第五話 爪痕 1
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「…ったく、数日で前言撤回は早すぎるだろ」
晴れた日の早朝、封鎖地区の真ん中で周りに集まっている警備の兵士達の喧騒を背景に、ヘルメットとライトが追加された半自動散弾銃を小脇に抱えたビアンコがぼやく。その恰好はいつもの装備品を身に着けているが、その内側に懸垂下降が行えるようにハーネスを装着している。ビアンコの視線の先には、屋根が半分なくなり『サウス・ピューソン駅』と書かれた潰れて傾いた看板と外れかかった規制線が張られた地下鉄駅への階段があった。周りはちょっとした大通りの名残があり、かつてはビルだったものの瓦礫が散乱しているという封鎖地区なら見なれた光景が広がる。
「ぼやかないぼやかない。気分転換にはなるし」
隣で同じくいつもの笑みを浮かべてビアンコの得物と同じようにライトが追加された半自動散弾銃、ハーネスと装備品を身に着け、これまた同じようにヘルメットを抱えているオリファがビアンコを窘める。窘められた本人の顔は不満げだ。
「地下は未だに手つかずなんだろ、わざわざ入っていくやつの気が知れないぜ」
「まぁ、これから僕たちもその気が知れないやつになるんだけどね」
オリファが軽口のつもりでそう言って見せるが、ビアンコはそういう風には聞こえなかったのか一言「やめろよ」とだけ言い返す。
「そんな文字通り取ってつけたようなライト程度で送り込まれるんだぞ」
ビアンコがオリファが抱えているヘルメットを指さす。側面に本当にひとまず取り付けただけのような民生品のヘッドライトが付いていた。「仕方ないよ」とオリファはあまり気に留めていない体だ。
イービンヒルからの移動中、車内でイリーナから聞かされた概要は昨晩回収された転移物の一つを作業員が勝手に持ち出したというトラブルで、その作業員が逃げ込んだのがビアンコ達が見ているサウス・ピューソン駅への出入口の階段、ということだ。
一方で先日のバタリングの押しかけ事件の関係でしばらくはイービンヒルの外での任務はないと思っていたビアンコにしてみれば、急な予定変更はよくあることだが今回は特に気分がよいものではない。特に封鎖地区の地下は惨劇から十年が経過してもほとんど探索されていない未知の空間で、そんな場所へいきなり放り込まれるのも不満の元になっていた。この四人は洞窟探検のプロではないのだから。
「はぁ…」
オリファに返す言葉もなくなったビアンコがため息と共にひび割れたコンクリートの地面を見つめた。考えることがなくなった途端、脳裏にアイシャの事が浮かんでくる。今朝方キーンの元で預かってもらっているので問題ないはずだが、やはり心配になってしまう。以前はこんなことなど一切浮かばなかったのに、今では当たり前のように彼女の事が浮かんでくるのだ。まるで『モヤ』のように。
「まだ心配してるの?」
「は!?」
いたずら心が見え隠れするオリファの声にビアンコがバッと顔を上げた、その表情は恥ずかしそうに目を泳がせている。対照的にいろんな意味でとても嬉しそうにニコニコしているオリファ。
「顔に書いてあるよ、アイシャが心配ですって」
「んなわけないだろ! 大佐の奥さんまで連れてきて面倒見てくれるわけだし!!」
「あはは、分かったわかった」
ボリュームが大き目な声でしどろもどろに言い訳するビアンコを見てオリファが思わず笑いながら手をひらひらさせる。それを見たビアンコが決まりの悪そうな顔で腕を組み視線を反らすと、オリファがいつもの笑みに戻った。
「とりあえず、ちゃんと生きて帰ろう」
「…分かってるよ」
二人が短く言葉を交わす。そうこうしていると、ビアンコの視線の端にイリーナとリーチが歩いてやってくるのが入ってきた。こちらも例に漏れずビアンコ達のそれと同じようにライトが追加された半自動散弾銃と軽機関銃を担ぎ、これまた同じくヘッドライトがヘルメットに追加されている。
「準備できてるな?
