マリアンナとテオ
この子から目を離しちゃいけない。
直感でそう思った。
ニコラスと偽名を名乗ったロドリゴ卿のご子息は、カルロからの刺客ということを差し引けばまだまともそうだったけど、その隣に立つテオの目には形容し難い危うい気配があった。
なんていうのかしら。
まるで透明なガラス箱に入れられて観察されているような、そんな気持ちにさせる目だった。
そう思ったのは、私が女で、同じ年頃の息子を持つ母親だったからなのかもしれない。
とにかくそばにいなきゃ、という使命感に駆られた私は、はたから見ればお節介に見えるほど、テオに構うようにした。
それが功を奏したのかはわからないけど、テオはフランチェスカに早々と馴染み、エミリア様が女だとバレたのをきっかけに、私の手伝いもよくしてくれるようになった。
いつもニコニコと愛想のいい笑みを浮かべて、人当たりもとてもいい。仕事を頼めば、嫌な顔一つせず引き受けてくれる。
弓兵隊の子たちや、城の子たちからも好かれているし、テオ自身も、フランチェスカでの暮らしを楽しんでいるように見える。
でも、それは全て演技なんじゃないかって疑念はどうしても消えなかった。
それが決定的になったのは、食料の買い出しのために城下に下りた時だった。大量の戦利品を馬車に積む手伝いをしてくれたサミュエルが、近くを歩く流民にぶつかってしまったのだ。
きっとお酒を飲んでいたんでしょう。顔を真っ赤にしたその流民は、サミュエルに向かって酷い言葉を吐き捨てた。
「死に損ないのサリカ人が!」
隣にいたエミリア様の顔が凍りつき、そして同時に、テオの目の色がさっと変わった。
口元は笑っているのに、まるで、光が差さない穴の底を見ているようだった。
不穏な空気を察知したサミュエルとエミリア様がなんとかその場を納めてくれたけど、生きた心地しなかったわ。
押し込まれた帰りの馬車の中で、一言も話さなかったし。
サミュエルのことだけは本当に大事に思ってるってことは伝わってきたけど、私たち、いつかこの子に殺されるんじゃないかって、本気で思った。
「ごめんな、マリアンナ。今日、びっくりしただろ。きっと、テオはアヴァンティーノの人間なんだよ。サミュエルの従者なのか、護衛なのか、それはまだわからないけど」
その日の晩、浴槽に浸かったエミリア様が、眉をハの字にして謝った。
私に謝る必要なんてないのに、本当にいい子。お湯からのぞく華奢な肩を見ると、胸が苦しくなる。こんなに小さくて、可愛い女の子なのに、途方もない重圧を背負ってる。
そして、とても辛い恋をしている。
「それに、その……」
エミリア様が言い淀む。この子が言いたいことはわかっている。
「確かに、テオは似てるわね。歳の頃も一緒だし。何より髪と瞳の色がね」
できるだけ何でもないように言ったつもりだけど、エミリア様は悲しそうに俯いてしまった。慰めるように頭を撫で、ゆっくりとお湯を肩にかける。
私には一人息子がいた。
レオという名前で、私と同じ栗毛と煉瓦色の瞳を持つ、優しい子だった。幸いにも怪我一つせずスクスクと育ってくれて、騎士団長だった夫と三人で、ずっと穏やかに過ごすと思っていた。
でもそれは、ただの夢と消えた。
ロレンツォやルキウスたちが、命懸けでヨシュナンから連れ帰ってくれた二人は、物言わぬ冷たい骸になっていた。
あの日は、とても寒い日だったわね。
呆然と遺体を見下ろすみんなに降り積もる雪の白さを、まだ覚えてる。
当然、そのまま抱き締めて泣いている暇なんてなくて、大急ぎで普段は倉庫と化していた広間を片付け、エンリコ様をはじめとした犠牲者たちの棺を安置することになった。
一切の表情が消え失せたミゲルたちの顔や、いつになく険しい目でまっすぐに前を見つめるエミリオ様の瞳や、棺を運ぶ途中で嗚咽を漏らしたルキウスの声を、忘れることはないでしょう。
少しでも寒くないようにと灯した燭台の明かりが、あんなに切ないものだとは知らなかったわ。
ともあれ、騎士団の子たちは身寄りのない子も多かったから、最初は集まっていた弔問客も、そのうち一人減り、二人減り、残るは火の番をしていた私だけになった。
レオ、あなた、どうして私を置いていったの?
