41話
「サミュエル!」
「エミリア!」
なかなか戻らないサミュエルを心配して下りてきたのだろう。北側の跳ね橋の上でウロウロしていたエミリアに駆け寄り、強く抱き合う。
周りで騎士たちが囃し立てる声は無視した。
エミリアの体は鎖帷子にガチガチに守られてはいたが、それでもほのかに伝わる体温に涙腺が緩む。
「無事で良かった。そばを離れてすみません」
「何を言ってるんだ。よくやってくれたよ。そっちこそ、怪我はないか? カルロと戦闘になったんだろ?」
「大丈夫です。傷ひとつありません。カルロは降伏しました。身柄はファウスティナ騎士団に預けています。ダンテ殿下も無事です。野営の指示を終えたら、こちらにくると」
「市内に入りきらないからな……。戦後処理が終わるまで、ケルティーナやロドリゴ卿たちも南側で野営するそうだ。さっき使者が来たよ。みんな無事だって」
「そうですか……!」
大丈夫だろうとは思っていたが、実際に聞くとホッとした。野営の準備を終えたら、彼らもこちらに合流するだろう。もう少しで再会できると思うと、胸が弾んだ。
「お前が出ていってすぐに戦闘が終わったんだ。カルロが戦場を離れたのを見て心が折れたんだろうな。みんな大人しく投降したよ」
エミリアの指差した先に目を向けると、カタリーナの森の入り口あたりで、武装を解かれた兵士たちが整然と地面に腰を下ろしているのが見えた。
彼らは薄汚れたシャツとズボンだけを身にまとい、皆一様に疲れた顔をして、周囲の騎士たちの指示に大人しく従っている。身元を確認しているのだろうか。羊皮紙の束を手にした騎士たちが、至る所で声を張り上げていた。
「敵対したとはいえ同国民だ。無闇に命を奪いたくない。このまま送り返そうと思うんだが……」
「賛成です。ダンテ殿下も同じ気持ちですよ」
早々に決着が着いたおかげで、フランチェスカ側に人的被害や物的被害は特にない。後世の人間には生ぬるいと思われるかもしれないが、これ以上の流血は御免だった。
全員を戻すにはかなりの費用と時間がかかるだろう。しかし、手筈はダンテが整えてくれるはずだ。何しろ、王国軍はもう彼のものなのだから。
他にもやることはたくさんある。城下も元の状態に戻さなくてはいけないし、踏み荒らされた畑も耕し直さなければならない。
目の前には剥ぎ取った武器や防具が山と積まれていて、あれを整理するだけでもどれだけの労力が必要なのか、考えるだけで嫌になってくる。
「全く、戦争って割に合わないもんですね」
「そうだな。もう二度としたくない」
微笑み合うサミュエルたちの耳に、騎士たちのざわめく声が聞こえた。その視線の先にいるのはダンテだ。背後にはラティウスもいる。
ダンテは周囲の動揺をものともせず、堂々とこちらに向かってきた。その顔には晴れやかな笑みが浮かんでいる。
「騎士団の方は、もうよろしいのですか」
「フレデリクに全て任せてきた。ケルティーナとロドリゴはまだ来ていないようだね。一番乗りとは光栄だな」
「色々と事後処理がありますので……。後で会談の場を設けるつもりですが」
他国を巻き込んでの交代劇だ。この戦争に関わったものたちと、今後のことを話し合う必要がある。
まさかドルジェまで来るとは思っていなかったが、ダンテと共に現れたところ見ると、嫁いだ公女を通して交渉したのだろう。しかし、その見返りは何なのだろうか。
「ドルジェのことは心配しなくていい。彼らは自分たちの立ち位置を理解している。……それを含めて、先に話したいことがあるんだ」
探るような視線に気づいたダンテが、含みのある笑みを返した。他のものたちには聞かれたくないことなのだろう。