「ええ、道具はばっちり」
「いつでも行けますよ」
イリーナの質問に短く答える二人。
「さて、状況は移動中に伝えた通り。構造は地下一階が地下通路、地下二階から駅施設。地下三階と四階が地下鉄ホーム。地下一階部分はドローンで偵察したそうだが、崩落含めひどい有様だと」
「対象の作業員は黄色の防護服を身に着けている、転移物の保管ケースも同じ色だ。そして一応惨劇前のフロアマップは、この通り」
イリーナの説明の後にリーチが補足と小ぶりの防水マップケースに入ったフロアマップを四枚見せ、ビアンコとオリファに手渡す。ビアンコがマップケースに視線を落とすとホームや改札の場所などが立体図と平面図両方で記されており、当時のショップガイドなどもばっちり記入されている。
「あんまり広くなさそう」
「私もそう思う。ひとまず進める場所だけ進んで、成果がなくても一時間で地上に戻る。少しでも塞がっている場所は後回しだ」
イリーナがオリファの呟きに同意しつつ最後に「質問は? と付け加える。とオリファが口を開く。
「無線の使用は?」
「残念だがなしだ、ひとたび地下に潜ったらどうせ地上とも通じん。絶対離れるな。…他には?」
イリーナが説明してみせると、みな黙って質問なしと言わんばかりにイリーナへ視線を送った。
「よし、では出発」
そういってイリーナが抱えているヘルメットを被るのを皮切りに、他の面々もヘルメットを被った。そしてビアンコがマップケースをポーチに突っ込み、ロープなどの装備が入った大きなバッグの肩掛けベルトを手に取ろうとした時、オリファから声がかかった。
「今回は僕が持つよ」
「…大丈夫か」
驚いて一瞬目を丸くしたビアンコへオリファがいつもの笑みを向ける。
「たまには代わっても罰は当たらないでしょ?」
「分かった、無理すんなよ」
オリファの言葉に押されてビアンコがバックの肩掛けベルトをオリファに手渡す。そして二人は地下鉄の出入口へ向かって移動し始めたイリーナの背中を追いけた。
「リーチ、先導してくれ」
「了解」
イリーナの指示でリーチを先頭に四人が真っ暗な出入口を下に降りていくと、まず淀んで埃っぽい空気が鼻についた。各々が階段を降り始めてすぐにヘッドライトと得物に取り付けてあるライトのスイッチを入れ、足元を照らす。それぞれが照らした範囲だけ古ぼけたクリーム色のタイルや柱、瓦礫がなどが映った。
一列で奥へ進む四人が奏でる足音以外、大きな地下通路は不気味に静まり返っている。当然だが中はひどく荒れ果てており、足元の大小さまざまな瓦礫をはじめ、天井からの支えを失って傾いてぶら下がっている吊り下げ看板や、ひっくり返った備え付けのベンチや棚、果ては犠牲者が残していったであろうバッグなどが散乱、挙句に他の幾つかの地上への出入口は崩落していて微かな隙間から地上の光が差し込んでいるといった有様だった。そしてそのすべてに十年分の汚れと砂ぼこりが堆積している。
「本当に当時のままじゃねぇかよ…」
「略奪されてないのが気になるね」
構内を見てビアンコとオリファが素直な感想を漏らしていると少し進んだ辺りでリーチが合図して立ち止り、後ろの三人がしゃがんで周囲を警戒する。リーチのライトは進行方向にある下層へ続く階段を照らしていて、幸いなことに大きな崩落もなければ奥まで通路が続いているようだった。
「どうした?
