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21話

 ハッと目が覚めた。心臓が破裂しそうなほど脈打っている。額から流れる汗を感じながら、サミュエルは周囲を見渡した。


 少し煤けた天井に、クリーム色の壁紙。壁にかかっているのは騎士団の制服で、そのすぐ近くには孤児院の子供たちからもらった絵がいくつか貼り付けられている。机の上にのっている羊の置物も相変わらずだ。


 いつもと変わり映えしない自室の光景に、少し肩の力が抜ける。


 ――夢だったのか?


 今も鼻に鉄錆の匂いが漂っているような気がする。むせかえるような甘い香り。濃厚な死の匂い。震える手を布団の下から抜き出して眼前にかざしてみるが、何も付着してはいない。


 しかし、徐々に力が失せていくエミリアの体も、冷たい手のひらも、こうしてありありと思い出すことができる。夢と言い捨てるには、あまりにも生々しい感触だった。


 かざした手のひらをぎゅっと握りしめる。


 ――守れなかった。


 そばにいながら、エミリアを失ってしまったのだ。どうしてもっと早く気づかなかったのか。彼女は随分前から命を投げ出すことを決断していたのだ。フランチェスカと、他でもないサミュエルのために。


 喉の奥から嗚咽が漏れそうになってぐっとこらえる。自分に泣く資格なんてどこにもない。サミュエルがぐずぐずと悩んでいなかったら、もっと違った結末になっていただろう。


 ふう、と息をつき、かかげていた手をベッドに下ろす。すると、手のひらに柔らかな感触が伝わってきた。少し触れただけでも、胸を焦がすような心地のするそれ。自分の体がびくりとすくむのがわかった。


 恐る恐る視線を足下に向ける。そこには、燃えるような赤毛を布団の上に広げ、安らかに眠るエミリアの姿があった。


「エミ……リア……?」


 声が震えていた。体を起こし、壊れ物を扱うようにそうっと手を伸ばす。癖のある柔らかな髪、小さな肩、そして布を握りしめている拳へ。温かい。息をしている。彼女は確かに生きているのだ。


「エミリア!」


 弾かれるように、眠るエミリアを抱きしめた。その衝撃でエミリアが眼を覚ます。彼女は「え?」と戸惑いの声を漏らすと、美しい(はしばみ)色の瞳をサミュエルに向けた。


「生きてる……ああ、生きてる! エミリア! エミリアっ!」

「ちょっ……どうした? ニコ? 怖い夢でも見たのか?」


 背中を撫でてくれる手の感触に涙があふれそうになる。腕の中で身じろぎするエミリアが愛しくて、サミュエルはぎゅうっと力を込めた。もう二度と離したくはなかった。


「夢……そう、怖い夢を見ました。あなたを失う夢を。俺は……」


 甘えるようにエミリアの肩口に顔を寄せたとき、ふと違和感に気づいた。エミリアの胸元にペンダントが下がっていない。


 ――服の下にあるのか?


 しかしどれだけ指を滑らせても、鎖の感触も、宝石の形も感じ取れない。体を離して自分の胸元を確かめる。肌身離さずに下げていたはずのペンダントは、そこになかった。


「ペンダントがない……」

「ペンダント? お前、そんなもの下げてたっけ?」

「何言って……交換したじゃないですか」

「交換? 何を? ペンダントを?」


 頭を疑問符だらけにしたエミリアが首を傾げた。嘘など言ってなさそうな表情だ。


 ――どこからどこまでが夢だったんだ?


 ペンダントを交換していないということは、秋祭りも、王国軍との籠城戦も、何もかも妄想の産物だったのか。


「大丈夫か? まだ熱があるんじゃないのか?」


 黙り込むサミュエルに眉を寄せて、身を乗り出したエミリアが額に手のひらを当てた。近づいた顔に既視感を覚える。下がった眉、頬にあたる吐息、それに、髪からのぞく少し赤くなった耳。確かにこの目で一度見た。


 ちらりと視線をベッドの脇の小棚に走らせる。そこには小さな銀色の鈴と、なみなみと水をたたえた桶が置かれていた。


 部屋の外から差し込むのは朝焼けの光だ。なぜと問わなくても、エミリアが自室にいる理由も、サミュエルがベッドにいる理由も全て知っている。


 額に触れる手のひらを握り込み、エミリアを見下ろすように顔を寄せる。まるで口付けをするような仕草に、彼女の顔が赤くなった。


 ――夢じゃない。


 そう確信した瞬間、サミュエルの目の前に秋祭りの光景が広がった。日が暮れるまでダンスをした後、人気のない建物の影でお互いのペンダントを交換した。あのとき、彼女はこう言っていたのだ。