「では、城に。跳ね橋を渡ればすぐです」
「ありがとう。でも、その前にルキウスはどこにいるんだ?」
「南側で指揮を取っていますよ。彼は有能な副団長ですから」
「だそうだよ、ラティウス。会ってきたらどうかな。私は一人で大丈夫だから」
「いえ、私はダンテ様の護衛なので。おそばを離れるつもりはありません」
職務に忠実なラティウスの言葉に、エミリアとダンテが顔を見合わせた。頷くエミリアに頷き返したダンテが一歩進み出て、こほんと咳払いを一つする。
「ラティウス卿。君はルキウス副団長と合流し、復旧の手伝いをしてきてくれないか。人手はいくらあっても足りないからね」
「いや、しかし……」
「命令に逆らうのか?」
うぐ、と言葉を飲み込んだラティウスが助けを求めるようにサミュエルを見る。同じ従者の立場としては加勢してやりたいが、エミリア達に逆らいたくない。
そっと目を逸らすと、ラティウスは重々しげなため息をついた後、黙って頭を下げ、城下に走っていった。
「兄弟の再会を間近で見れないのが残念だな、エミリア」
「全くですね、ダンテ殿下」
城壁の中では、顔を土と硝煙で黒く汚した騎士や領民たちが、戦後の原状回復に努めていた。市内のあちらこちらから、不要になった櫓を解体している音が聞こえてくる。
西側の城壁に目を向けると、バリスタを担いだテオとティトゥスが、マリアンナに追い立てられてひぃひぃと走っているのが見えた。
城下の片付けを優先したのだろう。騒がしい外とは反対に、城の中は閑散としていた。
ミゲル達をはじめ、あれだけいた女性や子供たちまで姿を消している。書類やら物資やらが散乱した廊下を進んでいくエミリアの後ろで、ダンテが物珍しそうにあたりを見渡していた。
「南部は曲線的な家具が多いんだな。ファウスティナとは全然違う」
「中部もまた、趣きが違いましたよ。王都の豪華さなんて、段違いでしたし」
「そうか。この目で見るのが楽しみだな」
誰もいない執務室は、目が当てられないぐらいに散らかっていた。溢れる物資や人を少しでもつめ込もうとした結果だ。
バルコニーへと続く窓も開け放たれ、そこら中に投擲用の石や煉瓦が積まれている。その中で、マチルダだけがのんびりと羽の手入れに勤しんでいた。
足元に気をつけながらバルコニーに出た三人の頬を、柔らかな風が撫でていく。微かに硝煙の匂いがしたものの、死と悲しみの匂いはしなかった。
「南部の風は、まだ暖かいな。ファウスティナはそろそろ冬の気配がしてくる頃だろう。山が雪で閉ざされる前に、ドルジェには戻ってもらわないとな。ただでさえ、貴重な労働力を借りてるんだ。あまり拘束すると叱られてしまう」
エミリアと顔を見合わせる。この様子だと、ダンテは随分ドルジェと親しいようだ。叔母が嫁いだとはいえ、元敵同士には違いないのに。
「彼らは殿下が連れて来られたのですよね?」
「そうだ。いくら実践経験豊富といえども、我が騎士団だけでは、王国軍に対抗するには心もとなかったからね」
「その見返りは? ランベルト王国と、ドルジェはずっと争ってきた立場です。ただで力を貸すとは思えないのですが」
「ないよ。あえていうなら、叔母上からの愛かな。今の国王は、叔母上にぞっこんなんだ」
「え?」
二人同時に、間抜けな声が漏れた。目を見張るサミュエルたちに、ダンテはおかしそうに目を細める。
「とうの昔にね、隣国の脅威なんてなくなってたのさ。それを黙っていたのは、ファウスティナを守るためだよ。もちろん、フランチェスカのように、兄に潰されかけていたわけじゃない。だけど、北端の緩衝地帯として、価値が上がることを狙っていた」
「それは……確かに公言できませんね」
