35話
事後(朝チュン)描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
薄暗い部屋の中に差し込む日の光で、サミュエルは目を覚ました。腕の中には、穏やかな顔をしたエミリアがすやすやと眠っている。
彼女の体の至る所にはサミュエルがつけた赤い花が咲き乱れ、ベッドの下には二人が脱ぎ捨てた服がくしゃくしゃになって丸まっていた。
ミゲルたちの信頼を裏切り、ついに一線を越えてしまったが、サミュエルに後悔の二文字はなかった。たとえボコボコに殴られたとしても構わない。故郷を焼け出されたときから常に空いていた胸の穴が、ようやく塞がったような気持ちだった。
起こさないよう注意しながら、布団からのぞく赤毛を優しく撫でる。同時に、昨夜この髪がサミュエルの動きに合わせてシーツに広がる様を思い出して、頬を赤らめた。
何度目かの交歓の後、二人でたくさんのことを話した。亡くなった家族のこと、幼い頃の思い出、好きなこと、嫌いなこと、そして未来のエミリアと過ごした日々のこと。どれだけ話しても話題は尽きなかった。そして話し疲れると、どちらともなく寄り添って眠った。
抱き寄せた柔らかな感触と温もりを、サミュエルは生涯忘れることはないだろう。
「んん……」
小さく身じろぎしたエミリアが、赤いまつ毛に彩られた瞼をゆっくりと開いた。日の光を浴びて宝石のように輝く榛色の瞳が、サミュエルの姿を捉える。そこに映り込んだ自分は、間抜けなぐらい、幸せそうな顔をしていた。
「おはよう、エミリア」
「おはよう、サミュエル」
ふわり、と花が綻ぶように、エミリアが笑う。しかしその直後、顔を真っ赤にして布団に潜り込んでしまった。恋人らしく、甘い口付けでもしようかと思っていた矢先だったので、いささか拍子抜けしたような気分になる。
「どうしたんですか。顔、隠さないでくださいよ。キスができないでしょ」
「だって……恥ずかしい……」
それ以上のことをしておいて、今さらではないだろうか。頭に被った布団を剥ぎ取り、やや強引に唇を塞ぐ。
嫌がってはいないことは、肩に添えられた手のひらの熱さでわかった。あまりやりすぎると、また暴走してしまいそうなので、軽く啄む程度に留めておく。
「……朝っぱらから……サミュエルの馬鹿……」
「あなたのそばにいられるのなら、馬鹿で結構ですよ」
そろそろ朝食でも作ろうと、ベッドから体を起こす。
――うわ、土埃で服がドロドロだ。
仕方がないので、下履きだけを拾い上げて身につけた。一線は越えたとはいえ、さすがにまだ全裸で歩き回る根性はない。着替えは、干していたものが乾いているだろう。
「あ、私も……」
「エミリアはまだ寝ててください。というか、起き上がれます?」
「う……」
エミリアが言い淀む。嘘をついて己の不調を隠そうとしなくなったのは、大きな進歩かもしれない。
――無理させちゃったもんな。
初めてだとわかっていたのに、止まれずに何度もしてしまった。エミリアは必死で受け止めてくれたが、相当辛いはずだ。いつ森番が戻ってくるのかわからないので、長居はできないが、せめて少しでも休ませたかった。
「あの……背中、痛くないか?」
「背中?」
床の服を拾い集めつつ、手を後ろに回して探ると、ピリッとした痛みが走った。昨夜エミリアが引っ掻いた痕だろう。こんなもの、どうということはない。
「むしろ男の勲章ですよ」と笑うと、エミリアは頬を膨らませた。
「随分、慣れてるな? これまで、いくつ勲章をぶら下げてきたんだ?」
「えっ」
「そうだよな。お前、アヴァンティーノのご令息だもんな。さぞかし、綺麗で地位のあるご令嬢たちから引く手あまただったんだろうな」
「いや、でも、好きになった人はいなくて。というか、話したでしょう?」
「聞いてない。また私を未来の私と重ねてるな」
剣呑に細めた目の端に、うっすらと涙が滲んでいる。失言だった。恋人はいないと話したのは未来のエミリアだ。少しずつ未来に近づきつつあるので、記憶がごっちゃになってくる。
「すみません。でも、未来のあなたも、今のあなたも、俺にとっては大事なエミリアで……」
しどろもどろになって弁解すると、エミリアはふっと微笑んだ。思わずこぼれたといった様子だった。
「わかってるよ。少しからかっただけだ。昨日、未来の私との思い出を話してくれて嬉しかったよ。隠されているより遥かにいい。それに……お前と夜を過ごしたのは、今の私だから」
