第六話 キマイラ分隊 3
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ビアンコがふと気が付くと、感覚でベットの上に寝かされているのが分かった。目を開くと最初こそぼやけていたが次第に見慣れた天井と壁紙の一部がはっきり見えてくる、ビーインヒルの宿舎の自室だ。そしてなぜここに居るのか不思議に思いながらぼんやりしていると、聴き慣れた声が飛んできた。
「あっ、気が付いたか?」
ビアンコが声のした方向を見ると、ベットの脇に置かれた椅子に座っていたイリーナが上半身を乗り出してきているのが視界に入る。その顔は少しやつれており、両目に涙を浮かべているのが分かった。その奥にはオリファが立っていて、いつもは見せない安堵したような表情でビアンコを見つめている。
「あれ、少佐。イエニス? なんで俺の部屋に? というか…、っ!?」
イリーナ達の表情とは対照的にビアンコが的を得ていないとぼけた表情を向ける。まだ頭の中がぼんやりしていて、上手く脳が働いていない。そしていつもの調子で上半身を起こそうとすると、ビアンコの胸元に刺すような痛みが走る。表情も一気に険しいものに変わり脂汗を浮かべ、大げさとも言えるほどゆっくりと呼吸を繰り返しながら両手でグレーのスウェット越しに胸元を押さえた。
「待て、起きるな。じっとしてろ!」
イリーナが素早くビアンコの肩を手で押して動きを制止すると、オリファも心配そうに前のめりの姿勢になった。
「水と鎮痛剤を取ってきます」
「頼んだ」
すかさずオリファが動き、イリーナと言葉を交わすと部屋を出ていく。その間にビアンコの呼吸のペースが戻っていき、イリーナに支えられながらゆっくりと上半身を起こした。ビアンコは胸元に手を当て俯く。
「こんなことしてる場合じゃない…、助けに行かないと…」
ビアンコが痛みをきっかけに直近に何があったのか思い出し、右手で額に巻かれた包帯に触れると起き上がろうとするがイリーナに再び制止される。
「待て待て待て、能力に頼りすぎだ! 常人ならもう死んでるぞ!!」
「…だからなんだよ」
ビアンコが今までにないほど眼光鋭くイリーナを睨みつけると、イリーナが息をのむ。ビアンコの顔が完全に怒りに支配されていて、今まで感じたことのない殺気を放っている。
「―右足の太ももを破壊されたエンジンのパイプが貫通、右足首から先は潰れたエンジンブロックに挟まれて粉砕骨折。肋骨もハンドルに胸部を打ち付けで数本骨折、挙句に足の動脈をパイプが傷つけて大量出血。普通ならもう死んでる」
イリーナの後ろから水の入ったコップとピッチャー、錠剤が入ったケースが載ったトレーを持ったオリファがお世辞にも似ているとは言い難いリーチの物まねをしながらビアンコの負傷箇所を言いあげていく。ビアンコが今度は食いしばった歯をむき出しにしてオリファを睨みつける。
「その他、細かい傷は数えきれず。致命傷は治ったようだから命に別状はないが、体はボロボロだな」
「ってリーチが言ってた」と注釈を加えつつオリファがイリーナの隣までくると、片膝を付きトレーをベットの淵に置くとコップと錠剤数個をビアンコの前に差し出した。
「とりあえず飲みなよ。少しは楽になるだろうし」
ビアンコが表情を幾分和らげて差し出された水が入ったコップに視線を落とす。微かに自身の顔がコップの水面に写っているが、確かに我ながらひどい顔だとビアンコは思った。収容された際に洗浄されたのかすっかり元通りになった白髪はともかく額に巻かれた包帯や頬に貼られたガーゼ、深い隈ができた目元が目につく。その姿がこの部屋の中で何より自分がやつれている気がしたからだ。そうするとオリファが言っていた致命傷以外の場所、全身がどこかしらじわじわと痛みを発していることに気づく。
