4話
今回より主要トリオ(サミュエル・エミリオ・テオ)は省略します。
【登場人物まとめ】
ルキウス
フランチェスカ騎士団副団長。案外細かいところに気がつく性格。
ミゲル
エミリオの側近で家令。
マリアンナ
エミリオの側近で女中頭兼料理長。エミリオのお世話係も兼ねている。
フランチェスカにきてから三週間が経ち、少しずつ城の暮らしにも慣れてきた。
こちらを警戒しつつも、ミゲルたちは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたし、最初は突っかかってきた騎士たちも、サミュエルが偉ぶらずに淡々と仕事をこなしているのを見て、少しずつ歩み寄りの姿勢を見せていた。
ただ、ロレンツォは相変わらずこちらを敵視したままで、副団長のルキウスも事あるごとに因縁をつけてきた。年嵩の騎士たちの中でもルキウスは一番下の三十二歳で、比較的歳の近いサミュエルをライバル視しているようだった。
テオは初日のデモンストレーションが効いたらしく、弓兵隊の部下たちと仲良くやっている。元々人好きのする男だ。新しい環境に溶け込むのに苦はないようだった。サミュエルとの関係を説明するのは苦慮したが、豪農の実家にいた元奉公人ということで落ち着いた。
肝心のエミリオはというと、たまに城下に下りる以外は執務室に篭りきりで案外隙を見せなかった。それほど精力的に仕事をこなしているという証拠なのだが、こちらとしては焦燥感が募るばかりだ。
給料を頂く身になったので生活資金には困らないが、このままずるずると働いているわけにもいかない。長くいればいるだけしがらみも増える。そろそろ仕掛けたかった。
「はい、こちらで今日の分の決裁事項は終わりです。後はご自由にお過ごしください」
羊皮紙の束を確認していたミゲルが、にっこりと笑ってエミリオを労った。領主の元には日々ありとあらゆる事柄が舞い込んでくる。
フランチェスカのような小さな地方都市では、領民同士の諍いといったささやかなものから、公共事業に関わる大きなことまで、全てに関わらなければならない。エミリオも自分の責任を自覚しているのか、人任せにはしたくないようだった。
「ようやく終わった……」
ミゲルが部屋を出るのを待って、エミリオは机に突っ伏した。その目の下にはクマが浮かんでいる。後を継いだとはいえまだ半年だ。慣れない仕事に神経をすり減らすのも当然だった。
「お疲れ様です」
一応従者として、労いの言葉をかける。滅多に出ない従者の優しさにエミリオは嬉しそうに微笑み、甘えるような声を出した。
「紅茶が飲みたいな。砂糖とミルクをたっぷりいれたやつ」
「厨房に行ってきます。砂糖は二杯でよろしいですか?」
「いや、三杯。糖分が恋しい」
――そんな甘ったるいものよく飲むな。
内心ため息をつきつつ、執務室を出て厨房に向かう。
少し早足で廊下を歩いていると、向こうから疲れた顔をしたルキウスが歩いてきた。午後の訓練が終わったところのようだ。短く刈り込んだ青色の髪が汗に濡れている。
ルキウスは王国の北端に位置するもう一つの公爵領ファウスティナの出身で、元を辿れば山向こうの隣国ドルジェから亡命してきた一族の末裔だそうだ。
ファウスティナは昔ロドリゴに連れられて一度だけ行ったことがある。細かいことはあまり覚えていないが、聳え立つティリス山の尾根が圧巻だったことは印象に残っていた。あれを越えてきたとは、ルキウスの先祖は相当苦労したとみえる。
「こんなところで従者が主人から離れて何してんだよ」
「その主人のために紅茶を取りに行くんですよ」
