9話
コリン視点のため、サミュエル→ニコラス、エミリア→エミリオとなっています。
【登場人物まとめ】
コリン
孤児院の子供。サミュエルの弟子。最近めきめき成長してきた。
「エミリオ様とニコ、どこにいるんだろう」
夏の強い日差しに目を細めながら、コリンは市内をぶらぶらと歩いていた。
今日は七月の最終日。待ちに待った夏祭りの日だ。快晴ということもあって、あたりはすっかり盛り上がっている。手に柄杓やバケツを持ち、頭からずぶ濡れになった大人や子供たちが、市内のいたるところでキャアキャアと騒いでいた。
――ああいうの、きょうらんって言うんだよな。
聞きかじった言葉を心の中で呟きながら、コリンは両手に持った柄杓を軽く振った。
王国内に祭りはたくさんあるけれど、フランチェスカの夏祭りはちょっと変わっている。川の恵みを得られますようにとの祈りを込めて、双子川から汲み上げた水をお互いにかけ合うのだ。
この日は貴族だろうと、平民だろうと、もちろん孤児院育ちだろうと関係ない。顔を見合わせたら挨拶代わりに水をかけるのがマナーだ。
地震のせいで見送られそうになったけど、あまり大きな被害がなかったこと、王都の混乱も少しずつ落ち着いてきたこと、そして何よりみんなの強い希望もあって、無事開催されることになった。
――きっとまた、エミリオ様が寝ないで頑張ったんだろうな。
青白い顔をしたエミリオの姿を思い浮かべ、コリンはため息をついた。
エミリオはエンリコの後を引き継いでから、ずっと無理をしているような気がする。事情が事情だから仕方がないのかもしれないけれど、もっと自分の体を大事にして欲しい。できれば、従者であるニコラスがもっと気遣ってくれればいいんだけど。
――最近、なんかギクシャクしてるんだよなぁ。
地震の前までは仲が良さそうに見えたのに、人が流れ出してきたあたりから、二人は目を合わせなくなったし、一緒にいても気まずそうにするようになった。
――喧嘩でもしたのかな。
そばにいればいるほど、お互いの気持ちがぶつかることもある。コリンにも覚えがある。ついうっかり、言い過ぎてしまったことも一度や二度じゃない。
謝りたくても謝れない。エミリオからはそんな気配を感じたし、ニコラスはニコラスで、剣を教えてくれている間もどこか上の空だ。
――ニコも子供っぽいところがあるからなぁ。
頑なに先生と呼ばないコリンに膨れっ面を浮かべる姿を思い出して、くすりと笑みをこぼす。
院長のエルマから、ニコラスはサリカ人なのだと聞いた。十年前に起きた悲しい出来事は知っている。そのせいでフランチェスカが悪者になっていることも。でも、そもそもミケーレから追い出された身のコリンには、だからなんなんだろうという感想しかない。
フランチェスカにきた以上、ニコラスは大事な仲間だ。
ときどき、怖い目で何かを考え込んでいることもあるけれど、コリンたちがそばに行くといつも笑ってくれる。そして何より、優しい手で頭を撫でてくれる。恥ずかしいから絶対に言わないけれど、コリンはニコラスを兄のような存在だと思っていた。
――なかなかいいやつだしさ。
「あ、いたいた」
大通りを抜けて中央広場に出たとき、噴水の前で並んで立つエミリオとニコラスの姿が見えた。二人とも目を丸くして、周りの大人たちのはしゃぎっぷりに呆然としている。
中央広場の噴水は川の水を引き込んだものなので、自然と人も集まってくる。そのおかげで近くの建物や石畳は、まるで大雨に降られたようにびしょびしょになっていた。
周りで騒ぐ大人たちに見つからないよう、そっと建物の影から二人の様子を観察する。
ニコラスはいつもの服を着ていたけれど、エミリオはいつもより分厚くて頑丈そうな服を着ていた。紫色の布地に、黒の糸で細かく刺繍されているシャツだ。
シンプルだけどすごく綺麗で、見るだけでとんでもない手間がかかっているのがわかる。きっと、水をかけられても大丈夫なように、女中頭のマリアンナが頑張って作ったんだろう。たまに城下に来るマリアンナの指には、いつも小さな傷があったから。
――でも、まだ二人とも水をかけ合ってないんだ。
