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夏とハンカチ

作者: 海咲 有音

 

 身体中にまとわりついていた湿気が気がつけば、からっとした日差しの暑さに変わり、初夏を感じる朝。


 汗がじわっと皮膚の内側から浮きあがり額から首筋につたう。握りしめているハンカチで汗を拭うが、止まらない。早起きして作った顔を崩したくないので、止まれ、止まれと汗を押さえ込もうとするが、無駄なことだ。

 これからが夏本番だというのに、この暑さなのかと少し絶望的な気持ちになりつつ、冷房の効いた電車の中に乗り込む。爽やかな風が頭に降り注ぐ場所を確保したら、そのまま目的地まで運んでもらう。


 今日も文明の進化に感謝。心の中で合掌。


 少し涼んで一息ついたら、ぱらり、と読みかけていた小説の1ページを開いて、どっぷりと物語の世界観に入り込む。この瞬間がたまらなく心地いい。


 ガタンゴトン、とローカル電車ならではの荒い揺れに思わず気を取られそうになるが、物語の中で時を過ごす。もはやその揺れさえも物語の世界の一部のように。


 本日の小説は、学校を舞台にした夏の恋愛物語。ポニーテールのあの子は想い人が落としたハンカチを拾ってどう距離を近づけようか、悩みに悩んでるみたい。学生独特の青さについつい焦がれてしまう。


 

 物語の青春とはうってかわって、1か月ほど前まではもうアラサーなのだからと、人生何とかしないといけないと躍起になっていた。世界を少し変えるべく、世間一般的に意識が高いと言われるようなビジネス書に手を出していた。こういう見方や捉え方、進み方があるのか、と勉強にはなるが、浅い知識ばかりが積もる。悪いことではないが、なんだかビジネス書に手を出せば出すほど、上部だけで生きているように感じてしまって、もともと好きだった小説に戻ってきた。


 まあ、行動しなかったが1番の原因でしょうが。


 行動しないのであれば、潔く好きなものに触れ続けてしまおう、と方向転換した。


 それからは、仕事に行くまでの、家に帰るまでの、数十分が楽しみで、毎週本屋や図書館に行くことが楽しみで。楽しいと思えることが増えた。


 仕事まで憂鬱になる気持ちを一時的にも手放し、心を満たせる。

 言い方がまるで危ない薬を服用しているようだが、ある意味、自分にとってはそうなのかもしれない。


 ハンカチで押さえていた汗が全ておさまったのに、もう会社の最寄り駅に着いた。

 パタリ、と本を閉じて一歩外に出ると、今までどこかに隠れていたのか吹き出す汗、汗、汗。


 またハンカチで汗を拭う。

 日差しも強いので日傘を刺しながら歩いて、歩道橋の階段を一段一段踏み込んで上へと身体を持っていく。

 と、そのとき、すみません!と弾けるようなハリのある声が後方から。

 振り返ってみると、階段をかけ上がり、暑さのせいか顔が火照り、緊張した表情の女学生がいた。ハンカチ落としました!とずいっと私の目の前に持ってきて受け取った瞬間、階段をかけ降りる。

 ありがとうございます、の感謝の言葉がその子の元に追いついたかは定かではないが、本当にありがたかった。落としたままだと私の顔面は職場に着く前に終わっていた。


 あまりにも一瞬の出来事だったが、なんだか先程の小説とリンクしていて思わず、笑みが溢れて。

 足取り軽く、階段を一段一段踏み抜いていく。


 物語のあの子がどう渡したのか、そのページはまだ開けていないけれど、

 あんな表情でハンカチを返したりするのかな、と思うと

 私の日常がまた小説を愛でるように、物語の一部のように愛しく感じるものだ。



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