ビアンコが一瞬上目遣いでオリファを見ると、二人に見守られながら震える手で錠剤とコップを受け取る。壁に掛けられた時計の針は日を跨ごうとしていた。
「ほう、無事だったか」
オリファに支えられたビアンコが本部に戻って開口一番、リーチが放った台詞がそれだった。ガレージ部分に広げられたテーブルの上のパソコンと無線機に向き合い、腕を組んでいて驚いている様子はなかった。
「…なんか嬉しそうじゃないな」
早速額の包帯と頬のガーゼが取れた戦闘服姿のビアンコが動きのおかしい右足を引きづりながら、リーチに向かって眉を顰める。
「だいたい予想通りの展開になっているからな、相変わらずお前の動きは予想しやすい」
「ケッ…」
「まぁそうカッカしないで、ほらこっち」
ビアンコがリーチに痛いことろを突かれて思わず睨み返すが、すぐにオリファが割って入りビアンコをパソコンの置いてあるテーブルに寄りかからせる。ビアンコが「サンキュ」とゆっくりテーブルに体重を預けた。
「で、状況は?」
「先ほどから変化なし、ようやくアジトに入ったらしい」
「…それで、アイシャは無事?」
ビアンコが幾分マシになったやつれ顔でイリーナの方を見る、イリーナが戸惑った顔を見せ隣のオリファに目くばせするとオリファが眉を上に動かして肩を竦めた。それを見たイリーナが諦めた顔をして口を開く。
「アイシャが無事かどうは判断しかねる。が、軍自体は一気に動き出した。軍人への襲撃は実質宣戦布告だからな。発信機の情報を提供したから、後は特別対応チームが対処するそうだ」
「俺たちは?」
「待機に決まってるじゃないか、僕らの部隊は表向きは隊員が一人死んでるんだし」
イリーナの横顔をまじましと見つめているビアンコの横からオリファが気だるそうに口を挟むと、ビアンコが一瞬オリファへ顔向けて睨んだ。
「―他に分かってることは?」
イリーナがパソコンのモニターを覗き込むと、地図上の封鎖地区の端で赤い光点が点滅しているのが見えた。リーチがモニターを見ながら説明を続ける。
「大佐が可能な限り情報を寄こしてくれた、犯人はバタリングの一味で確定。偵察していた工作員がアジトの奥に連れていくのを確認したらしい。それも決め手になったとか」
ビアンコがバタリングという単語に反応して顔つきが変わる傍目に、リーチがマウスを操作して送られてきた資料や写真の表示されたウィンドウを最前列に表示していく。廃墟の中、コンテナを持ち込む二人一組の防護服を着た人物や武装したギャングの写真、更に謎の建物内部の図面が表示された。イリーナが首を傾ける。
「こっちはなに?」
「地下鉄の旧ピューソン・セントラル駅の図面だ、連中の拠点らしい。車両基地も併設してるからずいぶん広いぞ」
「へぇ、物を隠したり運び出したりするのにはうってつけだね」
リーチの説明にオリファが腕を組み感心したように頷く。それを聞きながらビアンコは無意識に机を掴む手に力が入る、アイシャの居場所も仕掛けてきた相手も分かってるのにただ黙って見ていることしかできない。焦燥感だけが募っていく。
「それと余談だが、上層部の連中は今回の件を喜んでたそうだ。ようやく大義名分ができたとな、大佐は呆れてたが。だからフランシスをよく労っておいてくれと…」
リーチがしゃべり終わる前に、ビアンコの中で何かがキレた。くるりと振り返って進行方向を睨むと右足を引きずってはいるが先ほどよりも軽やかな足取りで一人装備品の入ったロッカーへ向かうと、自身の装備品を取り出し始める。物音の方へ顔を向け言葉が途切れるリーチと呆気に取られるオリファ、その脇を血相を変えたイリーナが飛び出していく。