「あの階段に続くように床の埃が消えている」
リーチが軽機関銃を動かして階段手前のタイルを照らすようにすると、確かに人一人分の幅だけ砂ぼこりが掃かれたようにタイルの色が変わっていて文字通り道ができている。イリーナが右手を自身の顎に当てた。
「ルートは他にも幾つかありますけど、どうしますか?」
他の通路を見渡しながらオリファがイリーナに指示を仰ぎ、その様子を黙って見ているビアンコ。
「よし、下に降りる。行け」
「了解」
イリーナの指示で四人が下に降りる階段に向かって足を進める、と最後尾のビアンコが気配を感じて階段の手前で足を止め振り返った。気になる箇所をライトで照らすが、暗闇の中に柱があるだけだ。
「…気のせいか」
ビアンコがそう呟いて足早に階段を下りていく。ビアンコの姿が見えなくなった後、柱の裏側から黒い影が暗闇に飛び出していった。
「…これはひどいな」
地下二階に降りてすぐ、声を上げたのはイリーナだった。当時の地図上では改札のなどがある駅のエントランスだった地下の大空間が大きく崩落していたのだ。おかげで空間の広さが半分程度になっていてライトで天井付近まで照らすが、ほとんど瓦礫が詰まっているように見えた。そして地下一階と違い空気が湿り気を帯びていて、水がしたたり落ちる音もしているためどこかに雨水でもたまっているのだろう。あちらこちらに開いた穴や途中で折れて突き刺さったコンクリートの柱が刺さっている床が、当時の凄惨さを物語っていた。
「少佐」
大空間の脇、崩れていない箇所を探っていたオリファがイリーナへ手招きすると、彼女が崩落して穴だらけになっているエントランスの床を進んでいく。
「なんだこれは…」
オリファの元に向かったイリーナが目を丸くする。ビアンコもライトで照らしているその先に、コンクリートの壁に人一人が通れる程度に開けられた荒々しい穴が開いていたのだ。出入口がない箇所に穴を開けて通路にしたらしい、本来はちょっとした倉庫として使われていたのか穴の反対側の壁には物が置かれたままの棚が残っている。穴の断面はとてもでこぼこしていて、ところどころ中の鉄筋が赤茶色になってむき出しになっていた。
「雑な仕事だな」
「そりゃ建築業の認可受けてないだろうしね」
むき出しで処理されていない鉄筋を見ながら、かび臭さに顔をしかめているビアンコとオリファが言葉を交わす。
「誰かが惨劇の後に開けたんだろう。例の作業員の一味かやったか、或いは…」
リーチが穴の淵を上から下までなぞる様にライトで照らした。
「トラップの類は無さそうだ」
「よし、中に入ろう。気をつけろ」
リーチが頷いたのを見てイリーナが言った。今までと同じようにリーチを先頭にして穴に入っていく。本来部屋に繋がっていた無機質なコンクリートの壁でできた廊下部分に四人が差し掛かった、あまり広くない廊下の強引に外されひしゃげた倉庫のドアが床に転がっている。廊下のエントランスに繋がっているであろう方向は瓦礫に埋まり、反対側は左右に等間隔で幾つか扉とガラスの割れた窓が配置されているため部屋があることをうかがわせた。そして床にはすっぽりとビニールシートが掛けられた矩形の物体が左右の端に寄せるように置かれてるのだが、その数は数えきれず、シートが中央に向かって緩やかに盛り上がり、周囲に液体が蒸発したシミがくっきり残っている。
「冗談きついぜ…」
覚えのある臭いに胃をむかむかさせつつシミをライトで照らしたビアンコが思わず足を止める。その間も先頭のリーチはずんずん廊下を進んでいくが、不意にその足元で何かが折れる軽い音がした。三人の緊張を孕んだ視線がリーチに集まり、彼が歩みを止る。
「罠か?」
「いや、違う。恐らく…」
表情が硬くなったイリーナの問いかけに否定的な言葉を返すリーチ。リーチが足元を照らすと、気づかぬままシートの一角へ足を進めていた。ゆっくり足を退けると破れたシートの隙間から粉々になった白い物体が顔をのぞかせている、骨のようだった。
「失礼」
リーチが後ろの三人へ顔を向け肩を竦ませる。バラクラバを着用している以前にもともと顔に表情を表す機能はないため身振り以外で感情を図ることは難しいが、どうやら本人は重大な問題とは考えていないような雰囲気だ。すぐ後ろにいたイリーナが眉間にしわを寄せる。
「リーチ」
小声だが怒りを含んだイリーナの声にリーチが「悪かった」とだけ答えた。