ガランとした広間の中で、ただそれだけを考えていた。
どれぐらいそうしていたかしら。
ぼんやりと宙を見つめる私の耳に、扉を開ける微かな音が聞こえた。
涙で滲んだ目を向けると、目立たないよう黒い服を着たエミリア様が、エンリコ様の眠る棺にそっと近づき、声も立てず、じっと見下ろした。
隠された身のエミリア様は、私と違って堂々と会いに来られない。明日の葬儀にだって、出席できない。
これが父親との最後の別れなんだわ。
その姿を見て、この子は私が守らなきゃって思ったんだっけ。
「……マリアンナ?」
黙り込んだ私を心配して、浴槽のエミリア様が不安げに見上げる。
主人にこんな顔をさせるなんて、お世話係失格ね。
「さあ、腕を出して。今日は疲れたでしょう。綺麗にして、ゆっくり休みましょうね」
触れた腕は、折れそうなほどか細かった。
気づけば収穫祭も終わり、まもなく夏祭りを迎える季節になった。
地震のせいで中止になるかと思ったけど、エミリア様が頑張ってくれたおかげで、無事開催できるみたい。
あの子もきっと、体験してみたかったのね。今まではずっと地下にいたから。
「楽しんでもらえるように、私も本気を出さないと」
エミリア様の服を新調するため、布と糸を城下に買い出しに行くことにした。みんなが忙しく走り回っている中でも、テオだけはのほほんとしていたから、これ幸いとお供を頼んだ。
この頃のテオはだいぶ雰囲気が丸くなっていて、私が何か言うとすぐ、二つ返事で叶えてくれる。そして「褒めて、褒めて」って感じの目で見てくるから、まるで大型犬に懐かれているみたいで、思わず笑ってしまう。
地震の時も庇ってくれたし、少しは気を許してくれているのかしら。
「まあ、全部演技かもしれないけど……」
「何か言いました?」
「ううん、何でもないわ。私、あっちの方も見てくるから、馬車に荷物を運んでくれる?」
「了解でーす」
愛想よく返事をしたテオが、買い込んだ布と糸を両手に抱えて走っていった。
何とか材料が揃って良かったわ。
ほっと胸を撫で下ろす。今から作るのはちょっと大変だけど、何日か夜なべすればギリギリ間に合いそう。
でも、来月にはディーノとミリーナの結婚式があるから、礼服も作らないといけないのよね。
地震の影響で物流が滞っているせいで、どれだけ商店を回っても、礼服に相応しい生地も糸も見つからない。気づけば、普段は近寄らない区域に足を踏み入れていた。
どんよりと暗い目をした男たちが、一斉に私を見る。
お人好しが多いフランチェスカでも、犯罪が起きないわけじゃない。
特に有事が起こると治安が悪くなる。エミリア様や騎士の子たち、そして市の自警団がどれだけ目を光らせていても、蜘蛛の巣を張るように、犯罪者あがりの流民や傭兵崩れの行商人が闇市を形成して、被害に遭う領民が後をたたない。
ここもその一つみたいだった。
「いらっしゃい、お客さん。何が欲しい? ここにはなんでもあるよ。表には出ないものが山ほどね」
「ごめんなさい。間違って入り込んじゃったの。すぐにお暇するわ」
男たちを刺激しないよう柔らかな口調を心がけながら、ジリジリと後ずさる。でも、自ら罠にかかった獲物をみすみす逃がす悪人はいない。
顔中に刺青をして、目をギラギラさせた男が、私の腕を掴んだ。
「放して!」
「あんた城の人間だろ? 今日は買い出し? さぞかし、金持ってんだろうなぁ」
ニヤッと笑われて、ゾッとした。私のお金は、城のお金。ひいては、領民たちが一生懸命納めた税金。こんな悪人たちに取られるわけにはいかない。
「暴れんな!」
拳を振り上げられ、思わず目を閉じる。でも、いつまで経っても衝撃はやってこなかった。
「大丈夫ですか、マリアンナさん」
聞き慣れた、少し高い声。そっと目を開けると、そこには顔面に血を飛び散らせたテオが立っていた。
ショッキングな見た目に反して、浮かべている表情は満面の笑顔で、一瞬、夢でも見てるんじゃないかって気持ちになる。
テオの足元には無惨に歯を折られた男たちが横たわっていて、まるで陸に打ち揚げられた魚みたいに、ピクピクと痙攣していた。
「ちょっと待っててくださいね。今、止め刺すんで」
「待って、待って。殺しちゃダメ。自警団に引き渡しましょう。エミリア様に裁いてもらわなくちゃ」
血に濡れた角材を振り上げるテオに、必死で縋り付く。悪人たちを助けるためというよりも、テオに手を汚させたくない一心だった。
「……マリアンナさんが、そう言うなら」
何とか気持ちが伝わったみたいで、テオは手にした角材を放り投げると、宥めるように私の背中を撫でてくれた。
ガラン、と鈍い音がしたのを合図に、体を離す。
初めて触れたテオの体は、細身だけど思ったよりしっかりしてて、また増えた息子との共通点に、少し胸が痛んだ。
「じゃあ、せめてここにある商品頂いていきましょうよ。闇市にしては、そこそこ質も良さそうですし。慰謝料ですよ、慰謝料」
そう言ってテオは闇市に置いてあった商品の中から、特に質が良さそうな物を選んで手早く束ね始めた。なんというか、やたら手慣れている。
