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おまけ

 精一杯背伸びをして、古びた扉をきいっと開ける。


 今はお昼前。みんな一生懸命働いている時間帯だ。誰もいない書庫の中はしぃんとしていて、なんだか別世界みたいに感じる。


 お兄様は静かで落ち着くと言うけれど、わたしには少し物足りない。できればずっと、お祭りみたいに賑やかな方がいい。


 かつん、と靴音を鳴らして中に入ると、埃臭い空気が鼻をくすぐった。思わずくしゃみが出て、慌てて口を押さえる。誰も聞いていないとわかっていても、ちょっと恥ずかしい。


 わたしの背丈よりも高い本棚の間を縫って、目的の本を探す。といっても、いつも同じ場所にあるから迷わないのだけど。


 手に取った本は、ずっしりと重かった。今では珍しい革張りの表紙だ。


 たくさんの人が読んだおかげで、手触りは柔らかい。小さな窓から差し込む日差しにかざすと、渋い色合いが少しだけ鮮やかなものに変わる。


 表紙をめくると、甲冑に身を包んだお姫様が、勇ましく剣を振り上げている挿絵が描かれていた。その隣には凛々しい騎士がいて、お姫様を守るように腕を広げている。


 わたしの大好きな絵だ。何度見ても素敵。ほうっと息をつきつつ、目を細める。


 お父様に読んでもらおう。


 本を胸に抱きしめて、書庫を出る。きちんと扉を閉めることも忘れない。自然と鼻歌があふれ出して、廊下を行く足取りも軽くなる。


「お嬢様、走ると転んじゃいますよ」


 笑いながら嗜めるのは、お父様の従者だ。午前中の訓練が終わったのだろう。長く垂らした栗色の髪からは、硝煙の匂いが微かにした。


「お父様は?」

「畑にいると思いますよ。もうすぐ収穫ですからね」

「ありがとう!」


 笑顔を浮かべるわたしに、従者はふふっと笑みを漏らした。煉瓦色の瞳は、どこまでも優しい。すれ違いざまにタッチして、城下を目指す。


 賑やかな中央広場と商業街を抜け、城門をくぐると、一面の小麦畑の前で汗を拭いているお父様の姿が見えた。短く切った黒髪が、太陽の光に照らされてツヤツヤと光っている。


「お父様!」


 振り返ったお父様が、穏やかな紫色の瞳を細めて、嬉しそうにわたしを見た。差し出された左手をぎゅっと握る。その薬指には、紫と赤い宝石のついた指輪がはまっている。


「ご本読んで!」

「お前は本当にその本が好きだね」

「だって、この本のお姫様、お母様に似てるんだもの」


 得意げに挿絵を見せると、お父様は苦笑いした。


「お母様には言うなよ。黒歴史なんだから」

「黒歴史ってなぁに?」


 歴史に色ってあるのだろうか。首を傾げたが、お父様は答えてはくれなかった。こういう時は突っ込んで聞いても無駄だ。大人にはいろんな事情があるとコリンさんも言っていた。


「わたしもこの本みたいなお姫様になれる?」


 質問を変えると、お父様は優しく微笑んで両腕を広げた。抱っこの合図だ。喜んで体を預けると、ぐ、とお父様の両腕に力がこもり、わたしの視界が急に高くなった。

 

 きゃあきゃあとはしゃぐわたしに、お父様がふうと息をつく。


「重くなったなぁ」

「失礼ね! そういうの、デリカシーがないって言うのよ」

「……どこでそんなこと覚えてくるんだ?」

「女には秘密があるものよ」


 ふふんと笑うと、お父様は薬湯を飲んだみたいな顔をした。それを無視して、小麦畑を眺める。この目線から見渡す景色は、特別に綺麗に見えるから大好きだ。


 ニコニコと機嫌よく笑うわたしにつられて、お父様も笑う。


「そこから何が見える?」

「小麦畑!」

「それだけ?」

「アントニオおじちゃんたちがいる!」


 わたしの姿に気づいたおじちゃんたちが、笑顔を浮かべて手を振った。みんな日に焼けて真っ黒になっている。それに手を振り返して答えると、お父様は満足げに頷いた。


「そうだね。この景色は好き?」


 当然だ。田舎だって馬鹿にする人もいるけれど、わたしにとっては、どんな景色よりも大切で価値のあるものだ。


 この景色を守るためなら、わたしはどんなことだってするだろう。歴代の領主や領民たちが、ずっとそうしてきたように。


 初夏の爽やかな風が、わたしの黒髪を舞い上げていく。


 それを優しい手つきで抑えながら、お父様がわたしに頬を寄せた。


「その気持ちを忘れなければ、きっとなれるよ」


 小麦畑の向こうから、わたしとお父様を呼ぶ声がした。ふわふわの赤毛を風に遊ばせながら、お母様がこちらに近づいてくる。その口元は幸せそうに緩み、今にもとろけそうな顔でわたしたちを見つめていた。


 腕には、わたしと同じ顔をした片割れを抱いている。その隣を歩くのはお兄様だ。燃えるような赤毛と(はしばみ)色の瞳が、お母様にそっくりで羨ましい。


 お父様の腕の中で、本を開く。


 これは、わたしが生まれるより前に書かれたお話で、本当にあったことを元にしているらしい。


 ぺらぺらとページを最後までめくると、領地を攻められたお姫様が、恋人の騎士や領民たちと共に逆境を跳ね除け、穏やかな日常に戻ったところで物語は終わっていた。


『領地は繁栄し、お姫様と領民たちはいつまでも幸せに暮らしました』


 この一文が特に好きで、何度も何度も繰り返し読んだ。モデルになった人たちも、きっといつまでも幸せに暮らしていることだろう。


 ふふ、と笑いながら、本から目を上げる。


 どこまでも広がる小麦畑が、燦々と降り注ぐ光を浴びて、黄金色に輝いていた。

本編より数年後のお話でした。

本を書いたのはエミリアに心酔していた伯爵夫人で、出版された時、エミリアは恥ずかしさのあまり、一日中布団にこもって出てきませんでした。

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