第四話 秘密と軋轢 2
2
どうにかビアンコとリーチが荷下ろし終えたのは、予定時間の少し後だった。慌ててビアンコが宿舎に飛び込むと、リビングやキッチンにオリファの姿がなかった。ただ昼食づくりをしたのは確実なようで、サンドイッチの具材の香りがまだ残っている。
「はぁ、あいつめ…。あれ?」
また小言一つ言ってやろうかと思っていて肩透かしを食らったビアンコが不満げな顔をしていると、イリーナの部屋のドアが少しだけ半開きになっていることに気づいた。隙間からデスクの椅子に座っているイリーナの姿が見え、彼女から向かって右側にある机の上の写真立てを右手で触れながら物悲しそうに見つめている。
また写真立ての反対側、左手が届く範囲に何本かエナジードリンクの空き缶や無線機が置いてあり、心なしか書類の束も以前より増えているように見えた。ビアンコがその様子を思わず注視してしまうも、すぐに好奇心を抑え込むようにドアをノックする。
「ちょ、ちょっと待て…。ああっ!?」
部屋の中からイリーナの小さな悲鳴と物を倒す音、そして金属が幾つか床に落ちる軽い音が響く。慌てて写真立てを伏せる際に空き缶を倒して床に落としてしまったようだ。
「…大丈夫ですか?」
「あっ…」
物音に釣られて部屋に入ったビアンコの目に飛び込んできたのは、デスクの真ん中に覆いかぶさるような形で反対側に落ちた空き缶を拾おうとしている体制で驚いた顔をしているのイリーナの姿だった。流石に恥ずかしいのか少し顔が赤い、余所行きの精悍な姿しか知らない人間からしたらあられもない姿に見えただろう。
「そ、それくらいなら拾いますよ」
「す、すまん」
ビアンコがすかさずドアを閉めてデスクまで歩み寄り、しゃがんで空き缶を拾い集める。その間にイリーナが姿勢を元に戻した。「ここでいいですね?」とビアンコがひとまずデスクの脇にあるごみ箱に空き缶を入れていく。二人の間に気まずい空気が流れているのは言うまでもない。
「…遅れてすいません。話ってなんです?」
改めて二人が正対すると、先に口を開いたのはビアンコだ。もう何を言われても驚かないといった顔をして、イリーナを見据えている。対するイリーナは顔に戸惑いを浮かべたまま少し間を開けて、口を開いた。
「実は、謝りたくてな。この前のホテルの言い過ぎた。すまなかった」
「え、えっと…。こちらこそすいませんでした。アイシャのことに口出したり、それこそホテルの時も勝手に…、その…」
懲罰の命令でも下されると思っていたビアンコは予想外の困惑と驚愕が混じったような顔になった。しどろもどろになりながら彼が今までの事を謝罪し始めると、イリーナがフフッと笑う。
「なんだ、急に来たと思ったら今度はあたふたして…」
「えっ、少佐が呼んだんじゃないんですか!?」
驚いて目を丸くしているビアンコに、「いや」と首をかしげるイリーナ。ここで始めて、ビアンコが自分が一杯食わされたことに気づく。
「リーチの奴…」
「ははーん、読めてきたぞ。一芝居打たれたな」
ビアンコが頭から湯気を出している。思い返してみれば、イリーナの部屋に行くように言ってきたのはリーチだけで、それも普段一日のスケジュールを確認する朝食時ではなく、荷物を受け取りに出発する直前だったのだ。一方、イリーナは謎が解けてしたり顔である。
「だからって騙すような真似しなくても…」
「そう怒るな、こうでもしないと私もお前もじっくり話をしないと思われたんだろう」
そういうイリーナも左右の眉毛の外側が下がり少し呆れた顔になった。
「…こっちは小言を言う相手がまた増えましたよ」
「お、ついに文句の一つでも言いたくなったか。いいんじゃないか? っと、そうだ。少し付き合え」
納得できない、という一点以外は読み取れない形容できない妙な表情を浮かべるビアンコ。対するイリーナは笑みを浮かべ、思い出したように椅子から立ちあがると部屋の棚に置いてあるコーヒーメーカの方へ向かい、カップを二つ取るとコーヒーを淹れ始めた。その様子にビアンコが目を丸くする。
「あの、今仕事中ですよね。堂々とサボりですか?」
「ああ、ここの責任者は私だ。それに、芝居を打った張本人は絶対帳尻合わせをしてくれるタイプだし、何とかしてるさ」
腹に力を入れ、あくまでも訝し気にしている雰囲気を出しているビアンコにやや強引な理論を展開するイリーナ。「ミルクは?」というイリーナの質問に「頂きます」とビアンコが答える。
「さ、座れ」
「…はい」
ビアンコが淹れたばかりのカフェオレが入ったカップを受け取り部屋の真ん中のソファに座ると、イリーナもカップを持って彼と正対するようにソファに座る。ここに来てビアンコは何を話していいのかわからなくなっていた。先ほどから悉く予想が外れている。謝罪だけして解放されるのかと思いきや話し込むような流れになってしまった。今すぐあの金属の大男を殴り飛ばしてやりたい気分になる。
「さて…、じゃここからはオフモードって事で。どこまで話したかしら?」
「っ、俺の小言の話ですよ…。っていうかなんですかそのじゃべり方」
イリーナがコーヒーを一口飲んだ後、声色が少し変わった。雰囲気もいつもの威厳や凛々しさがかなり和らぎ、年相応の女性らしい柔らかさが前面に出ている。ビアンコもイリーナと同じタイミングでカフェオレに口をつけていたが、あまりの変わりように吹き出しそうになった。何とか堪えて言葉を返すが、それがツッコミになってしまう。