並んで立っているといっても、相変わらず二人の間には微妙な距離がある。せっかくの祭りなんだから楽しまないと損なのに。
――俺がひと肌脱いでやらなきゃ。
近くに置いてあったバケツの中に柄杓を突っ込み、川の水を調達した後、そろそろとニコラスたちの背後にまわる。気配の消し方はニコラス自身に教わった。至近距離まで近づいても、二人はこちらに気づく様子はない。
――まずはニコからだ。
渾身の力を込めて、ニコラスに向かって右手の柄杓を振るう。迷いなく放たれた水は、一直線にニコラスに襲いかかった。
ばしゃ、と音がしたと同時に、ニコラスの黒髪がボリュームを失い、その毛先から水が滴り落ちていく。服もぐっしょりと濡れ、その下から少し筋肉質な体が浮かび上がった。
隣のエミリオは濡れていない。ニコラスの体が壁になって、エミリオは多少のしぶきを浴びたぐらいで済んだようだ。
「ははっ! 隙あり! 双子川のお恵みを!」
笑い声を上げると、まるで獰猛な獣の目をしたニコラスがこちらを振り返った。
「コリン! せめて一声かけろよ!」
「なんだよ、ぼうっと突っ立ってるのが悪いんだろ」
にやりと笑いながら二人ににじり寄っていく。左手にはもう一つ水で満たされた柄杓がある。次はエミリオを狙うつもりだった。
「エミリオ様も! 双子川のお恵みを!」
「させるか!」
喧嘩をしていても従者の仕事は果たすらしい。両手を広げたニコラスがエミリオの前に立ちはだかり、コリンが放った水を頭から浴びた。
鼻に入ったのか痛そうに顔をしかめたが、怯む様子は全くない。それどころか余計に怒りを煽ったようで、細くなった紫の瞳がギラリと光った。
――怖っ!
コリンが引いた隙に、ニコラスは頭を振って髪からしたたる雫を弾き飛ばすと、噴水の脇に置かれていた柄杓に手を伸ばした。
――あ、やば。
ニコラスが水を満たした柄杓を振り下ろす。でも、こちらとて伊達に鍛えられていない。すんでのところで襲いくる水を避けたコリンに、ニコラスは不機嫌そうに鼻を鳴らした。生意気な子供だなと目が言っている。
「何すんだよ、ニコ!」
「これが祭りのマナーなんだろ? 双子川のお恵みを!」
「ちょ、ちょっと待てって! うわっ」
顔面から水を浴びたコリンは、まるで川に落ちた猫のような姿になってしまった。灰色の髪がぺったりと額に張り付き、淡い水色だった服は水を含んで濃い青色に変わっている。
「ははっ、水も滴るいい男になったじゃないか」
「頭きた! 仕返ししてやるっ!」
「望むところだ。かかってこいよ」
煽るように柄杓を振られ、顔が赤くなるのがわかった。噴水に駆け寄り、両手の柄杓に水を汲む。その目にエミリオの姿はもう映っていない。同じくニコラスも柄杓に水を補充して、師匠と弟子の仁義なき攻防が始まった。
それからどれくらい水をかけ合っていただろうか。二撃目以降さほど濡れなかったニコラスに対して、コリンはもう靴の中までびしょびしょだ。
「コリンー! ここにいたの? 一緒にお祭りまわろうよ」
孤児院の仲間たちが迎えに来たのをきっかけに、「覚えてろよ!」と悪役みたいな捨てゼリフを吐いて、その場を離れる。しかし、コリンは仲間たちにハンドサインで指示を出すと、裏路地を利用してニコラスたちの近くに舞い戻った。
「コリン、行かないの?」
「しっ!」
建物の影に身を潜め、様子を伺う。ここならさっきよりも距離が近いので声も聞こえる。
濡れた服を絞るニコラスの隣で、エミリオは噴水の淵に座り、両肘を膝に乗せて頬杖をついていた。放置されていた割に、エミリオは濡れていない。
周りの大人たちにも一欠片の理性は残っていたらしい。いくら祭りでも、体の弱いエミリオに水をかけるのは怖かったんだろう。頑丈そうなエンリコはいつもびしょびしょになっていたけど。
「私を放ったらかしにして自分だけ楽しむなんて、とんだ従者だな」
「申し訳ありません……」
ジト目で睨むエミリオに、ニコラスがぺこぺこと頭を下げている。微かだけど、二人の雰囲気はさっきよりも柔らかくなっていた。
「今からでもまわりましょうか。夜まで祭りは続くんですよね?」