「なにしてるんだ!!」
「見てわかるでしょ、アイシャを助けに行くんですよ! 戻ってこないなんて絶対ひどい目に遭ってるに決まってる!!」
傍に来たイリーナが肩に手をかけるがビアンコがそれを振り払って装備品を引っ張りだしていく。その様子をイリーナの後ろに駆け付けたオリファも何とも言えない顔で見ていた。
「ダメだ、行かせるわけにはいかない。命令だ」
「そんなもん糞くらえだ、一人でも行きますよ!」
徐々に表情と声に凄み増していくイリーナに目もくれず、ビアンコがぎこちない動きで胴体へ装備品をつけていく。その様子にイリーナが覚悟を決めたように息を吸った。
「何が不満だ、はっきり言ってみろ!」
イリーナの大声にビアンコの動きが止まり、オリファも驚いたよう一瞬肩を怒らせ目を丸くしてイリーナを見る。リーチは相変わらずテーブルの前で三人の様子を眺めていた。
「くやしいんだよ!」
イリーナの方に向き直ったビアンコの第一声がそれだった。イリーナはビアンコに鬼の形相で睨みつけられているにも関わらず、凛とした表情でどっしり構えている。
「俺がアイシャと一緒に出掛けたのはな、お偉いさんに手柄を献上するためでも、バタリングにひどい目に遭わせるためでもない! 遊園地に行くっていうアイシャの願いをかなえるためだったんだよ!!」
ビアンコが殺意むき出しの顔で人差し指を伸ばした右腕を真横に突き出し、激しく上下に動かしながら叫ぶ。その両目には涙が浮かんでいる。
「それなのにあの博士に邪魔されて、俺は連れていかれるのを見てることしかできなかった。本来ならあんな連中簡単にぶちのめせるのに!」
ビアンコがそれだけ言うと右腕を下げ、声のトーンも小さくなった。
「復讐したいか?」
イリーナの静かな問いかけにビアンコが「ああ」頷く。
「―そうか、実は私もなんだ。同じことを考えているよ」
「え?」
イリーナの予想と反する言葉にビアンコが目を見開いた。
「当たり前だが直接殴り込みをかけるのが一番スカッとする、それができるだけの力も持ってる」
イリーナが諭すように言葉を紡ぎつつビアンコの目をしっかりと見据えると、対するビアンコは驚いた表情のまま涙が止まらなくなっている。
「だが、それじゃダメだ。彼女は余罪がいくつもある、罪は償わせないと」
イリーナが客観的な事実の一つを述べ、それを聞いたビアンコが俯き黙りこくる。その間にも床に一つ二つと水滴のシミができていった。
「…初めてだった」
少しの沈黙の後、ビアンコが震える声で静かにそれだけ呟く。
「初めて誰かに頼られた、生まれて初めてだ。俺みたいなやつでも頼ってくれるんだって、正直嬉しかった。それがこんな形で終わるなんてひどすぎる。せめて最後までやり遂げせくれよ、なんなんだよ…」
肩と拳を震わせたまま気持ちを吐き出したビアンコを見たイリーナが優し気な表情で静かに優しくビアンコの肩へ右手を置く。その横にオリファが歩み寄るで「ほら」とハンカチを手渡すと、ビアンコが静かに涙を拭き始めた。
一方のリーチは軍用無線のヘッドホンの片方を耳に押し当てていたが、不意に首を傾ける。
「ん、急に封鎖地区の無線のやり取りが活発に…」
その直後に外から遠方からとぼしき小さい爆発音と続的な銃声が響き始め、四人全員が開けっ放しのガレージの出入り口を視線を向ける。だがすぐにイリーナはリーチの元へ駆け寄る。
「どうした?」
「急に無線通信が騒がしく…、どうやら封鎖地区全域で戦闘が発生したみたいですね。警備の戦闘部隊が動員されてる」
モニターから視線を反らさずにリーチが簡潔に告げると、イリーナの顔が険しくなった。
