7話
後半に地震の描写があります。
苦手な方はご注意ください。
西側から南にかけての城壁外に、野良着を着込んで鎌を手にした領民たちが蟻のようにひしめき合っていた。夏の強い日差しから身を守るため、頭にはみんなスカーフを巻いている。
いよいよ小麦の収穫が始まるのだ。今日ばかりは農民も商人も職人たちも総出で駆り出され、日暮れまでに全ての刈り取りを終える責務を負っていた。
もちろん城の人間たちも例外ではない。使用人たちはミゲルを、騎士たちはロレンツォを筆頭に、みんな領民たちと同じ服装をして意気揚々と気炎をあげていた。
「すごいですね、この人だかり。まるでお祭りみたいです」
「お祭りなんだろ。夜には中央広場で宴会やるっていうし。フランチェスカの一大イベントらしいぞ」
テオもサミュエルも揃って青いスカーフと黄色の野良着を身につけていた。ご丁寧に隅にはフランチェスカの紋章が刺繍してある。マリアンナのご謹製だ。
「ニコ!」
背後からサミュエルを呼ぶ声がする。振り返ると、同じく青いスカーフを巻いたコリンが走り寄ってきた。手には小さな鎌を持っている。
初めて孤児院に行った日から、サミュエルは暇を見つけては子供たちに剣を教えに行っていた。そのせいか、最初は生意気だったコリンも、少しは懐く様子を見せるようになっていた。
「ニコ先生だろ。いい加減、師匠として敬えよ」
「ニコはニコだろ。それより、エミリオ様見なかった?」
「エミリオ様なら……」
言いかけたところで、前方の人だかりから歓声が上がった。首を伸ばして様子を伺うと、会話に上っていたエミリアその人が、畑の前に設置された壇上に姿を現したところだった。
青いスカーフの下から赤毛がはみ出している。なんとか押し込もうとしたのだが収まりきらなかったのだ。
領主の登場に、ざわざわしていた声が少しずつ落ち着き、あたりに静寂が広がっていく。
エミリアはこほんと一つ咳払いすると、右手に持った鎌を振り上げ、「フランチェスカの民よ!」と声を張り上げた。
「今日は一年のうちで最も最良の日だ。厳しい冬を越え、春を楽しみ、無事に収穫の日を迎えられたことを嬉しく思う。双子川の恵みに感謝を! そして来年も黄金の麦穂が実るよう、心からの祈りを! さあ、刈り入れの始まりだ!」
それを合図に、エミリアと同じく鎌を振り上げた領民たちから気合の入った雄叫びが上がった。特にロレンツォは獣のように空に向かって吠えている。
エミリアの隣に控えていた市長から「では、皆さん始めてください」という冷静な声が飛び、領民たちは事前の打ち合わせ通り、めいめい畑に散らばっていった。
「よし、俺たちも行くぞ。ついてこい、コリン」
「うん!」
「はぁ……見てるだけで疲れそう……」
肩を落とすテオを引きずり、サミュエルたちも畑に向かっていく。地面から眺める黄金色の絨毯は、どこまでも続いているように見えた。
「ニコ、テオ。ここにいたのか。調子はどうだ?」
黙々と小麦を刈っていると、額に汗したエミリアが近寄ってきた。この日においては領主すらも自ら鎌を振るう。捲り上げた袖からのぞく白い腕が、やけになまめかしく見えた。
「今のところ、特に問題ないです。慣れてますし」
「ニコは元々農民だったな。故郷でも小麦を作ってたのか?」
「いえ、豆です。でも、収穫の大変さは似たようなものでしたよ。村人総出で畑に出ましたし」
豪農ではないが、農民だったのは嘘ではない。畑仕事はむしろ懐かしかった。体力にもまだまだ余力はある。対して北部出身のテオは南部の夏の暑さに参っているようだった。スカーフを顔に被せ、木陰で大の字に伸びている。
「テオは大丈夫か? 屋内で休ませた方がいいんじゃないか?」
「大丈夫です。後で水を引っかけますから。それより、エミリオ様はいかがですか? 準備であまり寝ていないでしょう」
エミリアは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。今まで大して優しい言葉をかけてこなかったから、戸惑っているのだろう。
――仇の娘を気遣うなんて。
自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。内心舌打ちしたが、口にしてしまったものは仕方がない。これも従者の務めだと思い直して、それらしく振る舞うことにした。
