第五話 爪痕 3
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ぽつ、ぽつと顔に水滴が当たる感覚でビアンコが目を覚ました。全身から発せられる痛みにうなり声と顔を歪ませながらぎこちない動きで少しだけ上半身を起こすと、足を半自動散弾銃に取り付けられたライトが照らしているのに気づく。その先は二本の錆びたレールとくすんだコンクリート製の枕木、人間の頭部大のコンクリートの瓦礫が散乱しているのが照らされている。それを見てビアンコが自らが置かれた状況を察した。
「くそ…」
ビアンコが苦悶の表情を浮かべながら思い通りの動かない体に鞭打ってレールの間で何とか上半身を完全に起こすと、体に乗っていた細かい瓦礫がパラパラと下に落ちていく。全身埃まみれでボディーアーマーの一部の布は切り裂かれて中身の防弾プレートが顔をのぞかせている。次にヘルメットのベルトを外してそのまま乱雑に脱ぎ捨て、埃を払うように首を左右に振った。そして半自動散弾銃を手繰り寄せてライトで天井を照らすと、そこにはぽっかりと階層二つ分貫通した穴が開いていて、上の方ではちろちろと微かな明かりがその階層の天井に反射しているのが見えた。恐らくエントランスの戦闘でオリファが放った魔法の残滓だろう。
「やっぱり地下鉄のトンネルまで落ちたのか…」
ビアンコがライトを天井からトンネルの先、止まっている電車に移しながら気絶する前の出来事を思い出そうとする、すると今度はドッと冷や汗が出て顔が青くなった。水が滴る音しかしない静かなトンネル故に心臓の鼓動が異様に大きく聞こえ、それがどんどん早くなっていくのが分かる。それでも体は考えずとも素早く得物を操作して金属音と共に動作に問題ないことを確かめた。そしてビアンコが何とか上半身を捻って半自動散弾銃の銃口と共に背後へ振り返ると、そこにはトンネルに詰まった瓦礫とその前で首があらぬ方向に向いてこと切れたクリーチャーの死体があった。それを見たビアンコが胸をなでおろして一気に脱力し、腕で額の汗を拭う。文字通り肩で息をしている。
「さっさとここを出ないと…」
ビアンコの頭に恐らくイリーナ達は自分を見捨てて撤退しただろう、と考えが浮かぶ。それ自体を責める気はない、当然の判断だ。という事は彼らの支援は受けられない、自力で脱出するしか助かる方法はなかった。
「大丈夫、元に戻っただけだ…」
憮然とした顔で息を整えつつ痛みも薄れてきたのを確認したビアンコが立ち上がり、前方の電車に向かって進み始めるものの瓦礫が散乱していてうまく歩けない。電車は中央の脱出用扉が開いていて脚立に似た昇降用階段が外側に取り付けられている。電車の隣はホームになっていて、ホームの淵に取り付けてある反射板が生きている電飾に見えた。ただしホームに上がる階段部分は瓦礫で潰れている。ビアンコは電車の前までたどり着くと、開けっ放しになっている脱出用扉から車内を照らしたが一か所ぐるりと輪切り状に明らかに車体が歪んでいる以外、異常は見られない。埃がたまったロングシートに整然と並んだ閉まった側面の自動ドア、手すりやつり革があるだけだった。
訝し気な表情をしつつビアンコが昇降用階段を使って電車に乗り込む、乗客がこの電車を訪れるのは十年ぶりだろう。かび臭さの中ビアンコがこつこつと小さな足音を立てながら車内を進んでいく、当時の中づり広告までそのままだ。次に窓からホーム側を照らすと、等間隔に並んだひび割れた柱やガラスが割れて電飾がむき出しになった看板などが壁にかかっているが、クリーチャーの姿はない。そしてビアンコがホームに出るために閉まっている自動ドアの一つの前に立ち、半自動散弾銃のライトを消す。真っ暗な中手探りでスリングを使って半自動散弾銃を背負うようにようにすると、取っ手代わりに自動ドアに開けられたくぼみに指をかけた。