「それってまずくない?」
引き続き涙を拭いているが大分気持ちが落ち着いた雰囲気のビアンコに寄り添っているオリファが振り返りながらぼやく。
「確か特別対応チームの行動優先順位は…」
「封鎖地区の安定化が最優先、それ以外の任務は後回しだ」
リーチに被せ気味にイリーナが口を開く、目付きが完全に指揮官のそれに切り替わっている。
「つまりバタリングの逮捕は中断ってわけか」
先ほどよりもスムーズな動きでテーブルに歩み寄り、落ち着いた声色のビアンコにイリーナとリーチが振り返る。
「落ち着いたか」
「ええ、まぁ。その…」
「大丈夫、分かってる」
ビアンコが口ごもるとイリーナが少し優しい声で短く言い、すぐに視線をモニターへ戻した。
「―これは絶対バタリングが裏で糸を引いているな、時間稼ぎだ」
わざとらしく咳払いしたリーチがモニター上の地図を見つめる。それに釣られてビアンコも地図を眺めていたが、不意にモニターを指さした。
「この地図なんだ?」
ビアンコが指さした先のウィンドウには封鎖地区から蜘蛛の巣状に張り廻られた赤い線が描かれた地図があり、そのうち数本は旧ピューソン・セントラル駅へ繋がってるように見える。
「なになに、バタリングの一味が使用している封鎖地区とその他の地区を結んでいる秘密地下トンネル図、となってるな」
リーチが地図の上に書かれている説明文を読み上げている最中、ビアンコが顎に右手を当てる。
「なぁ、これを使えばこっそり中まで入れないか? ここからここまで」
ビアンコが左手でモニター上のトンネルの線をなぞる、その線は緩衝地帯の傍から旧ピューソン・セントラル駅まで続いていた。それを見ていたオリファが感心したように眉を上げ、イリーナがため息をつく。
「いい加減にしろ、無理なものは無理だ」
「でも…」
呆れた顔をするイリーナにビアンコが向き直り、先ほどとは違い冷静で真剣なまなざしだが言い淀む。
「話ぐらい聞いてあげては?」
やり取りに割って入ったオリファがビアンコに助け舟を出す。その表情はどこか楽しそうだ。イリーナが腕を組んでため息をつき、それくらいならとビアンコに話を続けるように手を翳す。
「単純な話です、俺たちがバタリングのアジトにこっそり入ってアイシャだけ助けて戻る。それ以外の手柄は全部お偉いさんにくれてやるんです」
「簡単に言ってくれるな。外部からの支援どころか装備品も足りないのに…」
思わず目を瞑り右手で顔を覆うイリーナ、それに構わずビアンコが説明を続ける。
「装備というか、戦力なら問題ないんじゃないです? 二人に元の世界でやっていたみたいに戦ってもらえば。とにかく俺たちの仕業ってバレなきゃいい」
ビアンコが視線を向けたオリファがニコニコし始め、リーチが少し俯き顎に手を当てた。
「待ってくれ、それじゃつまりこうか? 万が一戦闘になった場合、都合よくアジト内かそのすぐ近くに転移が発生して転移生物が暴れたとという体にすると?」
「そんなところです」
ビアンコの荒唐無稽な提案にイリーナがテーブルの周りを小さくグルグルと歩きながら喋るのと同じタイミングで右手を顔の前で振りかざした。そして再び右手で顔と押さえるとテーブルにもたれ掛かる。
「ダメだダメだダメだ、不確定要素だらけじゃないか。無謀すぎる」
「―そうでもないかも」
苦り切った表情のイリーナをしり目にリーチが顔を上げた。
「先日確保したプラズマ兵器はここに保管してある、三つのパワーセルのエネルギーを一つにまとめれば弾数は足りるだろう」
「ん~。二、三人『食べさせて』もらえればどうにかなりそうかな~」
リーチに呼応してオリファも顎に手を当て、その様子に「お前たち…」とイリーナが困惑した声色になった。
