27話
【登場人物まとめ】
ロドリゴ
サミュエルの養父。近衛騎士団長。馬鹿息子が帰ってきて何よりも嬉しい。
王都にきてから一週間が経ち、エミリアは恐ろしいほどのスピードでアヴァンティーノに馴染んだ。使用人や傭兵たちは、もはや誰も彼女のことを遠巻きにしたりはせず、むしろサミュエルよりも慕っている様子を見せた。
苦労しているだけあってエミリアは目端が効く性格で、使用人や傭兵たちが抱える問題にいち早く気づき、その対処も的確だった。
主人とはいえロドリゴは大雑把な性格だったし、日々雑多な業務を抱えるエルンストやソフィアも全ての人間に目を届かせることは難しい。
エミリアはそこからこぼれ落ちたものを上手い具合に拾い上げ、日々の人間関係を円滑にする歯車のような存在になっていた。後を継いで間もないとはいえ、さすがに一領主である。経験値の蓄積度合いが違う。
「エミリア様、ありがとうございます。おかげで仕事が上手くまわりそうです!」
「俺も、相談に乗ってもらった相手と上手くいきました。ありがとうございます、お嬢!」
次々に満面の笑顔を向けて去っていく使用人や傭兵たちに手を振って応えるエミリアに、サミュエルは憮然とした表情を浮かべていた。
エミリアが頼りにされて嬉しい反面、二人の時間を取られたようで面白くない。
そんなことを言っている状況ではないことは十分承知の上だが、それでもふとした瞬間に嫉妬の気持ちが湧き上がってくるのは、もうどうしようもなかった。
「……大人気ですね」
「日々の仕事の延長上のようなものだ。大したことはしていない。一週間も居させてもらってるんだ。これくらい役に立たないとな」
あくまでも平静なエミリアが、傍に置いた紅茶を優雅に飲みながら、膝に乗せた本のページをめくった。アヴァンティーノの書庫に保管されていたもので、羊皮紙から作られたものではなく、ケルティーナの製紙技術によって、植物から作られた貴重品だ。
たいして読書を嗜む人間もいないのに誰が買い集めてくるのか、書庫にはまだあまり市場に出まわっていない紙の本が山ほどある。
最新技術を駆使して作られたそれらはエミリアの興奮を最大限に引き出したようで、ソフィアから好きに読んでいいと言われたときのはしゃぎっぷりは、夏祭りで水をかけ合ったとき以上だった。
ソフィアはまるで自分の娘のようにエミリアを可愛がった。というか、自分の娘にしたいという思いがかなり透けていた。
サミュエルとの出会いや、ここにきた理由を根掘り葉掘り聞いた結果、孫を見せてくれる可能性があるのはもうこの子しかいないと踏んだらしい。
外に出られないエミリアのために王都で評判のドレスを何着も買ってきたり、お菓子を買ってきたり、とにかく何くれとなく世話を焼き、さらには毎日おやつどきになると必ずお茶の席を設け、エミリアと嫌がるサミュエルをそこに呼んだ。
これを機に二人の関係を確固たるものにしたいという企みなのだろう。
ソフィアとエミリアが楽しそうに会話しているのは何よりだったが、隠したいと思っていたあれやこれやで盛り上がるのはやめてほしい。昨日など、サミュエルの子供時代の失態を面白おかしく暴露されるという辱めを受けた。
「疲れてはいませんか? 連日、母がお節介を焼いて気の休まるときもないでしょう」
「まさか。領主を継いでこのかた、こんなに穏やかに過ごせた日々はないよ。ソフィア様には本当に感謝してる。まるで本当の……母親みたいだって思ってる」
そう言ってエミリアは恥ずかしそうに顔を伏せた。彼女には実の母親との思い出がない。その分、ソフィアのお節介を新鮮なものに感じているのかもしれない。
――嫁姑関係も問題なさそうだな。
つい不埒なことを考えてしまい、サミュエルは心の中で己の頬を張り飛ばした。
「そういうサミュエルはどうなんだ? 久しぶりの実家だろう? もっとみんなと過ごさなくて良いのか?」
「いや、あれだけこき使われてるんですよ? もう十分です」
エミリアがみんなの相手で忙しくしている間、サミュエルはサミュエルでここぞとばかりに荷運びや薪割りといった力仕事を与えられ、それなりに忙しい日々を送っていた。
そのため、慌ただしい午前中を終えてソフィアとのお茶会が始まるまでの間、中庭の片隅でゆっくりと過ごすのが二人の日課になっていた。
「むさ苦しい男どもの顔を眺めるより、俺はあなたのそばにいたい。本ばかり読んでないで、もうちょっと俺に構ってくださいよ」
