13話
朝からフランチェスカは沸き立っていた。市内中、青と黄色のペナントで飾り付けられ、あちこちから食べものの匂いが漂い、楽しげな音楽が聞こえてくる。
今日はランベルト王国全体で実りの秋の訪れを祝う日だ。自治領といえど、フランチェスカも例外ではない。王都と比べると小規模ではあるが、領民たちは全力で祭りを楽しんでいるようだった。
そして、それはサミュエルも同じだった。王都にいた頃は騒がしいとしか思えなかったのに、不思議と心が沸き立っていた。
目の前には正装したエミリアがいる。相変わらずの貴公子ぶりだが、今日は結婚式のときの礼服ではなく、どちらかといえば騎士団の制服に似たものを着ていた。動きやすさを優先したのだろう。
その隣に立つミゲルやマッテオも揃って正装に身を包んでいる。もちろんサミュエルもだ。色は黒だが、青と黄色の飾り紐で装飾してある。今日のために商業街の服屋に走り、購入してきたものだ。マリアンナはまた礼服を着せようとしてきたが、全力で拒否した。
今日の舞台はいつもの中央広場ではなく、執務室のバルコニーだ。眼下に見える玄関前の広場では、期待に顔を輝かせた領民たちがエミリアの言葉を今か今かと待っていた。それを見たエミリアの唇がニヤッと弧を描く。
「フランチェスカの民よ!」
エミリアの澄んだ声が秋晴れの空に響き渡った。それを合図に、ざわめいていた領民たちの間に沈黙が降りる。この一連の流れもすっかり見慣れてしまった。それだけフランチェスカに根付いてしまったことに今さらながら驚く。
エミリアがバルコニーのフェンスに手をかけて身を乗り出した。落ちやしないかと不安に駆られ、そっと背中を掴む。そんなサミュエルの姿を、ミゲルが生暖かいものを見る目で、そしてマッテオが呆れた目で見ていた。
「みんな踊りたくてたまらないよな? 固い挨拶は抜きだ。エミリオ・デッラ・フランチェスカの名において、ここに秋祭りの開催を宣言する。大いに楽しんでくれ!」
エミリアが右手を掲げたと同時に、わっ、と歓声があがり、集まっていた領民たちが一斉に城下に向けて散らばっていく。それをクスクスと笑いながら見ていたエミリアが、同じように笑っていたミゲルたちに「お前たちも行ってこい」とうながした。
「いえ、私とマッテオは城に残ります。この歳になるとダンスは腰に響くのです」
「そうなのか? なら私も城に残ろうか?」
「いえいえ、大丈夫です。エミリオ様は秋祭りをお楽しみください。マリアンナや騎士たちもすでに城下に向かいました。ニコラス様、頼みましたよ」
顔は笑っているが、目は笑っていない。久しぶりに向けられるプレッシャーに息を飲みながら何度も頷く。
街路を領民たちが忙しく行き交うため、祭りの日に馬車は使えない。夏祭りのときと同じく徒歩で城下に降りると、中央広場は大いに盛り上がっていた。
噴水を囲んで様々な屋台が立ち並び、その中心に鎮座したダンスフロアの上で、正装した領民たちが、自分のパートナーと手を取り合って楽しそうにダンスを踊っている。
パートナーには性別も年齢も関係ない。ダンスに決まった形もない。正装し、自分の大事な人と、心の赴くまま踊るのが建国からの慣わしだった。それ故、秋祭りは舞踏会とも呼ばれている。
「おい、見ろよニコ。ロレンツォがいるぞ」
フロアの上に視線を走らせると、騎士団の制服に身を包んだロレンツォが、真っ赤な顔をして女性とダンスしているのが見えた。歳はロレンツォと同じぐらいだろうか。少し白髪が混じり出してはいるが、芯の強そうな美人だ。
「お相手って……」
「奥さん。娘も三人いるぞ」
知らなかったのかと言われ、思いっきり首を縦に振った。失恋を慰めた一件から少し距離が縮まったルキウスとは違って、ロレンツォは相変わらずサミュエルを敵視していたからだ。
「母上を亡くして、ロレンツォはひどく落ち込んだらしい。でも、今の奥さんに出会って生きる気力を取り戻したんだって、マリアンナから聞いた」
そういえばロレンツォはベアトリーチェを追いかけてケルティーナからやってきた身の上だった。ちらりと、隣にいるエミリアに目を向ける。
――もし彼女が死んだら、俺は正気でいられるのかな。
狩りの日からずっと、サミュエルは悩み続けていた。彼女を殺すという選択肢はとうにない。しかし、任務を放棄しても、代わりの刺客が送りこまれるだけだ。フランチェスカを離れれば、エミリアを守ることはできなくなる。狩りの日の夜の約束も果たせない。
「あ、マリアンナもいる。……おい、テオと踊ってるぞ。本当に仲良いな、あの二人。ちょっと妬けるよ。マリアンナは私のお世話係なのに……」