「少し休憩した方がいいんじゃないですか?」
「私は大丈夫だよ。生粋のフランチェスカっ子だぞ。これぐらい問題ない」
そうは言うが、少し顔色が悪い。屋内に連れて行こうかと思ったとき、少し離れたところで鎌を振るっていたコリンが「エミリオ様!」と駆け寄ってきた。
「コリンもいたのか。どうだ? たくさん刈れたか?」
「たくさん刈れたし、もっと刈るよ! 任せて!」
「頼もしいな。期待してるぞ」
スカーフを崩さないよう、真っ赤になった頬を両手で包んで撫でる。その優しい手つきに、コリンは気持ち良さそうに目を細めた。
「向こうのほうも行ってくる!」
褒められて更にやる気が沸いたらしく、コリンが元気いっぱいに駆けていく。その背中をじっと見送っていたエミリアが、「子供は元気でいいな」と感心した様に呟いた。
「あいつは元気すぎるんですよ」
ぼやくと、エミリアは声を上げて笑った。
「私も他を見てくるよ。邪魔して悪かったな」
踵を返そうとしたエミリアの体が、ふらりとよろけた。咄嗟に体を支えると、明らかに太陽の強さに当てられたと思わしき温もりが腕に伝わってきた。
「どこが大丈夫なんですか。フランチェスカっ子が聞いて呆れますね」
「うるさいな……。ちょっとよろけただけだ。もう離してくれ。一人で立てる」
「駄目です。少し休みましょう。あなたが倒れたら誰がこの場を締めるんです?」
痛いところをついたらしく、エミリアの喉がグッと鳴った。しかし、顔は納得していない。どうやってこの場を脱しようかと考えているようだった。
「逃げようったって無駄ですよ。引きずってでも連れて行きますからね」
「ま、待ってくれ」
有無を言わさず二の腕を掴むと、エミリアは悲鳴のような声を上げ、懇願するように言った。
「みんなに気づかれたくない。お願いだ。心配させたくないんだ」
「……じゃあ、刈った小麦を運んで行きましょう。集積場は水車の近くにありますから、みんなの目も誤魔化せます。小屋の中なら涼しいはずです。それまで頑張れますか?」
エミリアは黙って頷いた。木の下に転がっていたテオを叩き起こし、小麦を運んでくると伝え、エミリアを連れて水車小屋に向かう。もちろん、手には刈ったばかりの小麦を抱えている。
幸い、誰にも気づかれずに辿り着くことができた。みんな畑しか見ていないのだろう。日暮れまでに刈り取らないといけないので、周囲に注意を払っている余裕はないのだ。
エミリアはここまで気丈についてきたが、小麦を置いて小屋に入った途端に、くずおれるように床に座り込んだ。
「よく頑張りましたね。しばらく、ここで休んでいきましょう」
「すまん、無理はするもんじゃないな」
「当たり前です。ほら、横になって。少しは楽になるはずです」
といっても、女を薄汚れた床の上に直接寝かせるのは気が引けた。仕方ないので床に膝をつき、その上にエミリアの頭を乗せる。いわゆる膝枕だ。
「ニ、ニコ?」
「いいから。固くて寝心地悪いかもしれませんが、ないよりはマシでしょう」
スカーフを取って顔にかかった髪の毛を払うと、エミリアは大人しく体を預けてきた。夏の日差しに当てられたせいだろうか。全身が赤く染まっている。
「あなたは本当に無茶をしますね。せめて睡眠はちゃんと取ってくださいって、ミゲルさんもあれほど言ってるでしょうに」
「私にできることはそれしかないから……」
消え入りそうな声が返ってきた。少しキツく言いすぎただろうか。顔をのぞき込むと、エミリアは細い両腕を交差させ、サミュエルから隠すように瞼の上にのせた。
「エミリオ様? 本当に大丈夫ですか? マッテオさんを呼んできましょうか?」
「ううん、大丈夫……。もうちょっとこのままでいさせてくれ」
「少し眠ってはいかがですか。起こして差し上げますから」
エミリアはしばらくぐずるような声を漏らしてたが、そのうち安らかな寝息を立て始めた。顔の上からそっと腕を外す。いくら大人びた振る舞いをしていても、まだ十八の少女だ。相変わらず寝顔はあどけなかった。
「あーあ、髪がくしゃくしゃじゃないか……」
手櫛で髪をとこうとして、ふっと我に返った。
――俺は今、何をしようとしていた?