「それがあなたの本当の姿?」
テオは人差し指を唇に当てて、片目を瞑った。
「内緒ですよ」
城下での出来事から少し経って、私はテオを呼び出した。城だと話しにくいので、この子の好きなアーモンドケーキを出してくれる店にした。
見つけやすいようテラス席に座り、あたりを眺める。すっかり夏の日差しだ。明日の夏祭りに向けて、桶や柄杓が至る所に置かれている。
「どうしたんですか、マリアンナさん。城下で待ち合わせなんて珍しいですね」
のんびりとした口調だけど、目は笑っていない。普段やらないことをしているから、怪しんでいるんだろう。
先日の一件から、テオはアヴァンティーノ傭兵団長の息子だと調べがついていた。道理で、手際がいいはずよね。元・本職なんだから。
「この前のお礼をしたくて。あなた、ここのケーキ好きでしょう?」
「そんなの、気にしなくていいのに。それに俺、マリアンナさんの作ってくれるお菓子も好きですよ」
にこっと微笑むテオを複雑な気持ちで眺める。これが本音だったら、泣きたくなるぐらい嬉しいんだけど。
「これ……」
ケーキと紅茶を注文した後、小さな包みを差し出す。あの時かっぱらった布の余りで作ったものだ。
訝しげな顔をしたテオが、包みから取り出したハンカチを見て、微かに目を見開いた。
「カルネリス……」
私が刺繍した黄色の花を何度も何度もなぞり、ぽつりと呟く。
よっぽど思い入れのある花なのかしら。いつもの飄々とした仮面は剥がれ、本当のこの子が少しのぞいている。
「どうして、これを……」
「北部出身だって聞いたから。それにね、花言葉が素敵なの」
「花言葉……?」
「あなたを災いから守ります」
元々は遠くに行く恋人に手向ける花だったらしいけど、時代が流れて、今では旅人や大切な人に渡すお守りがわりになっていると、書庫の本を読んで知った。
「あなたも騎士だものね。気休めかもしれないけど、怪我をしないようにって想いを込めて」
テオはギュッと眉を寄せ、今にも泣きそうに口元を歪めた。
それを見た瞬間、私がテオにレオの面影を重ねているように、この子も私に誰かを重ねているんじゃないかって気づいた。
なんだ、私たち、似たもの同士だったのね。
「……受け取ってくれる?」
ハンカチを持つ手にそっと触れる。
あなたはきっと、任務のためなら私も殺すんでしょう。
それでも、息子の分まで元気に生きて欲しいって思うのはエゴなのかしら。
「ありがとうございます。本当に、嬉しいです」
そう言って笑うテオは、年相応の、普通の男の子のように見えた。
国全体を巻き込んだ内乱から三年が過ぎ、フランチェスカはすっかり元の平和を取り戻した。
私はといえば、サミュエルとエミリア様の間に生まれた命を見守りながら、日々穏やかな暮らしを営んでいる。
この歳になって、また赤ん坊の面倒を見ることになるとは思わなかったわ。
可愛くて仕方ないからいいのだけど。
「マリアンナさん」
聞き慣れた高い声が私を呼ぶ。振り返ると、頬を赤く染めたテオが、はにかむように笑っていた。
長い栗毛も、飄々とした雰囲気も、人当たりのいい笑顔も変わらない。
ただ違うのは、その目の奥に潜む剣呑さが薄くなったことだ。
「どうしたの。何だかご機嫌ね。いいことでもあった?」
「実は、結婚が決まって」
「あら、良かったじゃない!」
思わず声が弾む。まるで自分のことのように嬉しい。
サミュエルの代わりに孤児院に通うようになってから、エルマの後任の女の子に一目惚れして、何度もアタックしているとは聞いていた。
子供たちの面倒を見なきゃいけないからと断られ続けてたけど、ようやく実ったのね。
「でも、いきなり結婚? あなたたち、まだ知り合って三ヶ月ぐらいじゃないの?」
「他のやつに取られたくないし、今から子供作れば、サミュエル様の次の子供の従者にできるかなって」
「あなた、それ、前半はいいけど、後半は言うんじゃないわよ」
相変わらずサミュエル第一に生きているようだ。テオのお嫁さんはさぞかし苦労するだろう。
「それで……彼女に会ってもらえないかなって思って」
「え? 私? 私でいいの?」
「うん。マリアンナさんは、フランチェスカでの母親だって思ってるから」
テオの笑顔が、レオの笑顔と重なる。
その笑顔に、嘘はなかった。
あなた、いつの間にそんなに柔らかく笑うようになったの?
我慢しようと思ったのに、まるで水門が決壊したように、涙がこぼれた。
「マ、マリアンナさん。泣かないでください。ダメでした?」
「ダメじゃない、ダメじゃないの……」
ふるふると首を横に振り、不安げに顔をのぞき込むテオを抱きしめた。
あなたのためなら、何だってするわ。
私の、もう一人の息子だもの。
サミュエルに暴言を吐いた流民は、翌日から行方不明になっています。お察しですね。
本編の陰で、絆を育んていたマリアンナとテオでした。
マリアンナがくれたハンカチは、何年経ってもテオの宝物です。