冷静に言い返すと、ルキウスは小さく舌打ちをした。サミュエルの態度が気に入らないのか、エミリオのそばにいることに嫉妬しているのか、おそらくその両方だろう。
「じゃあ、さっさと行けよ。油売ってんじゃねぇ」
話しかけたのはそっちだろうと思ったが、言い返すのはやめておいた。目礼し、先を急ごうと足を進める。ルキウスのそばをすり抜けたところで「ちょっと待て」と呼び止められた。
「袖、ボタンが取れてる。後でマリアンナさんにつけてもらえよ」
確認すると、ルキウスの言う通り、左袖のボタンが取れていた。よく見ているものだ。服装の乱れは心の乱れだとソフィアに口を酸っぱくして言われていたことを思い出し、少し口元が緩む。
「何笑ってんだよ。エミリオ様に恥ずかしい思いをさせんじゃねぇぞ」
「ありがとうございます。今度、訓練にお付き合いさせていただきますよ」
「いらねぇよ! 本当に生意気なやつだな」
そう言ってルキウスは肩を怒らせて廊下の向こうへ歩いて行った。
――みんなお人好しなんだよな。
限りなく怪しいとはいえ、十年前の戦争はサリカ側が先に手を出したことになっている。無関係を装ったものの、さぞかし冷たくされるだろうと覚悟していたのだが、特にそんなこともなく、普通に接してくれている。
――でも、エミリオを殺してもお人好しのままでいられるんだろうか。
ふう、とため息をつき、首を横に振った。変な感傷は持たない方がいい。
「あれ? 誰もいない」
厨房の中は珍しくもぬけの殻だった。食堂側にも誰もいない。
「紅茶なんていれたことないぞ……」
途方に暮れたとき、背後から「どうしました?」と聞き慣れた声がした。振り返ると、両手いっぱいに林檎を抱えたテオが、首を傾げてサミュエルを見つめていた。
「お前こそ、どうしたんだよそれ」
「ティトゥスのお婆ちゃんにもらいました。孫がお世話になってるからって。たくさんあるんでマリアンナさんにお菓子にしてもらおうかと思って」
もう差し入れをもらう仲になったのか。人たらしの従者に内心舌を巻く。そんなサミュエルの気持ちも知らず、テオは机に林檎を置くと、「で、どうしたんですか?」と繰り返した。
「紅茶を持っていかないといけないんだけど」
「ああ、ニコラス様、何もできませんもんね」
余計なお世話だ。じろっと睨むと、テオは取り成すように「俺がいれますよ」と言った。
「できるのか?」
「当たり前でしょ。俺は元従者ですよ」
「元じゃないだろ」
フランチェスカに染まり始めているテオに渋面を浮かべる。それには気づかず、テオは鼻歌混じりに手際よく紅茶を用意した。
そのまま持って行こうとして、ふと暗殺の機会が訪れたことに気づいた。懐にはクノーブルまでの道中で手に入れた毒薬がある。五十年前に王国で猛威を振るった猛毒レギリスには及ばないだろうが、何もないよりはマシだ。
――王城にはレギリスが保管されてるっていう噂だけど、手に入れられるわけないしな。
執務室に誰もいなければ決行しようと決め、テオと共に行くことにした。一緒にいた方が逃げやすいからだ。
「エミリオ様、お待たせいたしました」
扉を開けると、エミリオはまだ机の上に伸びていた。さっと視線を走らせるが、周りには誰もいない。テオに目配せして、サミュエルの姿を隠すようにエミリオの眼前に立たせる。
「お疲れですね」と相手をさせている隙に、ポットからカップに注いだ紅茶に毒を仕込んだ。
「はい、どうぞ。ミルク多めにしておきましたからね」
「うん、ありがとう」
素直にカップを受け取ったエミリオが紅茶に口をつける。それを見つめるテオの喉がゴクリと鳴った。しかし一口飲んだところで、エミリオがぴたりと手を止めてしまった。
――気づかれたか?
