16話
「うわ……気持ちわる。なんか蟻みたいですね」
「お前のその緊張感のなさ、なんとかならないのか」
サミュエルの苦言に、テオが舌を出す。城壁の向こうでは、地平線を埋め尽くすように、王国軍の兵士たちが整然と列を成していた。戦闘はまだ始まっていない。敵を攻める前に、まず強固な陣地を築き上げるのが王国軍の伝統だった。
マルコから進軍の知らせを聞いてから三日、フランチェスカは王国軍を迎え撃つ準備を完了していた。
放牧していた家畜を城壁内に入れ、女子供を城に集め、武器を持つ男は全て臨時の騎士となり、城壁に上った。そして、続々と集結した領民を受け入れた後で跳ね橋を上げ、対岸に渡るための橋は全て焼いた。
夏には豊かな麦穂を揺らしていた畑も、今はぽつぽつと立つカカシを残すだけである。守ってきた畑が踏み荒らされる光景を、畑の守り神たちは一体どんな気持ちで見つめているのだろうか。血のような夕焼けに照らされて、彼らの顔はもの悲しく見えた。
「予想通り、全軍をこちら側に配置しましたね。騎兵が多少いますが、北はかなり手薄です」
「たとえ城壁を突破しても、川を渡れなければ意味がないからな。今は秋で水量も多い。橋をかけるのも難しいだろう」
ロレンツォの言葉に、エミリアが頷く。
フランチェスカは川に挟まれた中洲状の土地という恵まれた立地のおかげで、坑道を掘るには時間がかかる。そして東には隣国ミケーレとの国境があるため、不要な衝突を避けるためにも王国軍は近寄ることができない。
残された選択肢は舟で渡るか新たに橋をかけるかしかないが、北側は流れが急すぎて現実的ではない。それ故、攻めてくるなら西から南にかけてだと睨んでいた。
「サミュエル様、あれ……」
周りに気づかれないよう、テオが耳元で囁く。
煉瓦色の瞳の動く先を追うと、秋の風を受けてたなびくアヴァンティーノの旗印があった。ロドリゴが戦場にいるのだ。その近くには王家の旗印もある。国王自らお出ましとはなかなか剛気なことだ。
「エミリオ様、カルロが来ています」
サミュエルの言葉に周りの騎士たちがざわめいた。覚悟はしていたが、実際に王自ら兵を率いていると知り、動揺が大きいのだろう。
「自らの手で潰したいということだな。望むところだ」
「これからどうなさいますか?」
「予定通り、夜を待つ。このためにドナテロに時間稼ぎをしてもらったんだ」
クノーブルの町長の奮闘のおかげで、準備に十分な時間が取れた。後は事前に決めた作戦通り進めていくだけだ。
雲の隙間から差し込む太陽の光で、エミリアの胸元が淡く光った。それに応えるように、サミュエルの胸元も淡く光る。まるで示し合わせたみたいに、お互い、ペンダントは隠さなかった。
「……それより、本当に残って良かったのか。ニコとテオはまだフランチェスカにきて日が浅い。無理に付き合うことはないんだぞ」
「言ったでしょう。俺たちもフランチェスカの一員です。最後まで戦いますよ」
「そうか……だが、できるだけ私から離れるなよ。怪我を負ったらすぐに治してやるからな」
眼下を厳しく見据え、エミリアが踵を返す。その弾みで鎖帷子が音を立てた。
いつも空間を彩る赤毛も、今は銀色に光る兜の中に押し込まれている。その下にある表情はとても厳しい。この三日間、サミュエルはエミリアの微笑みを一度たりとも目にしていなかった。
「大丈夫ですかね。後を継いだといっても、戦場に出るのは初めてでしょ? まだ十八歳のお嬢さんに人を殺せるんですかね?」
こそっと耳打ちするテオに渋面を向ける。世の中には言っていいことと悪いことがあるということを、この従者はちっともわかっていない。
「お前、初めて人を殺したのはいくつのときだ?」
「え? 八つですけど」