「…ふん!!」
小さい掛け声と力んだ顔で扉が開く方向に力をこめる。が、自動ドアはビクともしない。何度か試したが、やはり結果は同じだった。
「くそ、みんなが居てくれてば…」
ビアンコが小さく自動ドアを叩いた後、悔しそうな顔をして諦めの色を浮かべ自らの額を軽く自動ドアにたたきつける。額の痛みよりも怪物が跳梁跋扈するこの地下空間で、いかに自らが無力なのか痛感させられる方が大きかった。
「…ん?」
するとビアンコが目の前の銀色の自動ドアの違和感に気づく、微かだが緑色の光を反射しているのだ。頭を起こしたビアンコが驚きの表情で辺りを見渡すと、隣の車両から緑色の光が漏れているようだった。半自動散弾銃のライトの光が強力すぎて見落としていたらしい。ビアンコが得物を構えなおすこともないままふらふらと隣の車両へと続く扉を開けると、すぐ目の前のロングシートの上に緑に光るサイリウムが付いた小さい黄色のコンテナボックスが乗っている。その脇にシートに腰掛けて力なく手すりにもたれ掛かっている人影の下半身があった。その人影はぱっと見防護服を身に着けているように見える。
「こいつ…、!?」
ビアンコがおもむろに予備のライトを取り出して人影を照らす、と同時に何があったか理解して眉を顰めた。黄色い防護服を着た人物の足元にはまだ新しい血だまりができていて、その中に小型のリボルバー拳銃が沈んでいる。首元から上はライトの照らす範囲から外れているが、胸元の防具服は無数の赤黒い点が飛び散っていて何があったかを知るにはそれだけで充分だった。ビアンコがひとまず脇のコンテナボックスを手に取り、右腕の脇に挟む。
続いて車両の奥を照らすと、この車両の損傷はひどく窓ガラスは割れ放題どころか天井に穴まで開いているのが分かった。ただ自動ドアは半分開いており、ホームには出られそうだとビアンコが一安心する。そして最後に照らした一番奥の暗闇の中に白いものが寄り集まった塊が浮かび上がったが、その正体にビアンコが言葉を失った。
「そんな…」
そこには数十体の人骨が身を寄せ合うように座り込んだ状態で鎮座していたのだ、一体づつ薄汚れた着衣や身に着けているものもそのまま。それぞれの頭蓋骨が虚無を向いている。惨劇の犠牲者たちで間違いないなかった。立て続けにいろんなことが起こりすぎて心が付いていかず、はは、と変な笑い声を出しながらビアンコがふらふらと遺体たちに近づいていく。
「どうしろってんだよ、こんなの…」
遺体たちの目の前で足を止めたビアンコが場に不意に力なく項垂れて視線とライトを足元へ移す。と、一体の遺体の手首にカラフルなミサンガが巻き付いているのに気づく。その遺体は他のそれと比べて背が低く小柄で、女の子用の服を着ているようだった。その隣にはスーツにネクタイ姿の成人男性の大きさの遺体が寄り添っている。
「これって…」
ビアンコが目を丸くしてしゃがみ込みミサンガへ触ろうとした瞬間、耳に突然先ほどからいやというほど聞かされた雄たけびが飛び込んできた。その直後激痛と共にビアンコの視界が横に歪んだ。車両から自動ドアごと弾き飛ばされ、砂ぼこりを上げ瓦礫まみれのホーム上を滑走する。天井の穴から飛び込んできたクリーチャーがビアンコの上半身を薙ぎ払ったのだ。背負っていた半自動散弾銃はホームを滑走した衝撃でスリングがちぎれ明後日の方向へ吹き飛び、手に持っていたライトとコンテナボックスもビアンコと同じ方向に飛んでいく。後者に至ってはホームの壁にたたきつけられてロックが外れ中身が飛び出した。仰向け状態でボロボロの天井を仰ぎながらビアンコが血を吐く。
ビアンコが痛みに悶絶しながら体を起こし、うつ伏せ状態になると口から血がこぼれた。何とか顔を電車の方に向けると、床に転がったライトに照らされた一体のクリーチャーがビアンコにゆっくりと近づいてきているのが見えた。口から大量の唾液と喉を鳴らすような音を垂れ流している。