「それに、奴らは僕たちが動員されることは考えてないんじゃないかな? 大人数の特別対応チームならともかく、少人数の侵入者なら隙をつけると思うけど」
「―あーもう!」
オリファのダメ押しにイリーナが悲鳴にも似た声を上げてしまう、そして少し黙った後右手を顔から退け腕を組むと長めに息を吐きテーブルから離れた。
「全く、揃いもそろって馬鹿ばっかりだな」
イリーナがそれだけ呟くと、凛とした顔で三人を見渡す。その目に覚悟が宿っていた。
「なら私も馬鹿になるか」
「…やったぜ!」
ビアンコが嬉しそうに小さくガッツポーズする。それに釣られるようにオリファは楽しそうな笑顔になり、リーチは小さくこくこくと頷いた。
「だがどうやってアジトの中に入る? 派手にやりあうのはなしだ」
「はーい、それなら一つアイディアが」
イリーナが三人を見渡すとオリファがニコニコしながら明るい声で小さく挙手する。
「よし、聞かせろ」
イリーナがそう言って仁王立ちしオリファと正対した。
複数の強力な投光器で照らされ、かつて多くの乗降客でごった返していたホームに似つかわしくない荷物を載せた小型リフトが、同じく似つかわしくない転移物が詰まっているであろう大小様々なコンテナや木箱の間を疾走する。機械の作動音と人々の喧騒が鳴り響くなか乱雑に復旧された三つある旅客ホームは全て貨物で埋め尽くされ、その間の狭い通路を小型リフトや手押し台車、はたまた人力で運ばれているコンテナなどでごった返していた。
三番ホームと書かれた吊り下げ看板の下では銃で武装したいかつい男の脇で、改造された保守作業用車両に繋がった貨車に急ピッチで乱雑に荷物が詰め込まれている。ホームのあちこちで荷物同士がぶつかったり、上手く車両に乗せられなかったりして構成員同士の小競り合いが起きており非常に険悪な空気がその場を支配していた。
そんな平穏とは程遠い空間の一角、一段高くなった小部屋の中でバタリングが電気スタンドの明かりの元、机にぶちまけられた書類を焦りを隠さない表情で必死にまとめていた。ろくに換気されていないような淀んだ空気の中、テーブルには資料が散乱しタブレットにはつい最近のイリーナの勲章授与式の写真と記事が表示され、その隣には画面が少しひび割れて真っ暗になっているアイシャのスマホも乗ってる。
「くそくそくそ…」
そんな焦りと怒りが入り混じった顔のバタリングの脇で、薄汚れた昼間の服装のままのアイシャが両ひざを抱えた状態で床に座らされている。頭に血がにじんだ包帯が巻かれ、耳は元の長いそれに戻っていた。表情は口が半開きでぼんやりしていて生気のない目は何もない空間を見つめており、右手が部屋の壁に固定されている手すりに手錠で繋がれている。
「あーもう! なんで私がこんな目に遭わないといけないのよ!!」
終わりの見えない資料集めに怒りを露わにし、バタリングが拳で机を叩く。すぐ隣で派手な音を立てられ、アイシャの体がビクッと震えた。間数を入れず、部屋のドアがノックされ一瞬響く外部の喧騒と共に紺色の作業着の上下に装備品を身に着けたこげ茶色の短いモヒカンを生やしたいかつい大男が部屋に入って来た。
「ドクター、もう潮時ですぜ。陽動部隊を動かしても夜明けまで持つかどうか、今のペースじゃ全部運び出すのは無理だ」
ドアを閉めたモヒカン男が開口一番、両手を体の外側に開くような仕草をしながらバタリングの指示へ不満を示した。それを背中で聞いていたバタリングが額に青筋を貼りながらモヒカン男へと振り返る。
「それをなんとかするのがあんたの仕事だったでしょ、渡した資金はどこいったの? 鉄砲玉なんてそこら中にいるでしょうに」