「だろう? なまじ、兄のことを非難できる立場でもないのさ。国を謀っていたんだからね」
脳裏にアレクシウスの温和な微笑みが浮かんだ。好々爺に見えたが、さすがに長年公爵の座についているだけあって、強かである。
「でも、もう偽る必要もない。これからはドルジェとも手を取り合って、内政に勤めるつもりだよ。……兄には、ファウスティナで生きていってほしいと思っている」
案外、衝撃は少なかった。二人の兄弟喧嘩を見たときから、そうなるだろうと思っていたからだ。心のうちは分からないが、エミリアも冷静さを保っている様子だった。
「もちろん身分は剥奪し、常に監視をつける。死ぬまでファウスティナから出さない。兄のしたことは、決して許されることじゃないのはわかっている。周りから不満が出ることも。でも……」
「ご随意に。あなたはもう、この国の王なのですから。自分の信じる道を進んでください」
「……ありがとう」
ダンテが泣きそうな顔で微笑んだ。家族を失う辛さは、痛いほど良くわかっている。エミリアが誰かにそれを背負わせるわけがなかった。
それに、たとえ血に汚れた王座とはいえ、カルロが長い間、国を繁栄させてきたことは事実だ。いつの日か、ダンテの支えになってくれるだろう。
エミリアが微笑み返したそのとき、ふいに広場から悲鳴が上がった。
誰かが中庭に避難させていた鶏を逃してしまったらしい。好き放題暴れ回る鶏たちを、必死な顔をしたコリンやトマスが追いかけている。周囲に笑い声がさざめき、自然とこちらの空気も緩んでいく。
「いい街だな。領民も騎士たちも、皆、生き生きと働いている。君が守りたいと言った意味がよくわかったよ。これは失ってはいけないものだ」
「それを忘れないうちは、あなたは大丈夫でしょう。領民は鏡です。あなたの行いは、全てあなたに返って来ますよ」
「肝に銘じよう。同じ過ちは二度と繰り返さない。フランチェスカの名誉を回復し、南部には自治を返す。これを機に、王領も少しずつ縮小していくつもりだ。この国は一人で見るには広すぎるからね」
つまりは、貴族たちに所領を譲渡し、独自の発展をうながすということだ。カルロが望んだ未来とは正反対になったが、本来のあるべき形に戻るとも言える。
「もちろん、領土争いに発展しないよう制限はかけるつもりだ。だけどね、ミケーレをはじめ、山向こうの大陸では、王政廃止の機運が高まっているそうだよ。いずれ、この国も国民達が自分たちの力で国を治めていく日がきっとくる。それに向けて、少しでもできることをやらなければと思ったんだ」
そこで言葉を切り、ダンテはエミリアに向き直った。
「君の言葉は効いたよ、エミリア。見ないふりをしていた心の蓋を、無理矢理こじ開けられた。私はずっと逃げていたんだ。兄や、現実と対峙することが怖くて」
「日の当たる場所を歩く気持ちはどうですか?」
笑みを含んだエミリアの言葉に、ダンテは顎に手を当てて首を傾げた。青い瞳が、日に反射してキラキラと輝く。そして、しばし逡巡した後、満面の笑みを浮かべて答えた。
「最高だな!」
その一言には、全てが込められているような気がした。
晴れ晴れとした笑みにつられて笑っていると、廊下からエミリアの名前を呼ぶ声が聞こえた。そのやたら大きい声には聞き覚えがある。ロレンツォの声だ。野営の準備が終わったのだろう。
「これ以上、君を独り占めにするわけにもいかないね。そろそろ退散するよ。また後で会おう」
「城下までご案内を……」
「いいよ。一人で歩きたい気分なんだ」
鼻歌を歌いながら去っていくダンテの姿は、まるで普通の青年のように見えた。
「エミリア様! ただいま戻りました。よくやり遂げましたな!」