珍しく嫉妬を剥き出しにするエミリアに笑みが漏れる。彼女の視線の先ではテオとマリアンナが弾むような足取りで踊っていた。
――あいつは、任務のためならマリアンナさんも殺すんだろうか。
テオの与えた猶予は今日までだ。そろそろ心を決めなくてはならなかった。
「なあ、とりあえず市内をまわろう。ミゲルとマッテオにお土産も買ってやりたいし」
エミリアの言葉に従って、商業街の方へ足を進めていく。
市庁舎の中庭でもダンスが繰り広げられているようで、アップテンポな曲が途切れなく聞こえてくる。
道の両側には、中央広場よりも更に多くの屋台が立ち並んでいた。市外からやってくる商人も多いのだろう。フランチェスカではあまり見ない意匠の装飾品なども売られている。
「エミリオ様! 楽しんでますか?」
「うちの商品見ていってくださいよ、エミリオ様!」
道を行く領民や商人たちが、みんな口々に声をかけていく。それに笑顔で応えるエミリアには、狩りの夜のときのような悲しげな様子はない。
――ずっと、この笑顔の下に隠してきたんだな。
密かに胸を痛めるサミュエルを尻目に、左右を見渡しながら歩いていたエミリアが、他に比べて少し小さな店の前で足を止めた。その店頭には本が積み上げられ、隣に質の良さそうな文房具が並べられている。
「ここ、見てもいいか?」
「もちろん。ミゲルさんとマッテオさんへのお土産ですか?」
仕事柄筆記具をよく使うミゲルと、本好きのマッテオにはぴったりのお土産だろう。サミュエルの言葉に頷いたエミリアは、思案げに本と筆記具を物色し始めた。領主とはいえ、資金には限りがある。
――これは時間がかかりそうだな。
他の店に視線を移したとき、視界の端にキラリと光るものが目に入った。興味を惹かれて近づいてみると、そこはファウスティナで採掘された宝石で作られた装飾品を扱う店だった。
華美な細工はなく、どちらかといえば素朴であったが、その分宝石の質は良さそうだった。横目でエミリアの姿を確認する。彼女はお土産を選ぶのに集中していて、こちらには気を止めていない様子だった。
「あの、これください」
「はい。ご自分用ですか? プレゼント用でしたら、もっと相応わしいものもご用意できますが……」
「いえ、これがいいんです。これをください」
贈答用として購入する顧客は少ないのだろう。不思議そうに首を傾げる店主に言い募る。彼女はサミュエルの瞳を見ると納得したように頷き、手際よく商品を梱包してくれた。
「お買い上げ、ありがとうございます。あなたの行く先に、ルビーの輝きがありますように」
満面の笑顔で見送られ、気恥ずかしい気持ちになる。心を決めなくてはならないのに、こんなものを買ったりして、我ながら馬鹿だとは思う。
しかし今だけは、自分の立場を忘れていたかった。
「ニコ! お待たせ!」
背後からサミュエルを呼ぶ声がした。振り返ると、笑顔を浮かべたエミリアがこちらに手を振っている。どうやらお土産が決まったらしい。受け取った商品を懐に押し込み、エミリアの元へ駆け寄る。
まるで子供のように、胸が弾んでいた。
商業街をひとまわりした後、二人は中央広場に戻ってダンスを眺めていた。比較的人の少ないベンチに陣取り、お互い手にはチュロスを抱えている。
隣国ミケーレの伝統的なお菓子らしい。細長い棒状をしていて、もっちりサクサクの生地に砂糖やシナモンがふんだんにまぶされている。食べるときに服をやたら汚すのが難点だが、甘味に飢えていた身としては飛び上がるほど美味しく感じた。
「糖分が美味い……」
「たくさん歩きましたからね」
小さなフランチェスカ市内といえど、歩くとなると結構な距離がある。その上、気になった店があるとその都度立ち止まるので、余計に足へのダメージは大きかった。
「祭りの日は珍しいものがたくさん並ぶから、つい……。美味しいものもいっぱいあるし」
「いつもこんな感じなんですか?」
「いや、今年は例年より多いと思う。二割は増えてるんじゃないか」
もしかしたら地震の影響でこちらに流れてきたのかもしれない。復興が進んでいるとはいえ、爪痕は思いのほか大きかったようだ。
「ああ、美味しかった。もう一本食べようかなぁ……」
「駄目です。甘いものの食べ過ぎは体に毒ですよ」
「たまにはいいだろ。好きなんだよ」
断固として首を横に振ると、エミリアは膨れっ面をして「わかったよ」と渋々頷いた。
「そういえば、ニコの好物ってなんだ? あんまり好き嫌いなさそうだけど」
サミュエルに食べ物の好き嫌いはない。焼き出されて飢えた経験があるので、基本的に出されたものはなんでも食べる。