「もうそういうレベルの話じゃねぇ! サウスピューソンのアジトがバレたと思ったらガキをさらってこいって言うし、何考えてんだ! 今すぐズラからねぇと捕まる!!」
向き合って早々、バタリングがひどい剣幕で怒鳴りながらモヒカン男を右手で指さす。対するモヒカン男も負け時とあくまで冷静に反論する。
「ちゃんと計画あってのことよ、あんたは与えられた仕事をしてればいいの!!」
バタリングがそう吐き捨てると、モヒカン男に足早に歩み寄る。
「出ていけ! 出ていけ!!」
するとバタリングが叫びながらモヒカン頭の体を両手で叩き始めた。
「うわ、やめろ、やめろって!!」
バタリングの突然の蛮行に驚きつつ手馴れた様子で楽々とそれをいなすモヒカン男だが、これ以上食い下がるのは時間の無駄とばかりにされるがまま部屋の外に押しだされてしまった。バタリングによって勢いよく部屋のドアが閉められる。
そしてドアにカギを掛けてバタリングが苛立ちを露わにしつつ室内を歩き回ったと思えば、そのまま髪をかき上げて怒鳴り始めた。
「あー、全部あの女のせいよ。イリーナ・シュリャホバヤ!!」
叫びながら近くにあった本棚をひっくり返すと、納められていたファイルとその中身、本などと一緒に倒された本棚が派手な音を立てて床に倒れる。
「検体の提出は拒否するわ、私の組織をズタズタにしておいて勲章を貰うわ。何なのよあの女!」
バタリングが恨めしそうな顔で壁を睨みながら右手の親指の爪を噛む、それが癖になっているのはボロボロの爪を見れば明らかだ。
「私の欲しいものを悉く手に入れて…、不公平! あまりに不公平よ!!」
バタリングのその様子にアイシャが怯えた表情で少しでも離れようと後ずさりを試みる。しかし繋がれている右手がすぐに手錠に引っ張られ、鎖が鳴った。それを聞いたバタリングがハッと顔を上げ、爪を噛むのをやめて両手を後ろに組みアイシャの方に向き直る。
「ヒッ…」
バタリングと目が合ったアイシャの喉からか細い声のような何かが鳴った。あくまでもニコニコしているバタリングがアイシャの目の前まで歩いて行く。
「やだ、やだ…」
蛇に睨まれた蛙のごとく恐怖で動けなくなっているアイシャの目の前まで来たバタリングが彼女を見下ろすが、その顔は蛍光灯の明かりが逆光になっていて見えない。すぐにバタリングがしゃがみ込みアイシャの両頬に手を差し出していく。
「やだぁ…」
アイシャが微かな抵抗としてぎゅっと目をつぶるが、バタリングの両手が容赦なく顔を包み込む。その手はアイシャのすべすべとした肌とは対照的に指が細い割に関節が太く、肌もガサガサでひび割れていてお世辞にも手入れされているとは言い難い。
「大丈夫よ、悪いようにはしないから。私の言う通りしていれば、な~んの問題もないわ」
バタリングが猫なで声でそう言って聞かせるが、顔は狂気を隠しきれない笑顔だった。そこに本来アイシャに必要な愛や慈悲などは感じられない。そのままバタリングが微かに首を振って拒否するアイシャの頬を撫で続ける。その不快な手の感触と強すぎる力にアイシャの目に涙が浮かび始めた。と、突然机の上からバイブ音が響く。
「…はぁ、いつもこれよ」
笑顔の消えたバタリングが毒づきながら首を机に向けるとアイシャの頬を撫でるのをやめ立ち上がった。アイシャは両手から解放されたものの安堵することもできず目をつぶったまま縮こまっている。
そんなことも露知らずにバタリングが荒れ放題の机に視線を落とすと、アイシャから取り上げたスマホに着信画面が光っている。着信元は『イリーナ・シュリャホバヤ』となっていた。
「…まぁ良いか」