「よし、もう少し進んだら入れる部屋を調べる。開かない扉は無視しろ」
イリーナが指示を飛ばす。四人はシートを踏みつけないようにゆっくり廊下を進み、左右に扉がある箇所までやってきた。向かって右側の扉がはっきりわかるほどに歪んでいて、開きそうにない。ビアンコとオリファが左側の扉の左右の壁に張り付き、お互い向き合って準備完了の合図として頷く。そしてゆっくりビアンコが扉のドアノブに手を伸ばす、と手が当たった瞬間に扉がゆっくり廊下の方へ倒れてしまった。
巻き上がる砂ぼこりで二人が思わず目をつぶってせき込みながら片手で顔の周りの埃を払う。少し怯んだもののすぐに片目だけ薄っすら開けたビアンコがライトで部屋の中を照らすと、荒廃した部屋の真ん中に白色の小山があるように見えた。そして砂ぼこりが晴れ、両目を開くと小山の正体が露わになる。
「うっ…」
小山の正体が分かった瞬間、ビアンコから妙なうなり声が漏れ出た、ライトが照らした先に山積みになった人骨があったからだ。複数人の人間の全身骨格がバラバラにされて乱雑に積み上げられている。周囲にはそのために使ったであろう金属部分が真っ赤に錆たシャベル数本が放置してあった。その光景にイリーナも目を見開いて手で口を覆っていて、オリファも笑みが消えた顔で不快そうに眉を顰めた。
小山を見てすぐ、ビアンコは胃から何かがこみあげてくる不快感から来た道へ引き返すと、廊下の脇で背中を丸めて今朝の朝食を吐き出してしまった。何度も悲惨な現場は見てきたつもりだったが、今回は格が違う。この場の雰囲気もそうだが、遺体をぞんざいに扱う人間がいることを目の当たりにしたのがショックだった。
「―平気か?」
口内のべた付きから来る不快感を抱えたまま戻ってきたビアンコにイリーナが声をかけると、ビアンコは少し俯きながら「ええ、まぁ…」とだけ答える。イリーナの後ろではリーチとオリファが倒れた扉を起こして小山のある部屋の出入口に立てかけていた。
「終わりましたよ」
「よし、先を急ごう」
オリファの声を背中に受けながら、普段と同じように振る舞うイリーナ。ビアンコも何も言わずそれに従った。そして四人が更に少し進んだところで、T字路になっている箇所に出くわす。分岐は正面と右だが、正面の廊下は少し行った先で行き止まりになっている。
「異常なし、この先はまた少し進んで右に曲がっている」
一旦立ち止まって右の分岐を覗き込んだリーチが状況を報告する。
「このまま進むとエントランスの崩落個所を回避できそうだな」
「あの開けられた穴はそのためだったのか」
おぼろげながら位置関係を把握したイリーナとビアンコが状況を整理している最中、オリファは行き止まりの方向へ顔を向けていた。じっと行き止まりの壁を凝視した後、おもむろに持ち運んでいたバックをその場に置く。
「ちょっと見てくる」
「おい、どうした!? そっちは行き止まりだぞ」
バックを置く音で異変に気付いたイリーナがオリファの方へ顔を向けた時には、既に当人は行き止まりの方へ向かってずんずん歩き始めていた。ほかの二人が慌ててオリファを追いはじめる最中、ビアンコがしっかりバックを回収して後に続く。オリファは行き止まりの壁の前に立つと何か探すようにしっかり壁の四方をライトで照らしはじめる。
「なんだなんだ、勝手に動いて―」
「待って」
すぐ追いついたイリーナが諫めようとするのを、被せ気味に遮るオリファ。その顔に笑みはなく、緊張感を含んだ凛々しいそれになっている。散々壁全体の隅々までライトで照らした後、ライトを左手に持ち替え壁を睨みつけながら右手をかざした。その数秒後、壁一面に大きく白く光り輝く円形の模様が現れる。二重円になっていて、外側と内側の円の間には未知の文字がびっしり詰まっており、中心に六芒星に似た模様が書かれていた。その光景の異様さにオリファの後ろの三人が息をのむ。
「これって…、魔法陣!?」
魔法陣から発せられる光に見とれたビアンコが声を上げる。話は聞いていたが、実物を見るのは初めてだ。光る魔法陣を見つめていると、その光に体ごと吸い込まれてしまうような感覚になる。一方のイリーナは口を横一文字に結んだまま、睨みつけるように魔法陣の光を浴びていた。リーチも魔法陣を凝視しているようだが、相変わらずそれ以上は分からない。そして発光したまま魔法陣は素早く右九十度に回転し、消えた。と同時に壁からゆっくりと頑丈そうな鉄の扉が浮かび上がってくる。綺麗さや形状からして明らかに後から据え付けられたもののようで、はっきり扉が出現するのと同時にオリファが右手を下ろす。扉の隙間から光が漏れていた。
