つだが、あくまで「人間」として過ごすために実際にこのような作業に当たる際はあえてタブレットを持ち歩いているのだった。
「戦技に関する部分は悪くない。体力、技術、その他諸々問題なさそうだ」
リーチがタブレットを操作し、映像タブの前にビアンコの身体面が数値化された別のタブを持ってくる。グラフが概ね八割以上の数値をたたき出していた。
「流石だ、これだけならエリート部隊から声がかかってもおかしくない」
画面を注視しながらコーヒーを啜るイリーナ。心なしか目つきも鋭くなる。
「だが、そうじゃない。…今までのようにならないといいが、特に今回は」
「どうであれ、やるしかないわ。これを逃したら次はいつになるかわからないし」
頭を付き合わせるイリーナとリーチ、とほぼ同時にビアンコがキルハウスの出口からバタバタと飛び出して、そのまま一番最初のスタートラインの位置に突っ込んでいった。走り抜けた後に立ち止まって少し前かがみになり両手を両ひざに付き、ぜぇぜぇと肩で息をしている。すぐに頭だけリーチたちの方を向くと片手を上げて終了の合図をする。その姿にイリーナの目が止まった、ビアンコの顔が明らかに笑っているように見えたからだ。といってもそれは一瞬で、すぐに疲労困憊の険しい顔に戻った。
「よろしい、また敷地ひとっ走りしてこい」
リーチの声を聞いたビアンコは険しい表情ながらも、すぐに手早く自動小銃のマガジンと取り出しコッキングレバーを操作してチャンバーから弾薬を排莢させてセーフティをかけ、右腕でそれを抱えて射撃場の外へ駆けていく。イリーナをそれを少しの間、目で追った。
「ではまた」
「え、ええ…」
リーチがイリーナにそれだけ告げると、観戦台を降りていく。射撃場の端に積んであった新しいターゲットの束を担ぎ、大男がキルハウスに入っていった。その場で一人カップのコーヒーへ視線を落とした。
「あれは、気のせいかしら…?」
カップを口元へ近づけ少しぬるくなったコーヒーを啜るイリーナ。ふと気配を感じて振り返れば、目の前にニコニコした顔でオリファが立っていた。それを見た途端一瞬目を見開いたイリーナの表情が渋くなり、思わずジト目になる。実際、オリファは気配を消して標的に接近するのが特技の一つだ。基本的には心強い技能だが、こうやって味方に披露することもあって相手の肝を冷やしたことが幾度もあった。当の本人はニコニコしているものだから、始末が悪い。
「まったく、脅かすな」
「いいじゃないですか、かわいい顔も見れますし」
いたずらっぽく左目を瞑るオリファを見て、イリーナがため息をつきながら右足のホルスターから無意識にかけていた手を放した。
「新入り君の試験の採点、終わりました」
「で、どうだった?」
「それはご自分で確かめた方がよろしいかと」
笑顔、というよりは営業スマイルといった言葉が似あうオリファからタブレットを渡され目を通す。読み進めると共には眉間にしわが寄っていく。
「ほう」
「ね? すごいでしょ」
ふうと息を吐くイリーナに対し、オリファは相変わらずニコニコしている。何が書いてあったかは、わざわざ語る必要もなかった。
「それと気になることが」
「なんだ?
オリファがビアンコが走っていった方へ一瞥する。
「新入り君、全然自分のこと話してくれないんですよねぇ。食事の時もすぐいなくなるし、避けてるっていうか。仲よくなりたくないのかなって」
呆れたよう表情で肩を竦めるオリファ、一方のイリーナが息を吐く。
「イエニス少尉も感じてたか」
「あ、少佐も気づいてました?」
「ああ。なんというか、人との距離感がうまくつかめてない感じだが」
「でしたね、こじれたりしないといいですけど」
イリーナが顎に手を当て考える仕草をする。オリファはいつの間にか何か含みがありそうな笑顔に戻っていた。
「そこはなにか考えておく。先に本部に戻れ、後から行く」
「了解です」とタブレットを受け取って足早に立ち去るオリファを見送りつつ、イリーナがカップに残ったコーヒーへ視線を落とす。すっかり冷めてしまったようだが、それを一気に飲み干す。
「やるか」
気合を入れるように呟くと、イリーナもオリファの後を追っていった。