スマホの画面を見たバタリングが鼻で笑うと、振動しているスマホをそのまま手に取ってケーブル差込口にケーブルを差し込む。そしてそれをアイシャの目の前に差し出した。
「出なさい、スピーカーも付けて」
冷たい視線で見降ろしてくるバタリングにおびえながらスマホを手に取ると、顔の前でゆっくりと通話とスピーカをオンにした。にも拘わらず電話の先の相手であろうイリーナは何もしゃべらず、沈黙している。その様子にアイシャが涙目でバタリングを見ると、バタリングが顎を動かしてアイシャに喋るよう促す。
「も、もしもし…」
『もしもし、僕だよ。無事?』
声を震わせていたアイシャが予想外の相手の声を聞いて目を見開いた。なぜかイリーナのスマホからオリファが電話をかけてきているのだ。
「イエニスせんせぇ…」
声を聞いた安堵のあまり、アイシャが堰を切ったように涙を流し始め、そのせいで発した言葉の後半はまともに発言できてない。その場に縮こまるアイシャ。
『ケガしてない?』
「うん、それは、だい、じょう、ぶ…」
『なら良かった』
ぐずぐずと泣きながら何とか言葉を紡いでいるアイシャに、オリファが優しく気遣いながら言葉をかけていく。するとその様子を腕を組んで苛立ちを隠せない様子で眺めていたバタリングが、無言でアイシャからスマホを取り上げにかかった。
「! ダメ…」
「うるさい!!」
アイシャがスマホを奪われまいと抵抗する間もなく、バタリングは簡単にスマホを取り上げる。そしてバタリングがアイシャを睨みつけると、アイシャは再び怯えながら壁に後ずさりしそれを見たバタリングが満足そうな笑みを浮かべた。
「もしもし~。あなた、九番でしょう。なんで少佐のスマホを使ってるか知らないけど、何の用?」
『えっとですね~、それは少佐しかアイシャのスマホに電話がかけらないんですよ。というか流石に名前で呼んでほしいんですけど~』
猫なで声のバタリングに合わせるかのように明るくフランクな受け答えのオリファ。
「悪いけど、逆探知は無駄よ? そこまで馬鹿じゃないわ」
『しませんって~、なんならこのスマホは少佐から奪ってきましたから』
「は? あなた何言ってるの?」
物騒な言葉を発するオリファにバタリングが聞き間違いかと眉を顰めてしっかり聞き耳を立て始める。
『びっくりしました? まぁ良いですけど』
前置きしたところでオリファの声色が変わった。
『―ところで博士。ちょっと相談があるんだけど、恨みを晴らしたくない?』
「―ボス、どうでした?」
渋い顔でアジトを闊歩していたモヒカン頭が物陰から声をかけられる。モヒカン頭が顔を向けると、彼と同じ格好をした金髪を坊主頭並みに借り上げて頬まで痩せこけた男が大型コンテナの間から顔を覗かせていた。モヒカン頭が人目を憚るように少し辺りを見渡し、痩せた男のいる大型コンテナの隙間に潜り込む。そして気だるそうに懐からタバコの箱とライターを取り出すと、慣れた手つきで箱の中のタバコの一本を咥えて火をつけた。
「どうもこうもねぇな、あの博士はもうダメだ」
コンテナにもたれ掛かりタバコを一服したモヒカン男が吸い込んだ煙を吐き出す、辺りにタバコの臭いが広がるのも嫌な顔一つせず痩せた男は話を聞いている。
「手はず通り価値のありそうなものだけかき集めてズラかる、チンピラどもはほっとけ。一時間後には出るぞ」
「了解です」
痩せた男がそれだけ言うと大型コンテナの間から立ち去っていく。それに一瞥もくれず、短くなっていくタバコを咥えたままぼんやりするモヒカン男。
「引き際を間違えてねぇと良いが…」
フィルター部分だけになったタバコをコンテナに押し付けて火を消し、吸殻をそこらに投げ捨てながらモヒカン男は痩せた男とは反対方向に立ち去って行った。