「ロレンツォ! よく戻って来てくれた! お前こそ、よくやってくれたな」
「ご無事で何よりです。ついでにお前もな、クソガキ」
「……二ヶ月ぶりなのに、とんだご挨拶ですね」
立ち去ったダンテと入れ替わるように、ロレンツォが執務室に入ってきた。長旅に出ていた割に、疲れた様子は欠片も見えない。エミリアと寄り添うサミュエルを憎らしげに睨みつけるところも相変わらずだ。
彼の背後では、エミリアに勝るとも劣らない立派な赤毛をした男性が穏やかに微笑んでいた。ケルティーナの指揮官だろうか。幾何学模様を織り込んだ長衣を着て、理知的な榛色の瞳を期待に瞬かせている。
「あの、そちらの方は……」
「ああ、ご紹介いたしましょう。こちらは、ヴィットリオ・ベスタ様です。代々、ケルティーナの宰相を務めるベスタ家の現当主で、ベアトリーチェ様の弟君ですよ」
「お、叔父上? 叔父上なのですか?」
「そうだよ、エミリア。話には聞いていたけど、本当に姉さんとそっくりだな」
そう言って、ヴィットリオはエミリアを抱きしめた。初めて対面した親族に、エミリアは目を白黒させている。喜びよりも、戸惑いの方が大きいのだろう。
「ずっと会いたかった。父さんと母さん……君の祖父母も、ずっと会いたがってたよ。だから初めて君の手紙を読んだ時は、二人とも飛び上がって喜んでた。それまでも、ロレンツォから手紙は度々受け取ってたんだけど……」
「エンリコ様の名前では、受け取ってもらえませんからな」
「彼はうちでは、姉さんを誑かした大罪人だからね。でも、まさか亡くなってしまうとは……それにエミリオまで……」
助けてあげられなくてごめんよ、とヴィットリオは言った。
「いいえ。こうして来て頂いただけでも十分です。おかげで、フランチェスカを守ることができました」
「……エミリアは、フランチェスカを愛してるんだね」
「はい!」
疑問を挟む余地もないほど迷いなく即答され、ヴィットリオは眩しそうに目を細めた。その顔は、どこか寂しそうだ。
「……本当はね。君を引き取ろうって話も出てたんだよ。この国は双子には生きづらいだろう? その点、ケルティーナはおおらかだから、のびのびと生きられる。それに女系なんだ。うちも、本当は姉さんが継ぐはずだったんだよ」
エミリアの頬を撫で、ヴィットリオがしみじみと言う。ベアトリーチェが生きていたありし日を思い出しているのかもしれない。
「君にも、精霊の力が伝わってるんだろう? それは代々、女性だけに受け継がれるものなんだ。姉さんも、君を宿すまでは持っていたんだよ」
「そう……だったんですね。でも、私の力はそんなに強くなくて……」
「それはまだ成人してないから……ああ、こっちだと年齢が違うのか。二十歳を迎えると、爆発的に力が強くなるんだ。それが成熟した証というか……大人になった証拠だね」
「え、じゃあ私も……」
顔を青ざめたエミリアが、自分の両手に目を落とす。ただでさえ持て余しているのに、どうすればいいのかと考えているのだろう。そんなエミリアを見て、ヴィットリオが笑う。
「まあ、その前に子供が出来たらその子に受け継がれるけどね」
「子供……」
ちら、とエミリアを見ると、彼女はふいと顔を背けた。しかし、その頬は確かに赤くなっている。
思わずニヤニヤと笑っていると、ロレンツォが威嚇するような唸り声を上げ、エミリアとサミュエルの間に割って入った。
「おい、クソガキ。何を想像した? 婚約したって聞いたけどな。俺は許さんぞ」
「まあまあ。エミリアの幸せが一番じゃないか。でも、僕も気になるな。まさか婚約まで進んでるとは思わなかったからね。後でしっかり、話聞かせてね?」