どうも孤児院に行ってから調子が出ない。コリンたちとの出会いは、水面に小石を投げ入れたように、サミュエルに心の揺らぎをもたらしていた。
エンリコが憎い。戦争の芽を摘み、家族の仇を取る。その気持ちに変わりはない。
――でも、この人を殺したら、あの子たちはどうなるんだ?
エミリアがいなくなれば、フランチェスカは王領になるだろう。だが、南部を荒らした以上、お咎めなしで済むとは思えない。
次の領主によっては、金のかかる孤児院を切り捨てる可能性もある。
――そんなことになったら。
物言わぬ屍と化した弟とコリンたちの姿が重なり、グッと唇を噛みしめた。
――駄目だ。これ以上考えるな。
そうじゃないと動けなくなる。エミリアの体温を膝に感じながら、サミュエルは現実から逃れるように、ぎゅっと目を閉じた。
夜になり、収穫を無事に終えた領民たちは、浮かれた様子で中央広場に集まっていた。周りにはマリアンナや市で飲食店を営む店主たちの料理が乗ったテーブルが立ち並び、かぐわしい匂いを発している。そして噴水前のテントには、一抱え以上もあるカカシが厳かに飾られていた。
カカシはフランチェスカの畑の守り神だ。毎年収穫の日が近づくと新しく作り直され、種蒔きが終わるまで水車小屋に安置されるのだという。今年は孤児院の子供たちの力作らしい。どうりで右手に鎌でも小麦でもなく剣を持っているわけだ。
今日ばかりは仕事も一日休みのため、城の面々の顔もところどころに見える。なんせフランチェスカの一大イベントだ。全力で楽しもうとしているのだろう。
サミュエルとテオは広場の隅で開会式の始まりを待っていた。一日中体を動かしたせいで、腹はもう背中にくっつきそうになっている。コリンは昼間の頑張りが祟り、収穫が終わったと同時に眠ってしまったので、今は孤児院に戻っている。
「お腹空きましたねぇ。早く食べたいな……」
腹を抱えたテオがぼやいたと同時にエミリアが現れた。ぐっすりと眠ったおかげで、だいぶ顔色はよくなっている。あれから着替えたらしく、薄汚れた野良着ではなく、いつもの服を着ていた。鎌を持っていた手にはカップが握られている。
「フランチェスカの民よ!」
収穫を始めたときと同じように、壇上に登ったエミリアが叫んだ。
「無事に収穫が済んだ礼を言おうかと思ったが、一刻も早く食べて飲みたいだろう。私の挨拶はここまでだ。目一杯楽しんでくれ! 乾杯!」
乾杯、とあちこちで声が上がり、カップをぶつけ合う音が聞こえてきた。サミュエルとテオもそれに続き、カップを煽ると料理目がけて走っていく。
テーブルに乗った料理はどれも美味しそうだった。テオと別れてどれから食べようかと物色していると、肩をぽんぽんと叩かれた。振り返った先にいたのは、満面の笑みを浮かべたエミリアだった。
「食べてるか?」
「これからです。エミリオ様は?」
「私もこれからだ。大皿に盛って、向こうで一緒に食べよう」
指さす先には木箱で作られた簡易的なテーブルと椅子があった。広場から少し離れているが、その分静かで落ち着きそうだ。
二人きりで食事をすることに一瞬躊躇したが、ここで断るのも不自然だろう。エミリアの勧めに従って料理を盛れるだけ盛り、足早にテーブルに向かう。
「酒も持ってきた。今日は無礼講だ」
いつの間に調達したのか、エミリアの両手には林檎酒の瓶が握られていた。
――昼間倒れそうになったのに、酒なんて飲んで大丈夫なのか?
