14話
「フランチェスカに残る」
そう宣言したのは秋祭りを十日も過ぎてからのことだった。なかなかテオと二人きりになる機会が訪れず、タイミングを見計らっているうちに、ずるずると延びてしまったのだ。
「へぇ? 仇討ちはもういいんですか? あれだけ憎んでいたのに?」
「エンリコを憎む気持ちは変わらない。けど、村を焼いたのはエミリアじゃない」
「これから焼くかもしれませんよ? なんたって悪人の娘ですから」
「あの人は悪人じゃないと信じてる」
小麦の出荷を巡って執務室で対峙したとき、エミリアは「今はまだ話せない」と言っていた。きっとあれは嘘ではない。地震を僥倖だと言ったのも、何か理由があるのだ。
「あなたの目が眩んでないと、どうして言えますか? もし騙されていたとしたら?」
「万が一、エンリコと同じ轍を踏みそうになったときは、俺が全力で止める。縛り上げてでも……いや、たとえ手足を切り落としてでも、フランチェスカから引き剥がす」
サミュエルの言葉にテオは一瞬引いた顔をしたが、すぐに居住まいを正すと、瞳の奥に剣呑な光を浮かべた。
「女のために家族を捨てるわけですか。反逆者を出した家名として、アヴァンティーノが後ろ指を指されても構わないと?」
「違う。捨てるのは俺自身だ」
腰に下げた剣をテオに手渡す。
「サミュエルはこの瞬間から死んだ。これを持って王都に戻れ。殺されたと言ったらフランチェスカに報復がくるかもしれないから……そうだな、タチの悪い病にかかったとでも言ってくれ」
「たとえ王都から遠く離れた辺境といえども、サリカ人はそれだけで目立つ。ご自分の容姿の希少さを承知の上で言っていますか?」
「わかってる。さすがに目は潰せないから、髪を剃って、顔は焼く」
「……それでも、家族を捨てることには変わらないじゃないですか。あなたが戻らないと知ったロドリゴ様たちの気持ちはどうなるんです?」
グッと息がつまった。フランチェスカに残ると決めた今でも、家族のことを思うと胸が痛い。
――でも、俺はもう迷わない。
すうっと息を吸う。まっすぐに見据えたテオの煉瓦色の瞳が、すっと細くなった。
「俺の正体をエミリアに話す。その上で、フランチェスカへの不信を払拭する方法を探る。十年前の経緯も改めて調べるつもりだ。今すぐには無理でも、必ず、戦争の意思がないと証明してみせる。そうしたら――」
――家族と、また会える。
続けようとした言葉は飲み込んだ。あまりにも都合が良すぎると思ったからだ。
二人の間に沈黙が降り、唇を噛み締めたテオが顔を伏せた。さぞかし罵られるだろうと覚悟したが、テオはくつくつと肩を揺らすと、腹を抱えて大声で笑い出した。
「ああ、もう駄目だ。いつになく真面目な顔してるんですもん。威勢のいいこと言っちゃってまぁ。本気になった途端にこれなんだからなぁ」
呆然としているサミュエルを尻目に、テオは目尻に浮いた涙を拭うと、渡した剣を胸にぶつけるように突き返してきた。
「あなたの心意気は十分わかりましたけどね。これは受け取れません」
「何言ってんだ。俺とここに残るってことは、お前も……」
「俺を馬鹿にするなよ。俺はあんたの従者だ。そばを離れるときは死ぬときなんだよ」
サミュエルの言葉を遮り、テオが唸るように言う。この口調になっているときは、本気で怒っている証拠だ。サミュエルは自分の気持ちに囚われるあまり、テオの従者としての矜持を傷つけてしまったことにようやく気づいた。
「それにね、甘いんですよあなたは。どうして素直にロドリゴ様を頼らないんですか? フランチェスカを守りたいのなら、アヴァンティーノに後ろ盾になってもらうのが一番早いでしょうに」
テオの言いたいことはよくわかっている。
ランベルト王国はカルロを頂点とした君主制だが、一枚岩ではない。元々この国は多種多様な部族が、それぞれの土地を治める少数民族の集まりに過ぎなかった。それを根気よく吸収してまとめあげたのが初代アウグスト一世だったのだ。
やがて部族の長は貴族となり、王の下につくことになったが、その影響力は根強く残っている。中でもアヴァンティーノは建国からの有力貴族として、他の貴族を上回るほどの権力を持っていた。
