18話
早朝の空気は冷たく冴え渡っていた。息を吐くと、羊毛のような白い塊が空に上っていく。
昨日ほど激しくはないが、雨はまだ降り続いている。
対岸の陣地は不気味なほど静かだ。今日は休養に充てるつもりなのか、東西南北の門を守る見張り以外に兵士の姿は見えない。将官から一兵卒に至るまで、テントの中に閉じこもっているようだ。
薄暗くはあるが、昨日よりは内部の様子がよくわかる。根本を折られたカカシの向こう側に、近衛騎士団のテントが見えた。その中の、一番王家のテントに近いところに、アヴァンティーノの旗印が掲げられている。
――親父はあの中にいるのか。
闇夜の中で見た養父の顔を思い浮かべる。彼はサミュエルの姿を見て驚いていた。逃げずにまだフランチェスカにいるとは思わなかったのだろう。
不甲斐ない息子に腹を立てているかと思いきや、その瞳の中に怒りの色はなく、むしろ再会の喜びに輝いていた。少なくとも見限られたわけではなさそうだ。
「どうだ、テオ。いけそうか?」
「うーん、雨も降ってますからねぇ。エミリオ様の魔法で風を止められるとはいえ、ちょっと心許ないです。もっと強い弓ないですか?」
サミュエルの隣では、テオとエミリアが弓の最終確認を行なっていた。その周りには布と棒で作った即席の雨除けを掲げる弓兵隊の姿もある。
昨夜、サミュエルは食堂に戻ってきたテオにロドリゴと遭遇したことを打ち明け、「親父と連絡を取りたい」と続けた。
戦争を防ぐのは間に合わなかったが、止める手立てがないわけではない。
何しろ戦争は金がかかる。ただでさえフランチェスカのような辺境に遠征する場合は、一日の野営代だけでも馬鹿にならなかった。当然ながら、その負担は貴族たちに重くのしかかってくる。戦費の提供は貴族の義務だからだ。
戦争が長引けば長引くほど、巻き上げられる金も増えていく。初日の健闘と、立ち塞がる川の攻略の難しさに、フランチェスカを落とすのは容易ではないとわかったはずだ。
それ故にロドリゴが講和を主張すれば、自分の財布を空にしたくない周りの貴族たちも、尻馬に乗ってくる可能性は高かった。
さらにフランチェスカにとって幸運なことは、もうすぐ来年に向けての種まきの時期が始まるということだった。
職業軍人の集まりである王国軍や近衛騎士団はともかく、地方領主の私兵の騎士団には農民を兼ねるものも多い。それまでにカタをつけたいと思っていることは想像に難くなかった。
――フランチェスカが悪役でないとわかれば、親父もきっと動いてくれるはずだ。
それに、ここにはサミュエルがいる。息子の命を守るためにも、早期決着を望んでいるはずだった。
「父上が狩りに使っていたものなら……倍……いや、もっと強いかも」
「いいですね!」
テオの言葉を合図に、そばに控えていたティトゥスが弓を取りに走って行った。いつ間に以心伝心の仲になったのだろう。テオは緊張した様子もなく、矢を射る方向を見定めている。
ロドリゴに貴族の懐柔を要請するための手段として考えたのが、手紙をくくりつけた矢で旗印を射抜くというものだった。他のものに手紙を回収される恐れもあるが、ことロドリゴに限っては成功する可能性が高いと踏んでいた。
エミリアが朝晩決まった時間に入浴するのと同じく、ロドリゴにはどんなに天候が悪い日でも必ず寒風摩擦をするという習慣があったからだ。
それは野営地にいても変わらず、彼は毎朝目覚めると布切れを持ち、呆れるサミュエルの視線も尻目に上半身裸でテントの外に出て行った。常々変な癖だなと思っていたのだが、何が幸いするのかわからないものだ。
エミリアには昨日の時点で作戦について話をしていた。
もちろん暗殺者として派遣されたことも、ロドリゴの息子であるという事実も伏せ、豪農だった父と共にアヴァンティーノ邸に滞在した折にロドリゴと親しくなったという嘘をついた。