「隠し扉、だな」
「ええ、魔法で隠してましたね。…行きます?」
落ち着き払った声のイリーナにいつもの笑みに戻ったオリファが問いかけた。「もちろん」と返すイリーナに呼応してビアンコとリーチがそれぞれの銃を扉の方へ構えなおす。
「さて、何が出るやら…」
オリファがドアノブに手をかけそれを回し、扉を開ける。その先は今まで通り抜けてきた空間と比べて場違いなほどしっかりとした照明が完備されていた。幸い中から何か飛び出してくることがなかったが、廊下と違って埃っぽさも異臭もない真新しい白い壁と床が四人を出迎える。各々のライトと消灯しつつ四人が安全を確認しながらゆっくり室内に入っていくと、それなりに広い部屋の手前は物が置かれず広い空間になっている。
少し奥には三列ほど等間隔で並んだ業務用に頑丈なスチールラックが天井まで伸びていて、その棚には大小さまざまなコンテナがびっしり乗せられていた。そのスチールラックの脇、普段通路として使っているであろう少し広い空間を見たオリファが立ち止まって片ひざを付き前方に何か見つけたと指で合図する。彼が指し示した先には部屋の床に棚から落ちた幾つかのコンテナが転がっていて、更に部屋の奥へ伸びている血だまりがあった。まるで死体が何かに引きずられていったかのようで、その血の帯は部屋の奥から別の部屋の曲がり角へ向かっている。
イリーナが状況を確認すると、リーチの肩を叩く。オリファと交代するようにリーチが静かに先頭に立った。リーチが横を通り過ぎた後、オリファが立ち上がる。オリファの後ろとイリーナが固め、最後尾にビアンコが付いた。血の帯を踏まないように、足音を立てずに奥へ進んでいく四人。リーチが曲がり角の先を覗き込むと、血の帯が部屋同士の境界に張られた食品工場にあるような厚手のビニールシートカーテンの中に伸びているのが見えた。そのカーテンにも血痕が複数付着しており、その中から蠢く物体とそれが発しているであろう咀嚼音が微かに響いてきている。それに一見すれば動じることなくオリファとリーチがカーテンの左右に展開し、互いに頷くとリーチが軽機関銃の銃身をカーテンの割れ目に差し込みそれを広げる形で室内を覗いた。
カーテン内の室内は小規模な研究所のようになっており、壁沿いに保管庫や薬剤入りの瓶が収められた収納棚、その手前にはビーカーなどをが乗る黒い天板と金属製の足が付いた作業台がある。作業台の上は物が散らばっていて、いくつかは床に落ちてガラス製のものは破損しているようだった。そして肝心の咀嚼音の正体に目をやると、広くない部屋の奥で黄色い防護服を着て仰向け状態で血だまりに沈む人間の上半身に人の形をした何かが馬乗りになっている。その肌は異様に白く、胴体も骨が浮き上がるくらい痩せこけていて、派手な咀嚼音を発生ながら人間としては長すぎる両手で何かチューブ状のものをひたすら引っ張り出しているように見えた。それを見たリーチが片手で周囲に待機するように合図する。ほかの三人が固唾をのんで見守る中、リーチが死体をむさぼるクリーチャーの後頭部に狙いを定めて引き金をしぼった。
数回の連続した銃声と共に発射された弾頭は、正確にクリーチャーの頭部に命中する。しかし結果は被弾した衝撃でクリーチャーの頭部が前のめりになると同時に金属同士がぶつかる時と似たような音が響くだけだった、クリーチャーの頭部が弾頭を全て弾いたのだ。食事を邪魔されたクリーチャーはすぐに犯人に気づき、目のない、無数に牙の生えた血まみれの口を大きく開いてビアンコ達に文字通り耳障りな雄たけびをあげた。そして軽快な動きで体の向きを変え、カーテンの方へ突進してくる。
「下がれ下がれ!!
リーチの掛け声に全員が慌てながら後退する、その結果最後尾になったリーチがクリーチャーの頭部に向かってカーテン越しに撃つが、カーテンに幾つか風穴を開けただけで飛び出してきた怪物に押し倒されてしまった。更に運悪くリーチのすぐ後ろでイリーナの盾になる様に動いていたオリファも巻き込まれて一緒に倒れこむ。
「リーチ!!