その長であるロドリゴがフランチェスカを擁護する姿勢をとれば、他の貴族たちも慎重にならざるを得なくなる。カルロとてそう易々と手出しはできなくなるだろう。
しかし、それはカルロの意思に真っ向から反するということだ。任務を揉み消すのとはわけが違う。いくらなんでも、自分の我儘のために、ロドリゴの立場を悪くするようなことはさせたくなかった。
それに、シルヴィオを追い返したことをテオには言っていない。あんな酷い言葉を吐いた自分のことを、まだロドリゴたちが愛してくれているとは思えなかった。
「黙っていてすまん。実は……」
恐る恐るシルヴィオとの一件を告白すると、テオは呆れたようにため息をついた。
「そんな思春期が炸裂したような言葉を本気で受け取るわけがないでしょう。それで愛情が冷めるぐらいなら、勝手に家出した馬鹿息子をわざわざ連れ戻しに来たりしませんよ」
耳が痛い。さすがシルヴィオの弟子だ。説教の内容もよく似ている。
「とにかく、次にシルヴィオが来たら、事情を話してロドリゴ様に協力を仰ぎましょう。それでも殺せというのなら、そんな暴君はこちらから願い下げです。みんなにはこっちに移ってきてもらいましょう」
「な、何言ってんだ。先祖代々守ってきた土地と地位なんだぞ。俺一人のためなんかに捨てられるわけないだろ」
「捨てますよ、あなたのためなら。元より貴族の地位にしがみついているような方たちじゃない。わかってないのはあなただけです」
言葉が出なかった。テオの目はどこまでもまっすぐにサミュエルを見つめていて、本心から言っているのだとわかった。俯くサミュエルに、テオは相変わらずの呑気な口調で続ける。
「どうせ死ぬのなら、そのときに改めて死んでください。息子を亡くした悲しみのあまり、王都にいられなくなって、亡骸が残るフランチェスカに移住するって線でいくので。だから、それまではツルッパゲにするのはやめてくださいよ。ソフィア様が悲しみます」
「なんだよ、それ……。そんな茶番みたいな……」
「人生ってね、茶番の連続でできてるんですよ。一つ賢くなりましたね」
あふれそうになる涙をこらえるサミュエルに、テオが笑みを向ける。
「まあ、こうなるとは思ってましたよ。自分の瞳の色と同じ色のペンダントまで渡した女を、諦められるわけがないですもんね。その上、母親の形見までちゃっかりもらってるし」
「な、なんでお前が知ってるんだよっ」
驚きで涙が吹っ飛び、顔が赤くなった。余計な詮索を避けるために、エミリアはペンダントを他人の目には触れさせないように服の下に身につけていた。もちろんサミュエルもだ。
「マリアンナさんに聞いたんですよ。安心してください。知ってるのは俺だけです」
入れ替わりの秘密を守るため、エミリアの着替えは全てマリアンナが担当している。同性として、そして幼い頃から面倒を見てもらっている間柄として、さすがのエミリアもガードが緩んだとみえる。
「よかったですね、受け取って貰えて。あなたの込めた想いに気づいているかどうかまではわかりませんけど」
「余計なお世話だよ」
ぶすっと不貞腐れるサミュエルに、テオがまた目を細めて笑った。
「そうと決まったらエミリア様に話してきてください。今後のことを決めないといけないんですから」
狩りの日の夜では呼び捨てにしていたくせに、いつの間にか様つけになっている。それを指摘すると、「だって、あなたの奥さんになるかもしれない人でしょ」とさらりと言い放った。
「戦に勝つのも、女を口説くのも、先手必勝ですよ。覚悟決めてください、サミュエル様」
テオに送り出されたサミュエルは、エミリアの執務室の前で固まっていた。己を奮い立たせるため、服の下から取り出したペンダントに触れ、大きく息をつく。
「よし……」
意を決してノックし、エミリアの許可を得て入室する。執務室の中にはエミリアだけがいた。いつも通り、羊皮紙に羽ペンを走らせている。
「どうした、ニコ。今日は遅かったな」
「いえ、ちょっとお話ししたいことがありまして」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。羽ペンを置いたエミリアがこちらを見た。その途端に、心臓がドクリと音を立てて跳ねる。
――しっかりしろ、俺。
サミュエルはゴクリと唾を飲み込むと、後ろ手に組んだ両手を強く握りしめた。