平時ならともかく、この状況で内部の分裂を煽る真似は避けたかったのだ。
我ながら苦しい言いわけだと思ったが、エミリアは深く聞かずに了承してくれた。万に一つでも可能性があるなら、それに賭けたいのだろう。
「隊長! 持ってきました!」
息を切らして戻ってきたティトゥスが弓を渡す。成人男性の身丈以上もある長弓はいつものクロスボウと比べ、見るものを圧倒する異様さを醸し出していた。
太く強く張りつめた弦は、細身のテオにはとても歯がたたないように見える。
周りの弓兵隊も不安げな様子でざわめいている。しかし、テオのそばに佇むティトゥスだけは疑念のないまっすぐな瞳で彼を見つめていた。
「……引けるか?」
幾度となくテオの腕前を見ているとはいえ、さすがに心配になったのだろう。弓の調子を確認しているテオに、エミリアが恐る恐る声をかける。
だが、テオはティトゥスから矢文を一本受け取ると、いつもの調子でニッと微笑んだ。
「引いてみせます」
テオの意を汲んだ弓兵隊が雨除けを外す。その時、アヴァンティーノのテントの中がほのかに明るくなった。ロドリゴが目覚めたのだ。
「エミリオ様、お願いします」
頷いたエミリアが目を閉じて両手を前に翳す。風に舞っていた木の葉が力を失ったように城壁の上に落ち、あたりの空気がピンと張りつめた。
あまりの静寂に耳が痛い。
空を眺めて風の具合を測っていたテオが、精神を集中するために大きく深呼吸をし、矢をつがえた。
まっすぐに旗印を見つめる彼の目は、獲物を狙う狩人の目だった。
ビクともしないように思われた弓が、徐々に、だが確実に引き絞られていく。額には汗が浮き、服の上からでも両腕の筋肉が盛り上がるのがわかった。
そして弓が極限にまで引かれた瞬間、ついにロドリゴがテントから顔を出した。その機を見逃さず、テオが矢を放つ。
全ては一瞬だった。
鋭い音を立てて空気を切り裂いた矢は、アヴァンティーノの旗印を見事に射抜いた。
「やった!」
固唾を飲んで見守っていた弓兵隊から歓声が上がる。誰もが目の前の光景に目を輝かせていた。
テオはその中心で額の汗を拭い、「あー、疲れた」と気の抜けた声を上げた。
「よし、上手くいったな!」
ロドリゴが矢を回収したのを見届け、エミリアが撤収の指示を出した。後はロドリゴが貴族たちをまとめてくれるのを待つしかない。
城壁を下りるエミリアの後に続きながら、サミュエルは祈るような気持ちで、「頼むぞ、親父」と呟いた。
その祈りが届いたのか、その日、攻撃は再開しなかった。
西側の中庭で、サミュエルは夜空に浮かぶ月を見上げていた。周りに人の気配はない。松明を持った見張りが数人、城壁の上にいるのみである。
一日中降ったり止んだりを繰り返していた雨は、夜になり完全に止んだ。
対岸の陣地の動きに変化はなく、相変わらず静まり返っている。戦闘準備を進めている様子もない。それ故にロドリゴの説得がうまくいったのか判断がつかなかった。
「眠れないのか?」
ストールを羽織ったエミリアが、冷たい空気に身を震わせながらサミュエルに歩み寄ってきた。さっきまで眠っていたせいで、髪の毛がくしゃくしゃになっている。
彼女はサミュエルの返答を待たずにそのまま隣に並ぶと、ただ黙って月を見上げた。その横顔は微かに青ざめている。
作戦が成功した後、城内に戻った途端にエミリアは倒れた。そのとき初めてわかったことだが、彼女の魔法は使う度に著しく体力を消耗するという代物だった。
今まであまり使わなかったのは、それが発覚して周りから使用を止められるのを危惧したからだろう。
――本当に無茶するよな、この人は。