 一度だけ過去の過ちをやり直しさせてくれる、と。


「今って……夏祭りの二日後ですか?」

「えっ、そうだけど……」


 やっぱりと呟くサミュエルに、エミリアは不安げな表情を浮かべた。頭がおかしくなったと思っているのかもしれない。同じ立場になったら、サミュエルも似た反応を示すだろう。


「なあ、もしかして記憶が混乱してるのか? 熱が高かったから? ちょっと待ってろ。マッテオを呼んでくる」

「待ってください」


 椅子から立ちあがろうとするエミリアの細い腕をとる。何度、こうやって彼女を引き止めただろう。どれだけ追い縋っても、彼女は前だけを向いて行ってしまった。最後にはサミュエルの手の届かないところまで。


 だが、もう終わりだ。まだ間に合う。そのために自分は今ここにいるのだから。


「落ち着いて、俺の話を聞いてください」


 エミリアは何か言いたそうに唇を開いたが、サミュエルの瞳を見ると、黙って椅子に座り直した。話を聞く姿勢を見せたエミリアにほっと息をつき、彼女の細い腕から手を放す。


 もう迷わなかった。戦に勝つのも、女を口説くのも先手必勝。そう嘯くテオの声が耳をよぎった。


「俺は、未来から戻ってきたんです。今が八月二日だとすると、二ヶ月半ほど遡ってきたことになります」

「え……?」

「未来の秋祭りで、あなたは俺にペンダントをくれました。赤い石のついた、ベアトリーチェ様の形見です。それにまつわる言い伝えも教えてくれました。一度だけやり直しをさせてくれる力がある、ケルティーナの守り石だと」


 サミュエルの言葉に、エミリアはびくりと体を震わせた。大きく見開かれた瞳は今にもこぼれ落ちそうだ。震える唇が「どうして」と音を漏らす。すぐに信じられないのも仕方がなかった。サミュエルだって夢を見ているような心地なのだから。


 瞳はサミュエルを見つめたまま、エミリアが胸元を探る。しかし、そこには何も下げられてはいない。それを悟った彼女は、焦った様子で視線を胸元に落とした。


「あれ? ない。何でだ? ずっと身につけてたのに……」

「言ったでしょう。あなたが俺にくれたんです。俺はその力で、今ここにいるんですよ」

「そんな、でも」

「あなたは俺の本当の名前を知っている。俺が誰の息子かということも、なぜフランチェスカにやってきたのかも。そうでしょう?」


 狼狽えるエミリアの両肩を包み、子供に言い聞かせるように優しく問いかける。彼女は何も言わなかったが、今にも泣きそうに歪められた顔が何よりも雄弁に語っていた。


「未来のあなたはフランチェスカを守り抜き、そして、俺のために死んだ。あんなことはもうたくさんだ。俺はあなたを二度と失いたくはない!」


 ぐっと強く肩を引き寄せ、色を失った唇に己の唇を重ね合わせる。指で触れたときとは違う感触に、サミュエルは感情が抑えられなくなった。角度を変え、何度も何度も口付ける。


 ――ずっとこうしたかった。


 未来では成就しなかった願いを、今、サミュエルは叶えることができたのだ。


 我を忘れたように唇を貪るサミュエルの胸元を、エミリアが握りしめる感触がした。息ができなくて苦しいのかもしれない。目尻に涙が浮かんでいる。


 さすがにこれ以上の無体を働くことはできず、ゆっくりと唇を離して彼女の広い額に己の額を寄せた。


 エミリアは顔を真っ赤にして、サミュエルを睨んでいる。だが、その瞳の奥に怒りの色はない。一目惚れだったと未来の彼女は言っていた。今の彼女も、そう思ってくれているだろうか。


「なっ……何するんだっ……お前、お前……!」

「サミュエルと呼んでください。俺もあなたの名を呼びます。エミリア」


 わなわなと震えていたエミリアは、その一言で何も言えなくなった。下唇を噛み、諦めたように眼を閉じる。そして、一つ大きく深呼吸をすると、涙で濡れた瞳を瞬かせて、穏やかに微笑んだ。


「お前の言うことを信じるよ、サミュエル」

「ありがとうございます、エミリア。俺の大切なお嬢様」


 ちゅ、と額に口付けを落として微笑み返すと、エミリアはぷいとそっぽを向いてしまった。少々、調子に乗ってやりすぎたかもしれない。


「嫌でした? 怒ってます?」

「……嫌じゃ……ああ、もう! 顔! 近いんだよ!」


 むぎゅ、と頬を押し除けられて笑みが漏れる。こういう他愛もないじゃれあいが何よりも嬉しいのだと、エミリアは気づいているだろうか。


 エミリアは目の前でニヤニヤと笑うサミュエルを若干引き気味に眺めていたが、赤くなった顔を冷ますように手のひらであおぐと、椅子をベッドのそばギリギリまで引き寄せて姿勢を正した。