「実は……」
「エミリオ様!」
口を開いたと同時に、音を立てて扉が開いた。血相を変えたミゲルとマッテオが執務室に飛び込んでくる。その背後にはひどく薄汚れた男が一人、疲れ切った様子で佇んでいた。
エミリアに目を向けると、彼女は血の気の引いた顔で「ついに……」と呟いていた。
「クノーブルの西側に現れました! 今日の午後には到達します!」
ミゲルの言葉にエミリアは両手で顔を覆い、小さなうめき声を漏らした後、すぐに勢いよく立ち上がった。その顔はさっきの様子とは打って変わった鬼気迫る表情で、さしものサミュエルも驚きを隠せなかった。
「わかった! ミゲルはジュリオに通達、マッテオは騎士たちと連携を取れ! まだ時間はある。所定の通りに進めるんだ。いいな!」
エミリアの指示のもと、ミゲルとマッテオが部屋を飛び出していく。後に残されたサミュエルは状況を眺めていることしかできない。エミリアはそんなサミュエルには目もくれず、入り口で立ちすくんだままだった男に近づいて行った。
「マルコ、よく頑張ってくれた。おかげで十分な時間が取れる。他の町や村はどうなっている?」
「所定の通りです。私と共にクノーブルを出たものたちが通達に回っています。老人たちは残るでしょうが、それ以外の領民は全てここに集まってくるはずです。この二日が勝負です」
「ドナテロなら必ずやってくれる。安心して休め。部屋を用意するから」
「いえ、私も働きます。そのために来たのですから」
そう言って、マルコと呼ばれた男はふらつきながらも部屋を出て行った。重苦しい沈黙が部屋の中に降りる。エミリアは男が消えた先を微動だにせず見つめていた。
「あの、お嬢様……」
「お嬢様と呼ぶな」
強い拒絶の口調に、傷つくよりも戸惑いが先に立った。ゆっくりとエミリアが振り返る。その目は今までに見たどんな目よりも、激しい炎を宿しているように見えた。
「私はエミリオだ! エミリアじゃない! このフランチェスカを守る最後の領主だ!」
血を吐くような叫びがサミュエルの耳を打った。興奮のあまり、肩で息をしたエミリアが部屋を出て行こうとする。
このまま行かせるわけにはいかない。その細い腕を掴み、必死に追い縋った。
「いったい何が起きているんですか? 俺だってフランチェスカの一員です。教えてください!」
エミリアは手を振り解こうともがいたが、男の力にかなうわけもない。激しく睨みつけられたが、怯みはしなかった。怒りの中に深い悲しみが宿っていることに気づいたからだ。
彼女はやがて諦めたように動きを止め、荒い息を落ち着かせるためにふうっと息を吐くと、こちらに向き直った。相変わらずその目は強い。エミリアのこんな表情を見るのは初めてだった。
「王国軍がくる。フランチェスカを潰すために」
音を立てて血の気が引くのがわかった。カルロがついに兵を挙げたのだ。復興で手が回らないから見逃されていたのではない。サミュエルはすでに王都から見限られていたのだ。
――間に合わなかったのか?
ロドリゴやソフィアをはじめ、アヴァンティーノ邸の家族たちの顔が頭の中を駆け巡っていく。彼らもサミュエルを見限ったのだろうか。
「……あなたは、こうなることがわかっていたのですか?」
「そうだよ。だから小麦の出荷を止めたんだ。これ以上、無駄な犠牲を産まないために!」
話が飛躍し過ぎていてよくわからない。サミュエルの視線に気づいたエミリアが、「全てカルロの手のひらの上ってことだよ」と吐き捨てた。
「カルロは独立心の強い南部を王領に塗り替えるために、父上に圧力をかけたんだ。他の所領を奪わなければ、フランチェスカを潰すとな!」
目の前が真っ暗になり、時が止まったような気がした。唇が冷たくなっていく。耳が痛いほどの静寂の中、信じていたものが全て崩れ去っていく音をサミュエルは聞いた。
エミリアは感情を抑えられないようで、震えるサミュエルには気づかず、捲し立てるように事の真相を語りはじめた。
サミュエルの愛は重いので、エミリアは苦労すると思います。
さて、雲行きが怪しくなってきましたね。
マルコはクノーブルの宿屋の主人でしたが、二話の推敲時に描写を大幅カットしたため、出番がなくなったキャラです。