「だっダメだ!
「先に少佐を下げろ!」
あまりに想定外だったのか慌ててリーチに駆け寄ろうとするイリーナを力づくで止めるビアンコ、リーチは押し倒されたまま首元に嚙みつかんとするクリーチャーの口内へ犬に長い棒を咥えさせる要領で左腕を横向きにつっかえさせてあえて噛みつかせつつもみ合いになっている。クリーチャーは雄たけびと共にリーチの前腕に噛みつきつつづけ、その無数の歯が戦闘服を切り裂き金属の腕を露わにして傷つけ続ける。
「くそ、くそ!」
リーチが右手でホルスターから拳銃を取り出しほほ零距離でクリーチャーのこめかみに向かって数発撃ち込む、だが先ほどと同じく金属音が響くだけで弾頭は貫通しなかった。弾かれた弾頭が跳弾となって風切り音を立てて室内を飛び交ったせいで、ビアンコとイリーナが思わず姿勢を低くする。その直後、別の銃声と共にクリーチャーの体が真横に吹き飛んだ。壁にたたきつけられたクリーチャーの胴体に更に弾が数発撃ち込まれる。すると弾が皮膚を貫通したのかクリーチャーが背後の壁に黄色い体液をぶちまけ力尽きたように動かなくなった。
リーチがクリーチャーが飛んで行った方向とは逆方向を見ると、仰向けの状態で少し上半身を起こし半自動散弾銃を構えるオリファの姿があった。その顔は非常に硬く、汗も浮かべている。その様子にビアンコとイリーナも声が出ず、現場が一瞬に包まれた。
「無事?」
「…ああ、どうにか」
硬い表情で姿勢を維持したままのオリファの問いかけに、間が抜けた声で答えるリーチ。ビアンコがクリーチャーの死体へ近づき、頭部を軽く蹴ったが反応はない。
「死んだみたいだな」
「ほら、起きろ」
死体を見つめるビアンコをしり目に、イリーナが差し出した右手を掴み立ち上がるリーチ。
「―もう大丈夫だ」
「…ふう」
イリーナの言葉にオリファが目をつぶって全身から力を抜いた、そして先ほどと同じくイリーナに差し出された右手を掴んで立ち上がる。
「礼を言うぞ、ありがとう」
「当然の事をしただけ、ひどくやられたね」
「機能に問題はない、洗浄は必要だが」
リーチの左腕に目をやるオリファ、リーチの戦闘服の前腕周りはズタズタに割かれた上に金属の腕もクリーチャーの唾液でべとべとになっている。そんな左腕を少し動かして見せるリーチ。
「この部屋の水を拝借しよう…、っとフランシスはどこ行った?」
「―こっちですね」
イリーナが提案すると共にいつの間にか姿が見えなくなったビアンコを探して辺りを見渡す。すかさずオリファがカーテンをかき分け研究室に入ると、死角になっている部分を見て声を上げる。見つけられたビアンコは黙って壁に埋め込まれた巨大な透明ケースの前に立っていた。高さこそ成人した人間が立って活動できる程だが、横幅と奥行きは狭くケースの内部には簡素なベットと洋式トイレ、一対の机と椅子が備え付けられているだけで床の大部分はほぼ埋まっていた。天井に当たる部分の四隅の照明が目が痛くなる程の光量で内部を照らしている。
「こんなものまで設置していたとはね」
ビアンコの横までやってきたオリファが感想を漏らす、その後ろではイリーナとリーチが二人の背中を眺めていた。
「さっきの怪物、ここから逃げ出したんだろうか…」
「違う。これ見ろよ」
オリファの言葉をぴしゃり否定するビアンコ、そして右手で透明ケースの脇にある収容者情報と書かれた欄を指さした。それを見たオリファが目を丸くする。
「これって…」
「ああ、ここに居たんだ。アイシャが」
収容者情報欄にはアイシャの名前と顔写真、恐らく収容された直後の身長や体重などが事細かに記載されていた。そしてその項目の一番下にはドクター・バタリングの文字がある。ビアンコが歯を食いしばって透明ケースを睨みつけ拳を強く握りしめていた。
「あの糞博士、こんなことしてやがったのか…」




