31話
「親父、話って何だよ」
月明かりだけが差し込む薄暗い書斎の中で、ロドリゴは椅子に座って窓の外を見つめていた。深夜に近い時間帯である。窓の外に広がっているのは暗い木の影だけだ。
「エミリアは眠ったか?」
「え? うん。疲れたんだろうな。ご飯を食べたらすぐに寝ちゃったよ。何か用だった? 明日からはシルヴィオの特訓が始まるし、ゆっくり寝かせてあげたいんだけど……」
「開戦は防げない」
一瞬、ロドリゴが何を言ったのかわからなかった。だが、ゆっくりとこちらを振り返ったその顔は、出鱈目を言っている様子ではなかった。
「どういうことだよ!」
「お前たちも言ってただろ。偽装の証拠だよ。あれがカルロの手元にある限り、たとえ自治を返還すると言ったところで無意味だ。中立派を反戦派に転ばせても、その後に王領を襲わせれば、またひっくり返る。むしろ油断させるための策略だと思われて、講和の可能性すら潰されちまう」
とても信じられない言葉に、サミュエルの喉からうめき声が漏れた。
「まさか……何のために? 南部が納得しないってことか? あくまでもフランチェスカを蹂躙したいって?」
「いや、今の南部の領主たちはカルロが任命したやつらだ。いくら領民たちが不満を漏らしても、抑え込むのは容易だろう。それをしないってことは、別の理由があるんだ」
「別の理由……?」
「悪役の汚名を着せたまま、エミリアを殺すためだ。未来で講和に乗ったのは目的が達成できたからだろう。お前を暗殺者に選んだのも、反戦派の俺を抑え込むためだ。あいつにとって、任務の成否はどっちでもよかった。お前にはエミリアを殺せないとわかってたのかもしれん」
「それこそなんでだよ! エミリアとカルロには直接の関わりはないだろ! そこまで憎まれる理由なんて……」
「エンリコ兄の子供だからだ」
言っている意味がわからない。言葉もなく狼狽えるサミュエルに、ロドリゴは、ふう、とため息をついた。
「俺とソフィア、そしてエンリコ兄とベアトリーチェにはもう二人親友がいた。前国王であるアデルとその妻のカロリーナだ。ソフィアはカロリーナの元侍女。エンリコ兄はアデルと歳の近い親戚。俺はアヴァンティーノの後継ぎとして、ガキの頃からアデルとつるんでた」
「前国王も? じゃあ、カルロは……」
「もう一人の親友の忘れ形見ってことになるな」
自嘲気味に笑うロドリゴに、サミュエルはただ目を丸くすることしかできなかった。やたら気安く接しているなとは感じていたが、ロドリゴの気性と、アヴァンティーノの権力あってのものだと思っていた。
「お前は今のカルロしか知らねぇだろうが、あいつは元々、利口で真面目な子供だった。変わっちまったのは、親を毒殺してからだ」
「は……?」
頭が真っ白になって、間抜けな声しか出ない。先王夫妻はカルロの成人式の日に流行り病で倒れ、そのまま亡くなったはずではなかったのか。
「信じられねぇだろうな。俺だって、未だに本当だと思いたくねぇよ。でもな、これがその証拠だ」
そう言って、ロドリゴは机の引き出しから両手に収まるぐらいの小さな包みを取り出し、その太い指で慎重に包みを解いた。
中から出てきたのは、錆の浮いた小箱だ。蓋を開けると、王家の紋章が刺繍されたハンカチと、同じく王家の紋章が刻まれた、元は小瓶だと思われる瑠璃色のガラス片が数個、そして赤黒い染みの浮いた封筒が入っていた。
そのどれもが、長い時を経ているのだと一目見てわかるほど古びている。
「この小瓶の中に入っていたのはな、レギリスだよ。先々代の国王が生涯をかけて廃絶した、人殺しの秘薬だ」
「えっ……」
レギリスは使用する分量によって人を陶酔状態にしたり、廃人にしたり、あるいは死に至らせたりする汎用性の高い薬で、毒薬とはいうが、実質的には麻薬に近い。
花の蜜のような甘い香りがすることが特徴で、その中毒性と致死性の高さから王国内で犠牲者が続出し、国が乱れる原因ともなっていた。
サミュエルがエミリアに飲ませたものは、それに似せた劣化版だ。先々代が製造法も含めて廃絶したため、正しい作り方を知るものはどこにもいない。
「万が一、製造法が復活したときに備え、最後の一つは王城の保管庫に残されていた。そこに立ち入れるのは直系の王族だけだ。つまり、これを持ち出せたのはカルロしかいない」
――ただの噂じゃなかったのか。
呆然とするサミュエルの目をまっすぐに見据え、淡々と話すロドリゴは、まるで全ての感情を削ぎ落としたかのように冷たい空気をまとっていた。