「これが本来の私。普段は演技みたいなものよ、世間の求めるイメージを鑑みてたらああなっちゃって。もう慣れちゃったけど、最初は大変で…」
そう言ってイリーナが苦笑いした。
「だから今はすごく楽、リーチやイエニスはこうやって自然体でいても『スクープ』って騒いだりはしたりしないから」
「はは…、まぁ確かに」
脳裏に自らが胸倉を掴まれている映像を思い浮かべながら苦笑にも似た愛想笑いするビアンコをしり目に、イリーナが続ける。
「で、小言の話だけど。それだけあなたがあの二人に関心を払ってるってことだと思うのよ。相容れない面も少しは見えるようになった。最初のだんまりを決め込んでた時と比べれば、心を開いてるのかなって」
イリーナの言葉にビアンコは今度は顔を強張らせた。彼女のカミングアウトに続き、自身の言動の分析。特に後者はビアンコ自身は全く意識していなかった結果を告げられている。多忙で気づかなかったがビアンコ自らの内外ともに変化が多数あったことを突き付けられた気がしたからだ。
「そりゃ、まぁ…。お互い命を預ける立場ですし、否応なく仲間と向き合うことになるのは、当然かなって…」
ビアンコは自身の感情が良くわからないまま必死に言葉を捻りだしていたが、そこまで言って俯く。
「なるほどね、環境が変わったのもあるでしょうね。いいことなんじゃない? ピューソン基地で燻ってるよりはずっと」
そう言ってイリーナがコップに再び口をつける。一方のビアンコが相変わらず自身の感情が良くわからないまま少し沈黙した後、やっと次の言葉が脳裏に浮かんだ。
「…なんだか変な感じですよ。多分、喜ぶべきところなんでしょうけど、全然ピンと来ないっていうか…」
それが本心だった、本音に釣られてかビアンコが真顔に近く感情が消えたような顔をする。その顔をイリーナが笑みを浮かべて見つめた。
「そう、まぁちゃんと理解はできているなら大丈夫だと思うけど。無理はダメよ」
「はぁ…」
ビアンコが複雑な心境になりながら要領を得ない返事をしてみせる。予想外の展開はビアンコの思考を混乱させるのに十分で、言われたことを落とし込もうとすればするほどにそれが拍車がかかる。
「えっと…。そうだ、いつも冷静にいられるコツとかないですか?」
混乱が収まっていない頭で考えたビアンコがそう言った後、イリーナの表情は穏やかになっていたが、右手を顎に当てて少し考え込む。そして再びカップを両手に持ち、それに視線を落とす。
「私には昔、妹がいたの。エレーナ、当時まだ十二歳だった。明るくて、なんでもやりたがる。カラフルなミサンガをいつも右手に着けてた。ある日、学校のカリキュラムで社会科見学に行くことになっててね。当時のセントピューソンにあった父が勤めてる会社のオフィスを見に行けるって喜んでて…」
「それって、もしかして…」
静かに彼女の話を聞いていたビアンコがセントピューソンという言葉に気づき、心配そうな顔で恐る恐る尋ねた。イリーナの視線がビアンコを見据える。
「そうよ。丁度エレーナが父のオフィスを見学してる時間、惨劇が発生したの」
「じゃあ、妹さんは…」
目を丸くしているビアンコを前にイリーナは悲し気に笑顔を見せる。
「今も父ともども『行方不明』よ、多分もう…」
「知りませんでした、そんなことになってたなんて…」
「いいのよ」とイリーナが言ってみせると眉根を寄せて真剣な顔になる。
「それで私は誓ったの、一人でも私のような思いをしなくても済むように、一人でも減らせるように、って。で、私に何ができるのか考えて突き進んでいたらここにたどり着いたの」
ビアンコはイリーナの過去に驚いてばかりだった。だがすぐに一つの疑問が湧いてくる。
「でも、それが俺の質問と何の関係が…」
「目標、よ」
ビアンコの言葉にイリーナはぴしゃりと一言を投げかけた。
「悪いけど、今の私の見立てじゃあなたには目標がないように見えるわ。もちろん今まではそれどころじゃなかった事情があったのは分かる。でもゴールも分からないまま突っ走っても迷走して時間や労力を無駄にするだけ」
そう言ってイリーナが笑顔でウィンクしてみせる。
「時間がかかっても良いから、目標を見つけてみるのもいいかも」
「は、はい…」
ビアンコが力の入らない返事を返す。驚愕と困惑を行ったり来たりして、気疲れ感じが出てきてしまっていた。やはりお互いどこかギクシャクした空気が否めない。二人とも次に発する言葉を探し始めた時、窓の外から車が急ブレーキをかける音がした。
「なんだ?」
二人が窓の方へ首を伸ばす。一斉に車のドアが開く音は聞こえるが、窓の外には基地の建物しか見えなかった。するとイリーナのデスク上の無線機が鳴り、すぐにイリーナが立ち上がってそれを手に取る。当然顔つきはいつもの『シュリャホバヤ少佐』に戻っていた。ビアンコもイリーナの雰囲気の変化を察し、釣られるように立ち上がって目つきを鋭くさせ成り行きを見守る。
「シュリャホバヤだ、どうした?」
『少佐、問題発生です! 国立研究所の連中が押し入ってきました、本部の前で押し問答してます!!」
相手は警備隊の憲兵で、風雲急を告げるような声色だ。
「わかった、すぐ行く」
憲兵とは対照的にイリーナはいつもの冷静な口調で対応し、すっかり冷めたコーヒーを飲み干す。
「行くぞ、仕事だ」
「っと、了解です」
ビアンコもカフェオレを喉に流し込むと、イリーナの背中を追うように部屋を飛び出した。