「サミュエルが戻ってきたのも、私が死んだのも十分わかったが、未来で一体何があったんだ。順を追って話してくれ」


 甘いムードが一転して仕事モードになってしまった。少しがっかりしながら、夏祭りの後からの出来事を順を追って話していく。


 しかし、未来のエミリアとの思い出を目の前の彼女に押し付けるのは何か違うような気がしたので、それはざっくりと掻い摘んで話し、カルロがフランチェスカを潰しにきた件は詳細に話した。


 最後まで聞き終えたエミリアは、ふうっと大きく息をついて天井を仰ぐように体を傾けた。何を思っているのだろう。無性に嫌な予感がして、サミュエルはベッドに置かれたエミリアの手を握りしめ、睨むように彼女の顔を見上げた。


「籠城戦が上手くいくなら、このままでもいいと思ってるんじゃないでしょうね」

「……未来の私は随分お前と距離をつめていたようだな」

「絶っ対に駄目ですからね。あなたは俺と秋を越えるんだ。一人で先に行こうとするなんて許さない。この手を放すぐらいなら俺は……」

「お、お前、ちょっと怖いよ……」


 エミリアが獣を見るような目でサミュエルを見た。さぞかし不穏な目つきをしていたのだろう。彼女の死がトラウマになっているのは十二分に自覚している。ここでエミリアが同じ道を選ぼうとするつもりなら、縛り上げてでも遠くに逃亡する構えだった。


「約束してください。あなたは死なない。何がどうなろうとも、生き延びることを優先するって」

「わ、わかったわかった! 約束する! だから放してくれ!」


 にじり寄ると、恐怖の色を張り付かせたエミリアが身を庇うように首をすくめて腕を上げた。握りしめた手のひらからじわりと汗が滲むのを感じる。


 ここまで怯えさせるつもりはなかったのだが、効果はてきめんだった。これで少なくとも自分を犠牲にしようとする選択肢は最後にまわるだろう。後はサミュエルが見張っていればいい。


 名残惜しさを感じながらも、エミリアの手を放す。彼女は自分の手を抱きしめるように胸元に当て「強引なやつめ……」と小さく唸った。


「サミュエル、お前、そんなに胸の内を曝け出す男だったか?」

「もう後悔はしたくないので。自分の気持ちに正直でいようかと」


 これでも我慢してるんですよ、とぼそっと呟くと、エミリアは喉をグッとつまらせた。そして、誤魔化すように咳払いを一つする。


「そ、それにしても、どうして石が発動したんだろうな。私がどれだけ願っても過去に戻れなかったのに」

「それは……」


 そのときの状況を思い出す。瞼の裏に浮かぶのは一面の赤だ。生温かい血が、サミュエルの全身に染み渡っていく感覚を、忘れることはないだろう。


 辛い記憶に顔をしかめると、エミリアが微かに眉を寄せた。事情を察したのかもしれない。しかし、彼女の口からは言わせたくなかった。


「……あなたの血を浴びたからかと」


 振り絞るように伝えると、エミリアは小さく「すまない」と言った。


「未来の私は、お前にとんだ重荷を背負わせたようだな」


 黙って首を横に振る。エミリアが背負ったものに比べたら、サミュエルの胸の疼きなど可愛いものだった。


 この日に戻ってきたのはきっと、エミリアの恋心を自覚した日だからだ。サミュエルの未来を運命づけた日。ここからまた始まるのだ。フランチェスカのため、エミリアと生きる未来のため、守り石が与えてくれた機会を無駄にしてはいけない。


「未来を変えましょう、エミリア。俺はもうあなたを離したくない。ずっと先の未来まで、あなたと生きていきたいんだ」


 まっすぐに目を見つめると、エミリアは逡巡するように目を伏せた。本当にこの手をとっていいのかと悩んでいるのだろう。未来を変えるということは、籠城戦の結果にも影響を及ぼすかもしれないからだ。


 胸の中に不安が広がっていく。生き延びることを約束はしてくれたが、そんなものは簡単に反故にできる。フランチェスカと天秤にかけられたら、明らかにこちらに分が悪い。


「わかった。サミュエル、私もお前と生きていきたい」


 しかし、エミリアは覚悟を決めたように頷くと、ゆっくりと目を開いた。まっすぐにサミュエルの目を見つめ返すその瞳は、間違いなく、サミュエルが惹かれた強い眼差しだった。

第二部スタートです。

よろしくお願いいたします。

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