「カルロの成人式の日、俺はアデルの命でファウスティナにいた。流行り病でアデルたちが倒れたって知らせを聞いて戻ったときには、すでに何もかも終わった後だったよ。葬式すら参列できなかった。感染の疑いが晴れるまで、他の貴族たちと共に隔離されていたソフィアも同様だ」
二人は親友の最後の姿を見ることも叶わず、突然の別れを飲み込まざるを得なかったのだ。それが謀だったとは、あまりにも無慈悲な真実だった。
「だが、流行り病だという割に、王城にいた人間に誰一人うつってないのはおかしい。だから俺は、その日から行方不明になっていた侍医を死に物狂いで探したんだ」
「……見つけたのか」
「うちには優秀な密偵がいるからな。だが、俺が身柄を確保したときには、抱えた秘密の重さに耐えかねて精神も体も壊れちまってて、かろうじて生きてたって様子だった」
そして、ロドリゴは侍医から事の真相を聞いた。ようやく秘密を打ち明けて懺悔を果たした侍医は、眠るように息を引き取ったという。
「このハンカチはカロリーナのものだ。端っこに名前が刺繍されてるだろ? 死因を偽装させられたときに、これで咄嗟に破片を包んで隠したらしい。手紙は告発文だ」
「なんで毒なんて……。先王夫妻の子供はカルロだけだろ? 黙ってたってそのまま王位に就けるじゃないか。わざわざ殺す必要なんてあったのか?」
「……アデルとカロリーナは、カルロに対していつも一歩引いた態度で接してた。もちろん事情があってのことだ。でも、ガキにそんなことわかるはずもねぇ。あいつは親の気を引きたくて、いつも一生懸命だった。寝る間を惜しんで勉強し、剣の特訓だって一度も気を抜かなかった。それこそ、体を壊しちまうほどにな」
そこで言葉を切り、ロドリゴは眉間を擦った。
「領土を統一したいと言い出したのもその頃だ。アウグスト一世が成し得なかったことを実現すれば、振り向いてもらえると思ったんだろうな。アデルがきつく叱ってからは、口にしなくなっていたが……」
「……諦めていなかったっていうのか? だから殺したって? おかしいだろ! そんなことして何になるんだよ! 見てくれる人は、もういないのに!」
「……それは俺にもわからん。エミリアの話を聞くまで、俺は領土の統一なんてとっくに諦めているもんだと思ってた。アデルたちに毒を盛ったのも、追いつめられて愛情が憎しみにすり替わっちまった結果だと……」
ギリ、と奥歯を噛み締める音がした。机の上で組んだ両手が、微かに震えている。
「だから、俺はこの秘密を闇に葬ることに決めたんだ。公になれば貴族の統率が乱れ、国全体が戦火に巻き込まれる恐れがあった。内乱に乗じて近隣諸国も攻めてくるだろう。アデルたちが代々守ってきた平和を、みすみす壊したくなかった。……だが、それは間違いだった」
ロドリゴの赤い瞳の奥には、食堂で見せたときと同じく、いいようもなく激しい炎が揺らめいていた。彼はカルロに、そして自分自身に、燃えたぎるような怒りを向けているのだ。
「ファウスティナには後継ぎがいないから、いずれ王領になる。圧力をかければ、もっと早まるかもしれねぇ。だが、フランチェスカはそうはいかない。親を殺してまで目指した理想だ。立ち塞がるエンリコ兄が憎かったんだろう。自治を奪うだけじゃ飽き足らなかったんだ。エミリアを守るには、オズワルドを確保して偽装の証拠を取り戻し、カルロを王位から引き摺り下ろす必要がある」
「でも……どうやって? オズワルドは地震の後から姿が見えないんだろ? カルロのことだから、もう消されている可能性も……」
「オズワルドは王城の地下にいる」
自分の目が丸くなるのがわかった。シルヴィオが調べたのだろうか。しかし、いくらなんでも早すぎる。まだ半日ぐらいしか経っていないのだ。もはや人間業ではない。
サミュエルの心の声が聞こえたのか、ロドリゴは苦笑すると「違うよ」と言った。
「お前が戻ってこないと知ってすぐ、俺は主戦派の連中を片っ端から調べることにした。小麦の出荷の件がある以上、正攻法じゃ無理だからな。後ろ暗いところを掴んで揺すれば、反戦派に転ばせられるかもしれねぇと思ったんだ。その過程で捕えられていることがわかった」
そう言って、ロドリゴは引き出しから取り出した羊皮紙の束をばさっと机の上に置いた。シルヴィオの部下たちが書いた報告書だろう。ロドリゴとシルヴィオが視察に行っていた間、コツコツ調べたに違いない。
「読んでみろ」
オズワルドについて書かれた報告書を手渡される。金で子爵位を買った新興貴族の、あまりパッとしない経歴の次男坊。通常なら見向きもされない存在だ。
だが、十年前に突如カルロに取り立てられ、王領になった後のサリカの土地を与えられていた。