「それみろ。殺そうと思えば八つのガキだって殺せるんだよ。覚悟を決めたあの人にできないわけないだろ」
そうですけど、と唇を尖らせるテオの頭をはたく。こちらだって、できることなら人など殺させたくはない。しかし、今は戦時中なのだ。綺麗事ばかりでは何も守れなくなってしまう。
「何のために俺たちがいると思ってるんだ? あの人の手をできるだけ汚させないように頑張るのが、騎士の役目だろうが」
「あなたの口からそんな言葉が出るなんて……。ロドリゴ様に聞かせてやりたい」
感心したように言うテオにため息をつく。ロドリゴは対岸の向こう側だ。聞かせられる状態になるときまでお互い生きている保証はない。
徐々に暮れていく空を見上げる。本格的な戦闘が始まるのは明日になるだろう。こんな状況だというのに、夕日に染まる鱗雲はため息が出そうなほど美しくて、サミュエルは目の前の光景を焼き付けるように、紫色の瞳を瞬かせた。
対岸に夥しいほどの松明が揺らめいている。それに対して、こちらを照らすのは微かな月明かりだけだ。
訓練場を抜けた先にある、普段は閉ざされた城門をくぐった川のほとりで、サミュエルたちは息を潜めていた。闇に紛れるために黒いフードとマントに身を包んだ姿は、まるで死神のように見えるだろう。
「案の定、向こう側に見張りはいないな。余程ミケーレに気を遣っているとみえる。こちらには好都合だが」
対岸の様子を伺っていたエミリアが合図を送る。これからサミュエルたちは目の前に横たわる黒い川を渡るのだ。
このために、夜が更けたと同時に泳ぎの達者なものが川を泳いで渡り、国境に限りなく近い森の中に、こちらと対岸を渡すロープと網を張っていた。小さな筏に乗ってロープをつたいながら川を渡るのは、昔からフランチェスカに伝わる技法の一つだった。
船や橋がないと川を渡れないのは王国軍の話である。川と共に生きてきたフランチェスカっ子において、闇の中の渡河はお手のものだった。
「よし、行くぞ。ニコは私とこい。ルキウスはダニオ、ジーノはオリヴィエとだ」
差し伸ばされた手を握り、筏に乗る。ダニオ、ジーノ、オリヴィエはルキウスの部下だ。剣と渡河の腕前を買われて夜襲隊に抜擢された精鋭たちである。テオたち弓兵隊は留守番だ。これから行われる仕事に、飛び道具は役に立たない。
小さな筏は気を緩めた途端にひっくり返りそうになったが、エミリアの巧みなバランス感覚のおかげで無事に対岸に辿り着けた。
「よく平気な顔して渡れますね」
「川は遊び場だったからな。エミリオと入れ替わった後は必ず渡ってた」
案外、エミリアはお転婆だったようだ。さぞかし、ミゲルたちは苦労しただろう。
全員が渡り終えたのを確認し、エミリアは筏を引き上げ、茂みに隠した。王国軍が国境付近の森に近づくとは思わなかったが、万が一に備えてだ。もし乗れなければ戻りは泳ぎである。
北側では、ロレンツォ率いる別動隊が同じように川を渡り、カタリーナの森の入り口に潜伏して襲撃のときに備えている。
「きたぞ、合図だ」
空を見上げると、明かりの魔法をかけられたマチルダが、流れ星のように夜空を舞っていた。鷹は夜でもある程度は見えるらしい。飛行だけなら問題ないだろうという判断のもと、ロレンツォに託していたのだ。
戦時中だからか、エミリアの魔法は思ったよりも周囲にすんなり受け入れられた。使えるものはなんでも使おうという事なのかもしれない。
闇に紛れて森を抜け、向こうに見える王国軍の陣地に近づく。ここからは声を出すのは厳禁だ。事前に決めていたハンドサインのみで会話を行う。
陣地の構築を終えた王国軍は、明日に備えた総攻撃に向けて静まり返っていた。見上げるほど高い防御柵の中には、兵士たちのテントがずらりと並べられているはずだ。