「お口に合いませんでしたか?」
「いや、猫舌なんだ。ちょっと熱い」
ふう、と息を吹きかけつつ、エミリオは紅茶を最後まで飲み干した。どれだけ待ってもエミリオに異変が起きる様子はない。即効性だと聞いていたのに、紛いものを掴まされたのか。
わかっているのは暗殺があえなく失敗したという事実だった。唇を噛み締めるサミュエルに気づかず、美味しそうにおかわりまで要求するエミリオを複雑な気持ちで見つめるしかなかった。
夜の帷がおりた頃、マリアンナを伴ったエミリオが浴室の中に入っていった。それを廊下の陰から見つめながら、サミュエルはこれからの手順を頭の中で考えていた。
エミリオはかなりの綺麗好きらしく、朝と夜の決まった時間に風呂に入る。その間は誰もこの付近に近寄れないので、最も警備が手薄になるときだった。
「よし、いけテオ。お前の裏声が活躍する場面だぞ」
「ええ……上手くいくかなぁ」
嫌そうに顔をしかめながら、テオは喉元を触って声の調子を確かめた。
盗賊団にいた頃、テオはターゲットの懐に潜り込んで中から鍵を開ける仕事を担当していた。ときには女装することもある。髪を伸ばしているのもそのためだ。声を変えるのはお手のものだった。
「マリアンナ様! マリアンナ様! 大変です! すぐこちらにきてください!」
声を上げると同時に、近くの空き部屋に滑り込む。扉を少し開いて様子を観察していると、浴室の中から訝しげな顔をしたマリアンナが姿を現した。キョロキョロと左右を見渡した後、中にいるエミリオに何事かを話し、足早に廊下の向こうへ走って行く。
「上手くいったな。戻ってくる前に終わらせるぞ」
音を立てないよう注意しながら廊下に躍り出て、浴室の扉を開ける。中は浴槽から立ち上る湯気で白く煙っていた。引かれた薄いカーテンの向こうに、エミリオの姿がうっすらと見える。まだこちらには気づいていないようだ。
万が一失敗した時の言いわけのために持参しておいた布を手にし、ゆっくりと近づく。だが、視界の悪さが災いし、もう少しで手が届くというところで床に転がっていた桶に足をぶつけてしまった。
「マリアンナ? もう戻ってきたのか? 何があった?」
立ち上がったエミリオがカーテンに手をかける。踵を返そうとしたが間に合わない。手にした布を放り出して剣に手をかけようとしたとき、無情な音を立ててカーテンが開いた。
「えっ」
後ろでテオが驚きの声を上げた。目の前にいるのは間違いなくエミリオなのだが、問題はその体だ。
天井から吊るされたランプの明かりに照らされた白い肌は、男というにはきめ細かすぎた。それに何より、ささやかに主張する胸も、その下も、紛れもなく女のものだった。
「お前たち……なぜここにいる?」
裸体を見られているにも関わらず、エミリオは冷静な声で問いかけてきた。
久しぶりに見る女の体にのぼせたのか、「うっ」と声を漏らしたテオが鼻を押さえる。その左手にはサミュエルが床に捨てた布が握られていた。
どうやら、ちゃっかり拾っていたらしい。それを引ったくるように奪い、うやうやしくエミリオに差し出す。
「体を拭く布を持ってきました。入浴がお好きのようなので、もっと必要かと思いまして。マリアンナさんもお忙しそうでしたし。さっき走っているのを見ましたよ」
すらすらと口から出まかせを吐き出しつつも、頭の中はどうやってこの場を逃れるかということでいっぱいだった。まさか仇の息子がご令嬢だとは思わず、感情も思考も整理できない。
エミリオは素直に布を受け取って体を隠すように巻きつけたが、じっとこちらを窺い見る目は変わらなかった。
「不躾な真似をして申しわけありません。俺たちはこれで失礼いたします」
何も見なかった振りをして浴室から出ようとしたとき、廊下を走ってくる足音がした。マリアンナが戻ってきたのだろう。身構える間もなく、激しい音を立てて扉が開く。
「あなたたち、そこで何やってるのっ!」
サミュエルたちを見たマリアンナが、顔を真っ赤にして怒声を上げた。当然の反応だ。たとえエミリオが本当の男だったとしても同じだっただろう。
「マリアンナ、落ち着け。人が集まってきたら困る」
「でも……」
「いいから」
主人にそこまで言われては黙るしかない。マリアンナはぎゅっと唇を噛み締め、怒りを込めた目でこちらを睨んだ。
「バレてしまっては仕方ない。ご覧の通り、私は女だ」
ため息混じりにエミリオが言う。世界中探せば女の体をした男もいるかもしれないが、海に落とした針を再び手にするより確率は低いに違いない。
「……事情をお聞きしても?」
「それは後で話す。さすがにいつまでもこの格好でいたくない。零時の鐘が鳴ったら迎えを寄越すから、自室で待機していてくれ」
断る選択肢はない。黙って頷き、鼻を押さえたままのテオを連れて浴室を後にした。
男装がバレてしまいました。
主人の裸体を見られて、マリアンナはガチギレしています。