「エミリアの話を聞いて、ようやくオズワルドが取り立てられた理由がわかったよ。あいつはおそらく、アデルの毒殺にも関わっている。証拠を持っていると知りながら、侍医を見逃したのはあいつだろう。当時はまだ十代のガキだ。後始末を任されたものの、とても殺せなかったんだな」
「……次男坊は爵位を継げない。土地を得るために、カルロについたってことか?」
怒りに震える手で羊皮紙を握りしめるサミュエルに、ロドリゴは頷いた。
「主戦派のほとんどが新興貴族だ。手に入れた南部の土地も、こいつらのものになってる。オズワルドを拘束したのは、開戦が確定するまで万に一つも主戦派を寝返らせないためだろう。主戦派の筆頭はオズワルドの父親だからな」
「……ふざけるなよ!」
こらえきれないほどの怒りが身体中を駆け巡っていく。
カルロが抱える理不尽な憎しみ。新興貴族たちの自分勝手な欲望。そんなものによってたかってフランチェスカは蹂躙されようとしていたのだ。
この企みのせいで数え切れないほどの犠牲が出た。その上、まだ悲劇の種を蒔こうとするのか。
「もう時間がない。未来の俺がみすみす開戦させたのは、懐柔が間に合わなかったからだ。俺が視察に出ている間、主戦派は活発に動いてた。中立派の意見もだいぶ偏っちまってる。早けりゃ来週中に決議が取られるはずだ」
おそらく、視察もロドリゴの動きを封じるためだろう。サミュエルを連れ戻すためにシルヴィオを向かわせたことに、気づいていたのかもしれない。
「十年前、できなかったことをやるときがきたんだ。お前たちが王城でカルロを引きつけている隙に、俺がオズワルドを奪還する」
ロドリゴはクーデターを起こすつもりなのだ。覚悟を決めた父親の顔に、サミュエルの喉がゴクリと鳴った。
「その後はどうするんだよ? 王都には、もういられないだろ? カルロと戦うにしても、俺たちだけじゃ……」
「詳しいことは、また後で話す。ラルゴたちとも詳細をつめなきゃなんねぇからな。貴族たちを集めるには、俺が名付け親だと明かすのが一番手っ取り早い。だが、その時点でカルロは俺を完全に敵だと見做すだろう。だから、拘束されねぇように罠を張る」
「このこと、エミリアには……」
「言うな。自分より他人を優先する子だ。この国全体を巻き込むとわかったら、あの子はたぶん……自分を犠牲にすることを選ぶだろ」
その通りだった。フランチェスカを攻める理由が、自分を悪役として殺したいためなのだとわかれば、エミリアは自ら命を投げ出して、未来と同じ道を進もうとするだろう。
――それだけはさせない。
たとえこの国が乱れようとも、エミリアを失う結末だけは二度と迎えたくなかった。
「貴族たちに造反をうながすには、カルロの正当性を奪い、アヴァンティーノが反逆の狼煙をあげたと見せつける必要がある。だから、この証拠を使って、お前がカルロの罪を暴け。チャンスは一度きりだ」
サミュエルの緊張が伝わったのか、ロドリゴは椅子から立ち上がり、その大きな手のひらでサミュエルの強張った両肩をぎゅっと掴んだ。
「大丈夫だ、お前ならやれる。お前がエミリアを守るんだ、サミュエル」
――これでいいんだろう、親父。
心の中で呟いて、サミュエルはカルロを鋭く見据えた。
周りの騒ぎをものともせず、カルロはじっとサミュエルを見つめていたが、ふ、と口元を緩めると、こちらに一歩近づいてきた。
ロドリゴに騙されたと悟ったときの動揺が嘘のように、彼の青い瞳には何の感情も宿ってはいない。まるで深い井戸の底をのぞいているような気持ちになる。
「そんな偽装までして、あくまでも私を貶めたいようだな。では、私からも一つ問おうじゃないか。公爵、いつまでもサミュエルの背中に隠れてないで、前に出てこい」
顎をしゃくり、カルロはその暗い目をエミリアに向けた。
――言うことを聞く必要はない。
肩越しに振り返り、そう目で制止したが、彼女は小さく首を横に振ってサミュエルの隣に並んだ。
「何でしょうか、陛下。これ以上、私にどんなご質問が?」
「公爵は自分に罪はないと言ったな? だが、男だと偽ることは罪じゃないのか?」
どくん、と心臓が跳ねた。カルロの声が、不自然なほど大きく聞こえるような気がする。
隣に立つエミリアに目を向けると、彼女は目を大きく見開いてカルロを凝視していた。
何処で気づいたんだ。今にも表に吹き出しそうな焦りを必死に隠しながら、サミュエルはカルロに視線を戻すしかなかった。
ロドリゴがエミリアに「カルロが憎くないのか?」と聞いたのは、彼女を試していたからです。
エミリアの覚悟を知り、ロドリゴの中で大切なものの順位がサミュエル>エミリア>カルロになりました。
ソフィアは殿堂入りです。