伺うように見ると、エミリアは「もう大丈夫だよ」と苦笑して、右手の瓶をサミュエルに差し出した。
「乾杯しよう。今日の善き日に」
「今日の善き日に」
カチンと瓶を鳴らし、酒を煽る。喉を通る酒は思った以上に冷たくて美味しかった。
「川の水で冷やしたんですか? キンキンですね」
「いや、ちょっとこれでな」
そう言ってエミリアは手のひらをサミュエルに向けた。ひんやりとした風が頬に当たる。
――酒を冷やすためだけに魔法を使ったのか?
じろりと睨むと、エミリアは悪戯を咎められた子供のように唇を尖らせた。
「なんだよ。美味しかっただろ?」
「そうですけどね……」
普段使おうとしないから程度の程はわからないが、王国にとって脅威な力で美味しく酒を飲むというのも複雑な気分だった。
「まあ、いいじゃないか。こういうときぐらい、精霊様の力を借りたって」
月明かりに照らされて微笑むエミリアは、いつもよりも女らしく見えた。ほろ酔い状態なのか、目の端が赤くなっている。それが無性に色っぽくて、思わずどきりとしてしまった。
――馬鹿か俺は。
心の中で自分の頬を張り飛ばす。男のサガがこの上なく憎らしい。
「みんな楽しそうですね」
目を逸らして、誤魔化すように料理を口に運ぶ。もう酒は飲まなかった。これ以上飲むとまずい気がしたからだ。
「まだまだこれからだぞ」
エミリアはそんなサミュエルの様子にも気づかず、無邪気に笑った。
「来月には夏祭り、十月には秋祭りがある。今日の収穫祭ほどじゃないけど、どっちもフランチェスカにとっては大きな祭りだ。お前もきっと楽しめるぞ」
――それまで自分はここにいるのか?
料理をつつく手を止める。エミリアには今のところ、戦争を起こすような気配はない。むしろ領民たちのために、必死に働いているように見える。
もちろん、本性を上手く隠しているという可能性はある。善良そうに見える人間が、実は一番ヤバいやつだったというのはよくある話だ。
――でも、もし本当に悪人じゃなかったら?
「どうした? ひょっとして祭りは苦手か?」
不安げに問うエミリアに首を横に振る。一瞬でも、共に祭りを見たいと思ってしまった。そんな自分が許せなかった。
「俺は……」
その瞬間、地響きが轟いた。机の上の酒瓶が倒れ、料理を盛った皿が跳ねる。周りを見ると、広場全体が揺れているように見えた。地震だ。それも大きい。
咄嗟にエミリアの腕を引き、体の下に抱き込むようにして地面に伏せた。とても立っていられない。顔のそばで、机から落ちた皿が割れた。周囲から領民たちの悲鳴が上がる。
体を揺さぶるような揺れがしばらく続き、そして止まった。
「被害は!?」
サミュエルの体の下から抜け出したエミリアが周囲を見渡した。あたりには料理や割れた酒瓶が散乱している。噴水の近くで、テオがマリアンナをかばっていた。
強い揺れで転倒したのか、それとも落ちてきたものでぶつけたのか、頭から血を流している領民もいた。しかし、頑丈な石造りの街並みのおかげで、建物に大きな被害はないようだった。
「エミリオ様!」
エミリアの姿を見つけたミゲルが飛ぶようにやってきた。さすがの彼も青ざめている。エミリアは夜が明けたら領内の被害状況を確認するように指示を出し、広場にいた騎士たちに負傷した領民たちの手当てと介抱を命じた。
冷静に振る舞うエミリアの姿を見て、領民たちも徐々に落ち着きを取り戻した。動けるものから順番に、自分たちの家に戻り始める。
「この分だと、震源地は王都の方だな……」
人気が少なくなった広場の中で、エミリアは空を睨んでいた。その呟きを聞いたサミュエルの胸に言いようもない不安が広がっていく。
視界の端に、地震の揺れにも負けずに立っているカカシが見えた。王都にはロドリゴたちがいる。どうか無事でいてくれと、普段は祈らない神に祈った。
悩めるサミュエルの回でした。
少しずつ距離は近づいているものの、まだまだな二人です。