「あ、こらっ、駄目だって。落としちゃうだろ」
抱き寄せようとしたところを拒否され、ムッと頬を膨らませる。我ながら子供じみているとは思うが、実家の安心感がそうさせていることは否めなかった。
エミリアは「仕方ないな」と苦笑し、身を寄せるサミュエルの黒髪を優しい手つきで撫でてくれた。
「もうすぐ読み終わるから、ちょっと待っててくれ。今いいところなんだ」
「そんなに面白いんですか?」
「読んでみるか?」
手渡された本はサミュエルの手にもずっしりと重かった。分厚い上に装丁も立派で、ケルティーナの幾何学模様があしらわれている。
内容はランベルト王国建国時の逸話で、アウグスト一世がまだロムルスと名乗っていた頃の人柄について触れられていた。
ロムルスは有能だが冷徹な性格で、他人の気持ちを汲むことに疎く、よく周囲と軋轢を生んでいた。
それ故に各地の部族との小競り合いが続き、ようやくまとめた国が再度分裂する危機もあったという。しかし、ある日雷に打たれ、人が変わったように穏やかで慈しみ深い性格に変わったとある。
挿絵には、剣を持って厳しい表情を浮かべるロムルスと、別人のように穏やかな顔をしたロムルスが背中合わせに描かれていて、人格の変化をわかりやすく表していた。
「歴史書において、雷は暗殺の隠喩だ。この絵も、双子の入れ替わりを示唆しているように取れないか? 厳しい顔をした方は右手に剣を持っているのに、穏やかな顔をした方は左手に持っているし」
――確かにそうだけど、さすがに考えすぎじゃないか?
その気持ちが伝わったのか、エミリアはサミュエルから本を取り戻すと、寂しそうに微笑んだ。
「ただのこじつけかもしれないが、ずっと考えていたんだ。フランチェスカを流れるアローラとフローラが双子川と呼ばれて神格化されているように、元々双子は禁忌じゃなかった。この交代劇があったから、双子を忌避するようになったんじゃないかと」
エミリアはそれ以上何も言わなかったが、他に何か言い難いことがあるのだとわかった。
静かな中庭にページを捲る音だけが響く。このまま放っておくと、二度と話そうとはしないだろう。
サミュエルは本に目を落とす横顔をじっと見つめ、無言のプレッシャーを与えることにした。
「……何だよ」
「他に考えていることがあるでしょう。隠し事はなしですよ」
「そ、そんなものはない」
「エミリア?」
頬を両手で挟み、顔をこちらに向けさせる。エミリアは抵抗の姿勢を見せたが、サミュエルが引かないことを悟ると、小さなため息をつき、観念したように口を開いた。
「マッテオが言うには、双子が生まれた家系にはまた双子が生まれる確率が高いんだそうだ。最初の王が双子だったのなら、その血を引く私が双子であってもおかしくはない。もしかしたら、私が将来産む子供も双子なのかも……」
本を持つ手が微かに震えていた。なんということはない。エミリアはサミュエルとの未来を真剣に考えてくれていたのだ。
その事実に胸が熱くなり、サミュエルは彼女を力いっぱいに抱きしめた。
弾みで本が地面に落ち、腕の中から非難の声が上がる。しかし、サミュエルは全く意に介さなかった。
「もし双子が生まれたとしても、俺は全力で愛情を注ぎます。何人たりとも、俺たちの子は傷つけさせない。世間の目なんて、吹き飛ばしてやりますよ」
「……お前との子供を産むとは一言も言っていないが」
「今さらですか? ノリクであんなに誘惑しておいて」
「ゆ、誘惑って言うな。あれは……未来の私に嫉妬して、つい……」
嫉妬。口から飛び出た単語に、サミュエルは思わず体を離した。
エミリアは顔を真っ赤にして、こちらを睨むように見上げている。への字に引き結ばれた口元を見るに、とても冗談を言っているようには見えない。
「未来の話をするたび、自分がどんな顔をしていると思う? 私の知らない優しい顔をして、ずっと遠くを見つめてるんだぞ。まるで私を誰かに重ねてるみたいに。そんなの、ずるいだろ。今、そばにいるのは私なのに、死んだ後もお前の心を縛りつけるなんて」
拗ねたように口を尖らせるエミリアに、サミュエルは笑みを漏らした。
――可愛い嫉妬だなぁ。
こんな嫉妬なら大歓迎だ。自分で自分に嫉妬するなんて、器用ですらある。
「俺だって、あなたが過去のフランチェスカを語るたびに嫉妬してますよ。あなたのそばにはいつも誰かがいる。俺の入る隙間なんかないんじゃないかって思うときがあります」