「くそぉ…」
ビアンコが右手で拳銃を抜く―、よりも先にクリーチャーが雄たけびを上げて飛び掛かってきた。ビアンコが真っすぐ飛んできたクリーチャーとぶつかって拳銃を弾き飛ばされながら再び仰向け状態になり、クリーチャーがその上に覆いかぶさるようにのしかかり首元へ噛みつこうとする。ビアンコが苦悶の表情を浮かべたままクリーチャーの口の淵へ左手の親指と人差し指の間を突っ込んで噛みつかれるのを阻止するが、グローブ越しに血がにじんだ。クリーチャーの唾液がビアンコの体含め周囲に飛び散り、その悪臭っぷりに吐き気がこみ上げてくる。
「どけ! どけ! どけ!!」
ビアンコ叫び声と共に自由な右手でクリーチャーの頭部を何度も殴りつけるが、全く効果がないばかりか殴るたびに右手の拳が悲鳴を上げるだけだった。素手で殴るのをあきらめたビアンコが右手で周囲の床を必死に弄るが、手短な瓦礫も掴むことができない。そうしている間にも左腕がクリーチャーに力負けして肘が外側に曲がりはじめ、首元と鋭利な歯の距離がどんどん縮まっていく。ビアンコの脳裏に最悪の結末がよぎる、力尽きるまで再生した自分が彼らの餌としてひたすら貪られるという未来だ。
「ふざけんなっ…」
ビアンコが歯を食いしばってクリーチャーを押し返す。すると床を弄っていた右手が何かに触れ、藁にすがる思いで感触だけで掴んだ棒状のそれを武器替わりに再びクリーチャーの頭部を殴りはじめる。何度か金属同士がぶつかる音が響いた後、突然風切り音と電子音を混ぜたような音と共に右手の棒が光った。クリーチャーを殴りつけていた側がら発せられた赤いそれは周囲を照らしながらクリーチャーの頭の反対側まで突き抜け、クリーチャーが断続的な悲鳴を上げながら突然全身が激しく痙攣させる。周囲に肉が焦げる音と臭いが広がっていった。
ビアンコがその様子に歯を食いしばったまま混乱したように目を見開くと、すぐにクリーチャーが動かくなってその全身がずるりと彼の胸元に落ちてきた。
「ぐぇ!?」
想像以上の重量がビアンコにのしかかり、一瞬息ができなくなる。それでも右手の棒は離さなかった。
「なんだよこりゃ…」
もぞもぞとクリーチャーの下から脱出し、座り込んだビアンコが改めて赤い光を見る。長さ一メートル程度の光る赤い棒が形成されいて、微かに熱を放っているのが手首越しにわかった。徐に一振りしてみると一瞬だけ物が振動する音と電子音を混ぜたような音が鳴る。そんな赤い光を光源に改めてクリーチャーに視線を落とすと、頭部の真ん中から後頭部にかけてが焦げて焼き切れていて、真ん中の部位は最初に赤い光が貫通した場所と一致しているようだった。
「光の刃…」
ビアンコがまじましと赤い光刃を見つめて呟く。すると視界の外で瓦礫が転がる音がした。ビアンコがそちらに視線と光刃を向けると、数体のクリーチャー達が赤い光にぼんやりと照らされる。皆もれなく不気味に唾液を垂らしていた。
「ちっ、次から次へと…」
ビアンコがゆっくり立ち上がると口元についたままの血を拭い、両手で棒、もといビームソードの柄を握る。正直ナイフ以外の刃物の戦闘術は知らないが、やるしかないと腹をくくった顔になった。すぐにクリーチャーの群れがビアンコに襲い掛かってくる。
「オラァ!」
飛び掛かってくる先頭の一体にビアンコが乱雑に赤い光刃を振り下ろすと、あっさりクリーチャーの胴体が斜めに真っ二つになった。刃が獲物に刺さった時の重さなど全くない。二体目のクリーチャーは下から上に切り上げる。こちらは胴体を切り裂き、真っ赤になった切断面と焦げた臭いを放ちながら切り裂かれたクリーチャーが床をのたうち回った。そこから暫く電子音と赤い光が暗闇を切り裂く度に短い悲鳴と床に物が倒れる音が響き、気が付けば彼の周りに十体近くのクリーチャーの死体が転がっていた。