にこっと口角を上げたヴィットリオの目は、笑っていなかった。どうやらまた敵を増やしてしまったようだ。
体を強張らせ、黙り込んだサミュエルに満足したのか、ヴィットリオは「そろそろ戻るよ」と言った。しばらくフランチェスカに滞在して、復旧に手を貸してくれるそうだ。
「じゃあ、細かいことは、また後でね。しかしまあ、片割れの過ちを止めるために、巡り巡って同じことが起きるとは、この国も因果なものだね」
「同じ?」
そういえば、アヴァンティーノ邸で読んだ歴史書は、ケルティーナで作られたものだった。
――やっぱりエミリアの推測は正しかったのか。
食い入るように見つめるサミュエルたちに、ヴィットリオがキョトンとした顔をする。
「この国ではタブーなのかな。アウグスト一世は双子だったそうだよ。領土をまとめたのはいいものの、部族を力で支配したい側と、協調していきたい側と争ったって。結果はご存知の通り、後者が勝って、今の貴族制ができた」
「じゃあ、弟が成り代わったのですね。表向きは兄のロムルスが生きているということにして。血塗られた歴史を、綴りたくなかったから」
「弟? いや、妹さ」
君と同じだねと言って、ヴィットリオは去っていった。ロレンツォも城下の復旧を手伝うという。
エミリアとサミュエルだけになった執務室の中に沈黙が降りる。それを破ったのは、困惑の表情を浮かべたエミリアだった。
「だから、女性の継承権を奪ったんだな。兄に成り代わった罪悪感があったから」
「それに振り回されるこっちの気持ちも考えて欲しいんですが……」
「結局のところ、歴史なんてそんなものなのかもな。人の数だけ違う物語が生まれ、密やかに紡がれていく。正史として後世に残るのは、ほんの一部なんだろう。今日の出来事も、どう記されることやら……」
再度、沈黙が降りた。サミュエルの頭に、勇ましく剣を掲げて指揮を取るエミリアの挿絵が浮かんで、複雑な気持ちになる。
それまでに至った葛藤や苦悩を面白おかしく囃し立てられるのは勘弁だが、それはもう、子孫のみが知ることだ。せいぜい、最後に『フランチェスカは繁栄し、領主と領民たちは幸せに暮らした』という一文があることを祈ろう。
「……なんか疲れたな。ソファに座ろう」
ふう、とため息をついたエミリアにうながされて、隅に退けられていたソファを座れるように整える。それは、ファウスティナの一級品のソファとは比べ物にならないぐらい固かったが、不思議と気持ちが落ち着いた。
「……ようやく、終わったんだな」
しみじみと、エミリアが呟く。肩の力が抜けたのだろう。いつもピンと伸びた背中は、少し丸まっていた。
「いえ、始まったんですよ。新しい未来が」
そっと手を重ね、静かに微笑みを交わす。これから二人は冬を越え、春を迎え、さらに先の未来まで共に歩んでいくのだ。
エミリアがサミュエルの肩に頭を乗せた。微かな重みが、何よりも嬉しい。後ろでまとめていた髪を解き、梳くように撫でると、エミリアは気持ちよさそうに目を細めた。
「……もう男のフリをすることもないし、この口調も改めないとだな。分かってはいるんだが、染み付いてて……」
「構いませんよ。それもあなたです。でも……そうですね。『好きよ』って言ってもらいたいし、お互い少しずつ変えていきましょう。俺も、従者はもう卒業ですし」
「うん……旦那様だもんな。私も、『好きだ』って言ってもらいたい……」
体を離し、視線を交わし合う。エミリアの瞳には、頬を赤らめた自分の姿が映り込んでいる。きっと自分の瞳にも、同じ顔をしたエミリアが映り込んでいるだろう。
「……ねぇ、覚えてますか? 続きがしたければ、生きて帰ってこいと言ったの」
「言ったな。……女に二言はないぞ」