そう言って、エミリアは布団を身にまとったままベッドを下りた。慌てて制止しようとしたが、彼女は微笑むばかりで、全く言うことを聞いてくれない。
そして、サミュエルの眼前までくると、すっと背伸びをして、頬に触れるだけの口付けをした。
「愛してるよ、サミュエル。未来の私も、きっとこうしたかったはずだ。昨夜は素敵だったぞ」
にこっと笑い、かまどの方へ歩いていく後ろ姿を呆然と見やりながら、サミュエルは頬に手を当てた。かあっと顔が熱くなる。
――反則だ。可愛くて、格好いいなんてずるい。
心の底から、そう叫びたかった。
身支度を整え、軽い朝食をとった二人は、床に地図を広げ、旅の行程の最終確認をしていた。部屋の中には、さっき平らげたパンとスープの匂いが漂っている。
「雨も止んだし、そろそろ騎士たちも森の捜索に乗り出す頃だろう。シルヴィオの最短ルートをいくにしても、もう森番の小屋は頼らないほうがいいよな?」
細い指を地図に滑らせるエミリアは、いつも通りの領主の顔になっている。さっきまでの甘やかな雰囲気が消えてしまったことは残念だったが、また前を向き始めた彼女に、安堵する気持ちの方が大きかった。
「そうですね。フランチェスカに戻るにしろ、どこかに身を隠すにしろ、ここを抜けると踏んでるでしょうし。森番の小屋の場所は騎士たちも把握しているので、本体よりも先に伝令が――」
耳が馬の蹄の音を捉え、反射的に体が動いた。腰の剣を抜き、扉に向き直る。意識を集中すると、馬を下りた何者かが、草を踏み締めてこちらに近づいてくるのがわかった。
――森番か、それとも騎士たちか。
足音は一つだが、離れたところで様子を伺っている可能性もあるので、油断はできない。
地図を畳み、顔を強張らせたエミリアに、ハンドサインで部屋の隅に隠れるよう指示し、扉の脇に身を潜めた。たとえ複数だろうと、入り口は一つだ。ここを死守すれば乗り切れる。
扉のノブがゆっくりと回る。エミリアが唾を飲み込んだ音が、やけに明瞭に聞こえた。
「わっ、な、なんだあんたっ」
扉が開いたと同時に、来訪者の喉元に剣を突きつける。悲鳴を上げ、ひどく狼狽えた表情でサミュエルを見つめるのは、燃えるようなくしゃくしゃの赤毛に、優しげな緑色の瞳を持つ、どう見ても騎士には見えない壮年の男だった。
男の肩越しに、外へさっと視線を走らせる。他に誰かがいる気配はない。そもそも武装した騎士たちが押し寄せれば、異変を感じたフランたちが騒ぐはずだ。
――森番だったか。
雨が止んで、拠点に戻ってきたのだろう。
ちら、と部屋の隅を振り返り、ベッドの陰に隠れていたエミリアに頷く。そして、剣を鞘に収めると、ノブに手をかけたまま硬直している男に頭を下げた。
「失礼な真似をして、申し訳ありません。森に入ったところ、雨に見舞われまして。一晩、小屋をお借りしていました」
「あ、あー……そうか、あんたら夫婦もんか。そりゃ、警戒するよな。いいよいいよ、別に怪我させられたわけじゃないし、旅人さんのためにいつも開けてんだから。気にすることないって」
男は、急に態度を変えたサミュエルに戸惑いつつも、エミリアの姿を見て相合を崩した。娘から女に変わったからだろうか。男装していても、すぐに女性だとわかったようだ。
扉から体をずらし、にこにこと人の良さそうな笑みを浮かべる男を中に通す。食料でも調達してきたのか、左手には大きな紙袋を抱えていた。
「あの、持ちます。奥の机に置けばいいですか」
「ん? ああ、ありがとう。気の利く旦那さんだね。ちょうど王都に用があって、色々買い足してきたところだったんだ。保存食もあるし、よかったら、いくつか持っていっていいよ。これから森を抜けるんだろ?」
「小屋をお借りした上にそんな……! いただけません!」
「奥さん、遠慮しなくていいよ。見たところ、ケルティーナ人みたいだし、これも何かの縁だ。同郷同士、仲良くしようや」
ニコッと笑う男の顔を見ていると、誰かを思い出すような気がする。
あわあわしながら保存食を受け取るエミリアを尻目に首を捻っていると、ふと、穏やかに微笑むテュルクの顔が脳裏によぎった。
目を細め、記憶の中のテュルクと男の顔を比べてみる。ソバカスこそないものの、目の優しさや雰囲気が、彼によく似ていた。
「あの……ひょっとして、ご親戚にフランチェスカの森番を務めている方はいませんか」
「えっ、あんたテュルクのことを知ってるのかい? あいつ、俺の甥っ子なんだよ。ひょっとして、フランチェスカからきたの?」