しかし、サミュエルたちが目指すのは陣地の中ではない。その周辺に等間隔に設置された攻城兵器だった。
籠城戦において一番の脅威は投石機である。陸続きの地形であれば攻城塔も威力を発揮するのだろうが、フランチェスカでは橋をかけるか、川を埋めた後でしか出番はない。
王国軍も渡れないならフランチェスカも渡れないと舐めてかかっているのか、不用心にも攻城兵器の周りに見張りはいなかった。
ただ、防御壁の東西南北には門が構えられていおり、夜警についた兵士が油断なくあたりを見渡していた。見張りの目を逸らさない限り、行動には移せそうもない。
エミリアが身を伏せろと合図を出す。予定ではそろそろロレンツォたちが動き始めるはずだ。じっと息を殺していると、北の方から地響きが近づいてきた。
「奇襲だ!」
「場所はどこだ!」
「北です! 北の方角から夥しい数の松明が押し寄せてきます!」
陣地の中に怒号が響き渡った。門に集まっていた松明の群れが北の方へ動いていく。ロレンツォたちが作戦を実行した証だった。今頃はツノに松明を括りつけた牛たちが暴れ回っているはずだ。
対岸に渡る橋は全て焼いたが、一つだけ例外があった。それは西側で双子川が合流した地点より少し下流の、北から南へ渡るための橋だ。
フランチェスカ市内へ渡る橋ではないから、王国軍の監視もさほど厳しくはない。そこを牛に一斉に渡らせたのだ。追い立て役は狩人のヴィオラと、彼女の相棒のリュカとクラウスが担った。
エミリアがハンドサインを送り、その意を汲んだ夜襲隊が、腰に下げた松明を手に取り彼女に近づく。そして魔法で火を灯され、それぞれ近くの投石機に散らばって行った。
ここからは時間との勝負だ。王国軍がこちらに気づくまでの間、一つでも多くの投石機を燃やさなくてはならない。焦る気持ちを抑えながら、夜の闇を縫うように走る。そうして火を放たれた投石機が、夜空を焦がすように燃え上がった。
「っ!」
刹那、視界の端に一人の男が立っている事に気づいた。鎖帷子の上に貫頭衣を着込み、銀色の兜を被っている。暗がりにいるため、紋章はよく見えないが、明らかにフランチェスカの人間ではない。用心深いやつがこちらを見回りにきたのだ。
こちらに気づいた男が剣を抜いた。男に一番近いのはエミリアだ。
考える間もなく咄嗟に体が動いた。松明を投げ捨て、剣を抜きながら全速力で駆け寄り、声もなく男に襲い掛かる。
こちらの速攻にも怯まず、男は的確に剣を打ち返してきた。何度切りかかっても読まれてしまう。恐ろしいほど強い。その上、体格に恵まれているからか、一撃一撃が重かった。何とか弾き返してはいるが、徐々に防戦一方になっていく。
男が剣を振りかぶる。焦る気持ちが視界を狭めたせいか、避けようと身を翻したところで、地面に転がる石に気づかずに足元が滑った。
咄嗟に体勢を立て直そうとするが、間に合わない。
――やられる!
死を覚悟したとき、目の前を稲光が走った。エミリアが魔法を放ったのだ。直撃を受けた男が、うめき声を上げてその場に膝をつく。流れ弾が当たったらしく、近くで投石機が燃えた。その明かりに照らされて、男の顔があらわになる。
兜からのぞく黒い髪に、赤い目。ロドリゴだった。
「こっちだニコ! 退くぞ!」
差し出されたエミリアの手をとり、森に向かって駆ける。さっき、確かに目が合った。サミュエルの姿を見たロドリゴの目は、驚愕に見開かれていた。
籠城戦の始まりです。
周辺国との小競り合いや茶番(南部の戦争)はあったものの、長らく平和に浸かっていたので、王国軍や王都の貴族たちはやや平和ボケしています。
そのあたりは辺境のフランチェスカや、地方領主の方が実践経験は豊富なわけです(野党に襲われることも多いので)