挑戦的な目をしたエミリアが、サミュエルの背中に手を回す。強く抱きしめ合い、ソファに体を横たえたとき、執務室の扉が音を立てて開いた。
「おっ、すまん。お邪魔だったか」
「親父……」
またこのパターンか、という言葉は飲み込んだ。いつ誰が来るとも知れぬ場所で、がっついた自分が悪いのだ。体を起こしたエミリアが澄ました顔で髪を整える。「ロドリコ卿、お久しぶりです」と言った声は少し上擦っていた。
「本当に、ありがとうございます。このご恩は忘れません」
「おいおい、他人行儀はよそうぜ。もう家族みたいなもんなんだから。娘に『お父様』って呼ばれるの、夢だったんだよな」
「息子で悪かったな。そんな似合わない夢を抱くなよ」
「拗ねんなよ。どんだけデカくなっても、お前は俺の可愛い息子だよ」
「うわ、やめろって!」
大股で近づいてきたロドリゴに髪をかき混ぜられ、頭がグラグラと揺れる。相変わらずな様子に、胸がホッと軽くなる。
表には出さないようにしていたが、ずっと心配だったのだ。見た限り怪我もなさそうだし、むしろ王都にいた頃よりも元気そうに見える。
「母さんやみんなは?」
「南側の野営地で辣腕を振るってるよ。サリカやヨシュナンの連中ともすっかり打ち解けて、『姐さん』なんて呼ばれてる。ラルゴたちも相変わらずだ。後で顔、見せてやってくれよな。エミリアの晴れ姿、見られなかったのを残念がってたぜ」
「結婚式で必ずお見せしますから……お、お父様……」
ロドリゴが破顔した。とても騎士団長とは思えない締まらない顔に、眩暈がする。きっと自分も同じ顔をしているだろうから余計にだ。
そこでふっと気づいた。
エミリアと正式に結婚するということは、フランチェスカの入婿になるということに。
「なあ、俺が結婚したらアヴァンティーノはどうなるんだ? 跡継ぎがいなくなるだろ?」
ロドリゴに兄弟はおらず、息子もサミュエルしかいない。エミリアがハッと息を漏らし、不安げな視線をロドリゴに向ける。次の瞬間、大きな声で笑い飛ばされた。
「ガキがつまらないことを心配してんじゃねぇよ。ダンテが正式に王位に就けば、そのあたりの法律も変わるだろう。それまでは、もうちょっと踏ん張っててやるよ。まあ、これを機に隠居してもいいんだが……ひょっとしたら、すぐに孫ができるかも知れねぇし? そしたら財産の一つや二つ残してやりてぇしな」
含みのある笑みを向けられて閉口する。しばらくは揶揄われ続けることは確実だ。
しかし、悪い気はしなかった。未来を思い描けるということはいいものだ。エミリアの顔も、甘いものを食べたときのように綻んでいる。
「まあ、いつまでも変わらねぇもんなんてねぇよ。人はみんな、くっついたり離れたりして、新しく家族の歴史を築いていくんだ。だから安心して生きていけよ。お前たちはまだ若い。これから何だってできるんだからな」
らしくないことを言って照れ臭くなったのか「じゃあ、また来るわ」と踵を返すロドリゴを咄嗟に呼び止める。
こちらを振り返る赤い目は、サミュエルの紫の目とは似ても似つかないのに、なぜか同じもののような気がした。
「ありがとう、親父。俺のことを拾ってくれて。アヴァンティーノで生きてこられて、本当に良かった」
ひらひら、と手を振り、ロドリゴは執務室を出て行った。いつも頼りにしていたその大きな背中を、サミュエルはいつまでも見つめ続けた。
ケルティーナに建国時の内乱の詳細が伝わっているのは、アウグスト一世(妹)の仲間にケルティーナ人がいて、内乱に敗れた人間たちを連れてケルティーナに戻ったからです。アウグスト一世(妹)は、己の罪を消したくなかったんですね。