――やっぱりか。
男の隣で、エミリアも目を丸くしている。テュルクの一族は王国全土の森に散らばっているとは聞いていたが、まさか、こんなところで会うとは思わなかった。
「あ、いいえ。立ち寄っただけなんですけど、お会いする機会があったので。森をよく管理されてるって評判ですよ。ご領主様からも重用されているようです」
「そうかい! 一族の中でも特になよっちかったあいつがねぇ。良かったらもっと話を聞かせてくれよ。お茶でも淹れるからさ」
「有難いんですが、俺たち、そろそろ行かないと……」
心の中でしまった、と漏らす。つい好奇心に負けて余計なことを聞いてしまった。男はキョトンとした目でサミュエルを見つめると、ふっと笑って「大丈夫だよ」と穏やかな口調で言った。
「騎士さんたちは、まだここにはこないから安心しな」
ぎくり、と肩が強張る。そういえば王都から戻ってきたと言っていた。昨日の騒ぎも知っているのかもしれない。
咄嗟にエミリアの腕を引き、背後に隠す。怪しいと言っているようなものだが、森番は仕事の性質上、腕っぷしの強いものも多い。用心するに越したことはなかった。
「そんなに警戒しないでくれよ」
悲しそうに眉を下げた男が、ベッドの下から丸めた絨毯を取り出し、床に広げる。
「昨日の雨で、このあたり一帯はひどくぬかるんでる。貴族のボンボンが多い騎士さんたちに、今の森を踏破できるとは思えないね。それに今、王都はしっちゃかめっちゃかだよ。しばらくはまともに機能しないんじゃないかな」
エミリアと顔を見合わせる。男の言うことを信じるなら、追手がかかるには、まだ余裕がある。それに、その後の王都の状況も気になっていた。話を聞く価値はあるかもしれない。
目で頷き合った二人は、男が敷いた絨毯の上に大人しく腰を下ろすことにした。間をおかず、水筒からカップに注がれた紅茶がスッと差し出される。
「はい、王都名産のアップルティー。水出しだから、ちょっと薄いかもだけど。俺はここの森番で、ラスティってんだ。あんたたちはどこから来たの」
「ありがとうございます。俺はニコ、彼女は妻のエミリーです。王都から出てきたばかりで、これから北に行こうかと思って……」
いい香りのするアップルティーを口に含みながら、嘘に塗れた自己紹介をする。それでもラスティは納得したようで、ため息まじりに「なるほどねぇ」と呟いた。
「王様が親を殺しただの、それを糾弾した騎士団長が家族と一緒に逃げただの、フランチェスカの領主様が無実を訴えただの……嘘だか本当だかわかんないことが一斉に起きたもんねぇ」
概ね合っている。人の口には戸を建てられないというが、一介の森番にまで広がっているとは、余程インパクトが強かったのか。
――いや、きっと反戦派の誰かが意図的に流したんだ。
もう少しすれば、南部に戦争を仕掛けたのはフランチェスカではないということも明らかになるだろう。
「王様に不信を抱いたお貴族様たちも、すでに何人か王都から離れたらしいし、あんたらもその口だろ? どことなく、平民っぽくないもんな。身なりもきちんとしてるし」
「いえ、そんな……俺たちはちょっと余裕のある農家の出ですよ。結婚して王都に越してきたばかりだったんですけど、王城が襲撃されたのを見て、怖くなってしまって……」
「ああ、あれ。あんたらも見たんだね。まさか、あんなことが起こるとはねぇ。俺も近くにいたから、凄く怖かったよ」
そのときのことを思い出したのか、ラスティはぶるっと身を震わせた。
「あの、お怪我は……」
「ん? 大丈夫大丈夫。逃げ足だけは早いから。でも、結局用事は済ませられなくてさ。仕方ないから買い物だけして帰ってきちゃった」
恐る恐る尋ねるエミリアにあっけらかんと答え、ラスティは紅茶をずずっと啜った。温和そうな見かけによらず、随分とタフなようだ。用事とは何だったのかと尋ねると、彼は少し考える素振りを見せ、「まあ、いいか」と言った。
「甥っ子から手紙をもらったんだよね。森を焼かれるかもしれないって」
それから彼が語ったのは、サミュエルたちが思いもよらない内容だった。
つい三日前、ラスティはテュルクから一通の手紙を受け取った。
――久しぶりだな。元気にやってんのかな。
懐かしさに目を細めながら封筒を開けると、そこには近況の他に、現フランチェスカ公爵の人柄や、彼が無実の罪を着せられ、間もなく王都が攻めてくること、そして、そのせいで森が焼かれるかもしれないということが切々と綴られていた。