心配する周囲をよそに、彼女は気丈にも立ちあがろうとしたが、ミゲルやマリアンナの懇願に負け、大人しく私室で休んでいたのだ。
歩けるまでに回復したのは喜ばしいことだが、サミュエルはもうこれ以上エミリアに無理をしてほしくなかった。フランチェスカを守るという一念の下、自分の身を顧りみようとしない彼女に恐怖さえ感じていた。
「体はもう大丈夫なんですか」
「まあな。ミゲルに二度と魔法は使うなと言われてしまったよ」
「それはそうでしょう。相当取り乱してましたよ。彼らしくもなく」
「またニコに隠してもらえばよかったな。城内に水車小屋がないのが悔やまれるよ」
エミリアは月から視線を外し、こちらを見て微笑んだ。その表情に胸がどきりと音を立てる。月の光の中に儚く消えてしまいそうに見えたからだ。
「ロドリコ卿は上手くやってくれるだろうか」
「相手の心を掴むのが上手な人です。きっとやってくれると信じています」
ロドリゴはその厳つい面相に反して、気さくで誰の懐にでも躊躇せずに飛び込んでいく子供のような一面があり、色々な謀略が渦巻く王城の中でも不思議と人に好かれた。
最初は警戒心を剥き出しにしていた相手も、ロドリゴと接しているうちに、いつの間にか無二の親友のように心を曝け出してしまうのだ。
サミュエルもそんなロドリゴに絆された一人である。ロドリゴがあの気性でなかったら、とっくの昔にアヴァンティーノを去っていただろう。それは彼の元に集った傭兵団たちも同様だった。
ロドリゴに拾われてよかったと今なら素直に言える。もし、もう一度会えたなら、黙って家を飛び出してしまったことを謝りたかった。
「ロドリゴ卿を信用しているんだな」
まだ息子だとは言えない。言葉につまったが、なんとか言葉を絞り出す。
「少し滞在していたぐらいですが、彼は……まるで本当の息子のように優しくしてくれました」
「私も信じるよ。ロドリコ卿はきっとフランチェスカを見捨てない」
エミリアの瞳に嘘はなく、心から言っているのだということがわかった。嘘に塗れた自分を信じてくれたことに胸が熱くなる。だからこそ、彼女を欺いているのはこの上なく辛かった。
「それにしても、ニコが来てからあっという間だったな。まだ半年ぐらいだとは思えない」
サミュエルも同じ気持ちだった。王都を出たときはこんなことになるとは予想もしていなかった。すぐに離れられるだろうと思っていたのに、気づけば夏を越え、秋が過ぎ、そしてエミリアに恋をしていた。
フランチェスカの移り変わりと共に、サミュエルの人生は流れていた。
「フランチェスカに来たことを後悔していないか?」
サミュエルは黙って首を横に振った。後悔などしていない。まだここで見ていないものがたくさんある。
一面の雪に覆われる城の姿も、色とりどりの花が咲き乱れる春の庭も、成長していくコリンたちの姿も、その全てをこの瞳に映してみたい。そしてその隣には、こうしてエミリアがいて欲しい。
朝がきても、夜がきても、彼女の存在を感じていたい。それが今のサミュエルの望みだった。
「この籠城戦を乗り越えたら、あなたに話したいことがあります」
それは進軍の知らせを聞く前、エミリアに話そうとしていたことだった。自分が何者なのか、なぜここにきたのか、全てを話すつもりだった。
怖くないと言えば嘘になる。
しかし、もう自分を偽りたくはなかった。彼女の唇で本当の名前を呼んで欲しかった。
まっすぐに瞳を見つめるサミュエルに、エミリアはただ一言、「わかった」と答えた。
「月、綺麗ですね」
「うん、綺麗だ」
肩を並べて夜空を見上げる。小麦色をした三日月が、優しく二人を照らしていた。
テオの引いた弓は当初三人引きにしようと思ってたんですが、絶対無理だろうなぁと思ってやめました。
エンリコは偉丈夫だったので、腕力はそれなりに強かったです。