「馬鹿なことを。そんなわけないだろ。隣にはお前がいてくれないと困る」
「でしたら、馬鹿はお互い様ですね。俺が見てるのはいつだってあなたなんですから。……ねぇ、エミリア」
膨れた頬を潰すように両手で包む。顔を寄せると、その意図を察したエミリアが小さく「駄目」と呟いた。
「お前の実家だぞ。こんなとこで……」
「いいでしょう? これ以上、お預けはなしですよ」
「お嬢! サミュエル様!」
まだ何かを言い募ろうとする唇を塞ごうとしたその瞬間、中庭に続く扉が音を立てて開き、髪の毛を乱したロッティが、息せき切った様子で飛び込んできた。
ぱっと飛び退くようにエミリアが離れる。いいところだったのに邪魔をされて、サミュエルは小さく舌打ちをした。
「ロッティ、お前……」
「あ、お邪魔でした? いや、それよりロドリゴ様、帰ってきましたよ!」
エミリアとサミュエルは同時に立ち上がった。お互い顔を見合わせ、小さく頷き合う。本と飲みかけの紅茶の後始末をロッティに任せ、二人は玄関ホールに急いだ。
開け放たれた扉から差し込む光で、ホール内は明るかった。
ロドリゴを出迎える使用人や傭兵たちの輪ができ、わいわいと賑やかな声が上がっている。その傍らにはシルヴィオの姿もあった。
一向に顔を見ないと思ったら、どうやらロドリゴについて行っていたようだ。屋敷中の誰もそれを把握していないのが彼らしい。
その中心で、土埃で薄汚れたロドリゴがソフィアの体を軽々と抱き上げていた。家出したときよりも少し伸びた黒髪を後ろに撫で付け、屈託なく笑う姿は記憶の中の彼とさほど変わらなかった。
貫頭衣から伸びる腕は、まもなく齢五十を迎えようとは思えないぐらい太い。いつも死神のようだと評される鋭い赤い目も、今ばかりは愛妻の元に帰りついた喜びで細められていた。
――相変わらず仲良いな。
少々当てられつつも、エミリアの手を引いてそっと輪に近づいていく。家出してから初めての再会だ。まだ少し躊躇いが残っていた。
「会いたかったぜ、ソフィア。少し痩せたんじゃねぇか?」
「何言ってるのよ、ひと月も離れてないのに。それよりね、あなたに会わせたい人がいるの」
「俺に?」
「びっくりするわよ。ほら、あなたたち。そんなところにいないで、こっちにおいでなさい」
それを合図に、その場にいた全員の視線がサミュエルとエミリアに集中した。場を譲るように人垣が割れ、ロドリゴと真正面で向き合う形になる。
出戻ってきた息子の姿に、ロドリゴの目が大きく見開かれた。しかし、その表情は硬い。
――怒ってるな、あれは。
心の中で覚悟を固める。ロドリゴは唇を一文字に結んだままソフィアをそっと床に下ろすと、サミュエルが動き出すよりも早く、大股で近寄ってきた。
「ほっとけっつったんじゃなかったのか、サミュエル。散々ソフィアに心配かけやがって」
「……黙って出て行った上に、シルヴィオを追い返して悪かった。俺は」
「言いわけはいらねぇ。歯ぁ食いしばれ」
咄嗟に奥歯を噛み締めたと同時に、左頬に重い衝撃が走った。踏ん張ろうと試みたが、とても勢いを殺しきれず、無様に床に倒れる。
揺らぐ視界の先で、唇から流れ落ちた赤い血がぽたりと床に垂れたのが見えた。エミリアの悲鳴が上がり、こちらに駆け寄ってくる気配がする。
「やめて、やめてくれ。サミュエルを殴らないで」
「お嬢ちゃん、野暮な真似はなしだぜ。こんなもんじゃ、俺の気は収まらねぇ。それともあんたが代わるってのかい」
「やめろ、親父。悪いのは俺だっ。彼女に絡むな」
獰猛な目からエミリアをかばうように身を起こすと、ロドリゴはおやっという顔をして、ニヤリと口元を歪めた。
「放蕩息子が一丁前に男になって戻ってきやがった」
急に緩んだ空気に、安堵よりも戸惑いが先に立つ。差し出された手を呆然と見つめていると、苦笑したロドリゴがサミュエルの脇に手を入れ、子供を抱き上げるように床に立たせた。
脳にまで響く痛みで、恥ずかしいと思う余裕はない。ふらつきながらもエミリアを背に隠すと、ロドリゴはいつまでも警戒心を解こうとしない息子に眉を下げた。
「お前、俺が女を殴るような男に見えるってのか? そりゃないだろ。それより、その子紹介してくれよ。お前が連れてくるってことは、うちの嫁だろ? もしかして、すでに孕ませ……」