「はは、すげぇな。これ…」
騒ぎを聞きつけ続々と集まってくるクリーチャー達を前に、肩で息をしながらビアンコは思わず笑みを零した。一方のクリーチャー達は集まってきたものの、予想以上に抵抗する獲物の前に怯んだのか不快に鳴きながら取り囲むだけで手を出してこなくなってしまった。
「なら、こっちから…。―っ!?」
ならば打って出ようとビアンコが前に歩きだす、つもりだったがあっさり足が縺れる。踏ん張って片膝を付くが、それ以上は足が動かない。ビアンコがしまったという顔になった。更に間の悪い事に、いきなりビームソードの光の刃が消えてしまう。クリーチャー達がその隙を見逃すはずもなく、群れの中の一体が飛び掛かる。点灯して転がったままのライトの光を頼りにビアンコがそれを見て最後の悪あがきとばかりにすかさず顔の前に両腕をかざした。その瞬間、なぜか笑顔のアイシャの顔が脳裏をよぎる。
しかし噛みつかれた痛みや体当たりされた衝撃が来るよりも前に、どこからか間が抜けた電子音が響く。次の瞬間には紫色の光がクリーチャーのこめかみを撃ち抜いてその体が明後日の方向に飛んでいくのが組んだ腕の隙間から見えた。
「伏せろ!!」
聞き覚えのある声がしたが、口で答えるよりも先に体が動きビアンコが床に突っ伏す。それを合図に今度は彼の頭上を光が掠めながら周囲のクリーチャー目がけ複数の電子音という名の銃声と共に紫と赤色の弾丸の嵐が降り注ぎ、強靭な皮膚を持つクリーチャー達の体に簡単に風穴が開いていく。
僅かな間だけパーティ会場のような派手な光との音の乱舞が終ると、誰かの気配が近づいてきて頭を伏せていたビアンコの目の前で止まった。それに呼応してビアンコが顔を上げる。
「生きてるか?」
ビアンコの顔を上げた先にはイリーナがしゃがんでいた。右手には保管室にあったプラズマライフルが握られていて、真顔だが心配そうにしているのが見て取れる。
「…どう、にか」
ビアンコの表情から思わず安堵の笑みがこぼれ、それに釣られてかイリーナも表情が緩んだ。
「さ、こんな場所さっさと出よう」
イリーナから差し出された左腕を掴みビアンコが立ち上がると、周囲ではリーチとオリファがそれぞれプラズマライフルとプラズマミニガンを携えて周囲を警戒しているのが見える。二人の後ろ、ビアンコが落ちてきた穴の辺りには別のサイリウムが光っていて、その周囲に微かだが数本のロープがぶら下がっているのが分かった。
「行くぞ、こっちだ。―なにしてる?」
「ちょっと待って」
ビアンコが立ち上がった後に渡されたライトを電車の方に向けたまま動かない。ロープの元へ急かすイリーナの言葉を遮ってビアンコが片足を引きづりながら車の方へふらふらと進んでいくと、それに気づいたオリファとリーチが無言で引き返してくる。
「待て、どこ行くんだ!」
電車の車内に入ろうとしたビアンコの腕を掴み制止するイリーナ、歩みを止めたビアンコがライトで車内の一角を照らす。それに釣られて車内を照らしたイリーナが呆気に取られる。今度はイリーナがふらふらと車内に入っていき、その後ろをビアンコが付いていった。
「連れて帰らないと…、そうでしょ?」
ビアンコの顔は疲労の色を隠しきれていないが目力はしっかりとしていた。リーチとオリファも駆け付けると無言のまま車内を見つめている。
「…えっ、そんな、そんな」
車内に入って遺体達の周囲を照らしていたイリーナの震える声を漏らす、覚えのあるミサンガを見つけたのだ。彼女が自身の口元を押さえ、顔つきがどんどん変わっていく。
「ここにいたのね。ずっと、ずっと…」
その場で思わず蹲りそうになるイリーナを何とか支えるビアンコ、棄てられた地下鉄のホームにイリーナの嗚咽がこだました。