取り繕うように、ニコラスが言う。夏は日が長い。刺すような日差しは和らぎ、徐々に日は傾き出してはいるけれど、夜になるまでにはまだ時間はありそうだった。
「やめておこう。日が暮れると気温が下がる。いくら夏だとはいえ、そのままでは風邪をひいてしまうぞ」
「平気ですよ。こう見えても鍛えてますから」
そう言った端からニコラスがくしゃみをした。恥ずかしそうにニコラスが目を逸らすと、エミリオはズボンのポケットから取り出したハンカチでニコラスの顔を優しく拭った。
「ほら、体も冷えているじゃないか。もう帰ろう」
「でも……」
「そう言うなら、ニコがかけてくれよ」
「えっ? で、できません」
柄杓を差し出されたニコラスが首を横に振る。そのヘタレっぷりに思わずイラッとする。
――何やってんだよ、そこでかけないとダメだろ。
「私だって一度ぐらいは水を浴びたい。なあ、頼むよ。風邪をひいても恨みはしないから」
そうだそうだ。それでこそフランチェスカっ子だ、と周りの仲間たちと共に頷く。
――頑張れ、ニコ。主人の願いを叶えるのも従者の役目だろ。
コリンの応援が届いたのか、ニコラスはため息をつくと、渋々受け取った柄杓に水を汲み、期待に目を輝かせるエミリオに向き合った。
「一度だけですよ」
「うん。思いっきりやってくれ」
「では、いきます。双子川のお恵みがありますように!」
ニコラスから放たれた水が、一直線にエミリオに降り掛かる。女みたいな悲鳴が上がったと同時に、見事な癖っ毛がぺしゃんこになり、白くて広い額に張り付いた。結構な量の水を浴びたにもかかわらず、体は透けていない。マリアンナの服は立派に役目を果たしたようだ。
「エミリオ様、きゃあ、って言ったね」
「なんだか女の人みたいだったね」
「そんなわけないだろ。女の人は後を継げないんだから」
そっか、と納得する仲間たちを尻目に、コリンは食い入るように二人の姿を見つめた。
「気持ちいいな、これ。もっとかけてくれよ」
「駄目です。一度だけって言ったじゃないですか」
「なんだよ、ニコのケチ!」
子供みたいなことを言って、エミリオが舌を出した。その表情は、どこまでも明るくて楽しそうだ。
――こんな顔もするんだ。
孤児院では見せない姿に、コリンの胸がツキンと痛む。もっと強くなったら、自分たちにも見せてくれるんだろうか。
切なさを噛み締めるコリンの視界の先で、エミリオの笑顔を見たニコラスの表情がふっと緩んだ。いつまでも意地を張っているのが馬鹿らしくなったのかもしれない。
それに勇気づけられたのか、エミリオは両手をもじもじと後ろで組むと、伺うようにニコラスを見た。
「あの、この前はすまなかった。ニコのこと、よそものだと思っているわけじゃなくて……」
「わかっています。こちらこそ申し訳ありませんでした」
ニコラスが頭を下げると、エミリオは戸惑ったように息を飲んだ。
「顔を上げてくれ。謝って欲しいわけじゃないんだ」
その言葉に従ったニコラスが顔を上げる。でも、その視界の先に水で満たされた柄杓があることに気づき、大きく目を見開いた。
「隙あり!」
「何するんですか!」
エミリオに浴びせかけられた水を、ニコラスが咄嗟に避ける。一度だけと言ったことも綺麗に忘れ、お返しに水をかけると、エミリオは楽しそうに声を上げて笑った。つられてコリンたちにも笑いが込み上げてくる。
「仲直りしたみたいだね」
「うん、よかった」
水をかけ合って満足したんだろう。びしょびしょになった二人が、噴水の脇に柄杓を戻し、こちらに向かって歩き出す。
息を殺すコリンたちのそばを通り過ぎたとき、先を歩くエミリオを見つめていたニコラスの呟きが耳に入った。
「……もう少しそばにいて、見定めてみるか」
――見定めるって、何をだろう?
コリンにはニコラスの事情はよくわからない。でも、城に戻っていく二人の顔はとても晴れやかだ。
今はそれだけで、コリンは満足だった。
コリンや孤児院の子供たちにとって、サミュエルは兄貴分、エミリアは崇拝対象です。
今だと推しって言うんですかね。
なので実際のところ、気安く接しているのはサミュエルの方です。