いくら可愛い甥っ子の言うことでも、最初は信じられなかった。昨年末の戦争によって、多くの森が焼けていたからだ。
しかし、テュルクは嘘をつくような人間ではない。それに、人一倍優しくて引っ込み思案だった甥っ子が、ラスティを頼る手紙をよこすのは初めてのことだった。
――代替わりしたのなら、確かに罪はないのかもしれない。
そう思ったラスティは、旧知の役人に探りを入れるために王城に向かった。もし、本当に戦争が起きるのだとしたら、一族全員の力を合わせてでも、王の愚行を止めなくてはいけないからだ。
「でも、その途中であの騒ぎに遭遇しちゃって、結局会えなかったんだよね」
だから、フランチェスカが本当はどういうところなのか、テュルクはそこでどう生きているのか、それを詳しく聞きたかったのだ、とラスティは話を締め括った。
「……フランチェスカは、いいところです。領主はお人よしだし、領民たちも彼を慕ってる。それに、とても自然の恵みを大切にしていて、建国以来ずっと変わらず、自然と共に生きています。テュルクさんも、居心地がいいって言っていましたよ」
ラスティは、フランチェスカへの想いを語るサミュエルをじっと見つめると、「そうかい」と優しく微笑んだ。
「俺たちケルティーナ人はね、森と共に生きてきたんだよ。森は俺たちに豊かな恵みを与え、この世界の循環を支えてる。それは、この国だって同じはずだ。無闇に森を焼くなんて、到底許されることじゃない。だからフランチェスカのことも、あんまりよく思ってなかったけど……」
緑の目が、猫の瞳のように細くなった。テュルクからの訴えと、昨日の事件が後押しして、フランチェスカ側に気持ちが傾いたらしい。森を司る森番たちが一斉にカルロに異を唱えれば、より世論を味方につけることができるかもしれない。
「これ以上、森を焼かれるわけにはいかない。俺たちは俺たちで、できることをするよ。南部のときは、見て見ぬ振りをしてた。でも……もう傍観者じゃいられない」
こちらの期待を知ってか知らずか、ラスティは決意の滲んだ眼差しでカップを置いた。隣に座るエミリアが、一瞬だけ泣きそうに眉を寄せる。
しかし、ラスティはそんな彼女の様子には気づかず、「いっぱい話したら喉乾いちゃった」と紅茶を継ぎ足しながら笑った。
「そういえば、北へ行くって言ってたよね。地図持ってるの?」
小首を傾げたラスティに、エミリアが地図を差し出す。彼は貴重品を扱うように丁寧に地図を広げ、さっと視線を走らせると、目を丸くして感嘆の声を上げた。
「これは凄いね。手製とは思えない。随分と詳細な……ここまで仕上げるのは大変だったろう。あんたたちが作ったの?」
「いえ、フランチェスカに立ち寄ったときに、行商人からもらったんです。ラスティさんにもお会いしたようですよ」
「え? 俺に?」
あのシルヴィオがわざわざ親切な森番だと地図に書き込むぐらいなのだから、よっぽど良くしてもらったのだろう。本人は全く気づいていないようだが。
「長く伸ばした赤い髪と、黒い目の三十後半ぐらいの男性です。覚えてませんか?」
「ああ、そういえば、地震の直後に一人会ったような。なんてったかね。シ……シル……」
「シルヴィ」
「ああ、そうそう。何考えてるのか良くわかんない兄さんだったけど、腕は確かそうだったねぇ。なんか、お仕えしている先の馬鹿息子が家出しちゃって、様子を見に行くって言ってたよ。無事に会えたのかねぇ」
無事に会えた上に、昨日まで一緒だった。しかし、そんなこと言えるはずもないので、曖昧に微笑んでおく。ラスティは一通り地図に目を通していたが、考え込むように顎に手をやると、ふむと声を漏らした。
「この最短ルートも悪くないけど、途中で沢があるから、奥さんを連れていくならちょっと不安だね。昨日の雨で増水してる可能性が高い。森番だけが知ってる抜け道を教えてあげるよ。そこを使えば、もっと安全に早く抜けれるはずだよ」
「えっ、いいんですか? あまり知られてはいけないのでは?」
「いいよいいよ。いくら地図があったって、あの雨の中で迷わずここに辿り着けたのは、森の精霊様のご加護があったからさ。ちょっと手助けするぐらい、バチは当たんないよ」
微笑むラスティの背後から、後光が差しているように見える。心の中でテュルクとシルヴィオに感謝しながら、丸っこい字で追記された地図を受け取り、サミュエルたちは小屋を後にした。
これで、サミュエルが保護者たちにボコボコにされる未来は確定しましたね。