「私もあなたが挨拶がわりに息子を殴るような男だとは思わなかったわよ。ロドリゴ」
デリカシーの欠片もない言葉を遮り、顔中に怒りを滲ませたソフィアが口を開いた。まるで地を這う様な響きに、ロドリゴの肩がびくっとすくむ。
「いや、その、もし戻ってきたら父親の威厳を保つためにも一発殴っといた方がいいって、ラルゴが……」
「俺に責任をなすりつけねぇでくださいよ。何も血が出るほど殴れとは言ってねぇでしょうよ」
「ロドリゴ?」
「……悪かった。ちょっとやり過ぎちまった」
ちょっとどころではなかったが、それだけ心配をかけていたということなので、甘んじて受けることにした。
「もうっ! あなたって人はいつまでも子供なんだからっ!」
しょげるロドリゴの背中をバシッと叩いたソフィアが、母親みたいな口調で叱った。
「ごめんね、エミリアちゃん。この人馬鹿だから、こんな形でしか寂しさを表現できないのよ」
「いえ、ちょっと驚きましたけど、それだけ息子さんを想ってるってことですから」
「エミリア? 今、エミリアって言ったか?」
エミリア、という名前にロドリゴが反応を示した。しょげていた頭をバッと上げ、穴が空きそうな勢いで凝視する。その視線の強さにエミリアがたじろいでもお構いなしだ。
「あなた、ちょっと目が怖いわよ」
その様子に苦笑したソフィアが嗜める。サミュエルもよくテオに同じことを言われるので、内心どきりとする。
「初めまして、ロドリゴ卿。あなたに名前を授けていただきました、エミリアです。エミリオの双子の妹です。こんな形のご挨拶になりまして、誠に申し訳ありません」
空気を読んだエミリアが、すっと前に出てカーテシーをした。相変わらず綺麗な姿勢だ。
その所作にベアトリーチェの面影を感じ取ったのか、ロドリゴが衝撃を受けたようによろめいた。
「双子……? 双子だって? ああ、だから……」
そこで言葉を切り、ロドリゴは目を潤ませた。色々な思い出が頭の中を駆け巡っているのだろう。
今にも泣きそうに眉を寄せ、体の横でぎゅっと拳を握りしめる姿は、あふれそうな感情を必死に抑えようとしているように見えた。
「立派に……本当に立派になったな。兄貴のエミリオは? 元気にしてるのか?」
「エミリオ様は春に亡くなったよ。その後はエミリアが引き継いでる」
肉親が亡くなった事実をエミリアの口から言わせたくなかった。淡々と、それでいて簡潔に話すサミュエルの言葉に全てを察したのか、ロドリゴが息を飲む。
「親父に頼みたいことがあるんだ。急に戻ってきて厚かましいことを言ってるとわかってる。でも、どうか俺たちに力を貸してほしい」
居住まいを正し、ロドリゴに向かって頭を下げる。隣でエミリアもサミュエルに倣って頭を下げた。
ロドリゴはそんなサミュエルたちをじっと見つめていたが、やがてふうっと大きく息をつき、ただ一言「わかった」と低い声で言った。
「でも、その前に腹ごしらえをさせてくれ。ソフィアのミートパイが食べたくて馬を飛ばして帰ってきたんだぜ、俺は」
「あらやだ、ロドリゴったら。すぐ作ってあげるから、その間にお風呂に入ってらっしゃいな。あなた、とても汚いわよ。ねぇ、エミリアちゃん。作るの手伝ってくれる?」
「あ、はいっ。お手伝いします!」
エミリアの手を取ったソフィアが厨房へと消えていく。その後ろ姿を見つめているサミュエルの頭に、大きな手のひらが降ってきた。そのまま無遠慮にわしゃわしゃとかき混ぜられ、くらくらと目眩がする。
「何すんだよ。痛いだろ」
「よく戻ってきたな、サミュエル。もう二度と会えねぇかと思ったよ。無事で良かった」
優しげな瞳で見つめられ、思わず涙腺が緩みそうになる。普段は子供みたいに振る舞うのに、こういう時だけ大人の顔をするのがずるい。
何も言えずに俯くサミュエルの髪を、ロドリゴはもう一度くしゃくしゃとかき混ぜると、「心配すんな」と明るい口調で言った。
「全部俺に任せとけ。一人息子と親友の娘の頼みだ。なんとかしてやるよ」
そう言って笑うロドリゴは、幼い頃に見たままと変わらぬ、頼もしい父親の姿だった。
実家に戻った安心感で、サミュエルは少し子供っぽくなっています。
エミリアが他人の様子によく気づくのは、領主だからというのもありますが、地下に隠れ住んでいた経験が大きいです。
他人の助力がなければ生きられない環境のため、相手の顔色を伺う癖がついているんですね。