あえていうなら何だろうと考えていると、ふと、ソフィアの姿が頭によぎった。
「ミートパイですかね」
「ミートパイ?」
「挽肉をパイ生地で包んで焼き上げるんですけど、うちのはツグミの肉を使うんです。初めて食べたとき、すごく美味しくて。それからよく母が作ってくれました」
ロドリゴに拾われてすぐの頃、サミュエルは差し伸べられる手を全て無視して自分の殻に閉じこもっていた。食事もロクに取らずに痩せ細っていく息子に、ソフィアが食べさせてくれたのがツグミのミートパイだったのだ。
元々はサリカの伝統料理で、これならサミュエルも食べてくれるだろうと思ってのことだったらしい。彼女が初めて作ったミートパイはひどく不格好だったけど、とても美味しかったのを覚えている。
「いいなぁ、私も食べてみたい」
心底羨ましそうにエミリアが言う。そんな日は二度とこないだろう。そう思うと、どうしようもなく切ない気持ちになった。
しょんぼりしているサミュエルの視界の先を、見慣れた子供たちの一団が横切っていく。それに気づいたエミリアが、大きく声を上げて手を振った。
「おーい! コリン! みんな!」
「エミリオ様!」
エミリアの呼びかけに応えて、共に剣を習う仲間たちを引き連れたコリンがこちらに駆け寄ってきた。着飾った子供たちの姿を見たエミリアの顔が輝く。
「みんな似合ってるぞ。どこかの貴族様みたいだ」
「エミリオ様こそ。そのお洋服、かっこいいね」
「マリアンナさんに作ってもらったの?」
みんなエミリアに構ってもらいたいようで、めいめいに彼女に話しかけている。急に賑やかになったベンチに、周りの領民たちは一様に微笑ましそうな視線を向けていた。
「エミリオ様、俺と踊ってよ」
「ずるいよ、コリン。いつもエミリオ様を独り占めして。私と踊ってください!」
「……大人気ですね」
剣を教えているのに、誰一人サミュエルに声をかけてこないのが悔しかった。恨みがましい目を向けると、エミリアは困ったように、しかし嬉しそうに微笑み、胸の前で両手を掲げた。
「まあ、待て。落ち着け。気持ちは嬉しいが、私はみんなとは踊れない」
「ええっ、なんで?」
「もう相手が決まっているからだ」
エミリアがサミュエルの腕に自分の腕を絡めた。その途端、子供たちの憎しみのこもった目が一斉にサミュエルを射抜く。
悔しがる子供たちに手を振り、エミリアはサミュエルを連れてダンスフロアに上がった。周りの領民たちは自分たちのダンスに夢中になっていて、領主がきたことに気づいた様子はない。エミリアの大事な人に選ばれたことに、サミュエルの心臓は破裂しそうなほど脈打っていた。
「俺でいいんですか?」
「誰か一人を選ぶわけにもいかないし、全員を相手にするには体力が足りないからな」
――なんだ、そういうことか。
内心がっかりする。エミリアはサミュエルの両手を取ると、少しはにかんだような笑みを浮かべた。
「それに、お前と踊ってみたいと思ったんだ」
曲が切り替わったのを合図に、エミリアがステップを踏んだ。一歩遅れて、サミュエルも後に続く。エミリアのダンスはロレンツォのように優雅でもなく、領民たちのように情熱的でもなかったが、心が弾む楽しいものだった。
「お上手ですね」
「いつも地下で練習してたんだ。ようやくエミリオ以外と踊れたよ」
手のひらから伝わる熱がいつもより熱い。二人のダンスは、日が暮れるまで続いた。
「あ、足が痛い……」
「俺もです……」
中央広場から外れた一角で、エミリアとサミュエルは地面に座り込んだまま項垂れていた。ちょうど、収穫祭の夜に二人で酒を飲んでいたところである。
散々歩きまわった後でダンスをしたのだ。足が悲鳴を上げてもおかしくはなかった。
「でも、楽しかった。付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。俺を相手に選んでくれて」
夢のような時間だった。まだ手のひらが熱い。できることならもっと踊っていたかった。エミリアも同じ気持ちだったのか「もっと体力があればな……」と残念そうに呟いていた。
中央広場からは相変わらず楽しそうな音楽と声が聞こえてくる。空を見上げると、エミリアの髪の毛と同じ色をした夕日がフランチェスカの街並みを染め上げていた。
ひんやりとした風がほてった頬を撫でていく。すっかり秋の風だ。
「これでもう祭りも終わりだな」
気持ちよさそうに目を細めたエミリアが、寂しげに言う。
「冬はないんですか?」
「南部といえど、このあたりはレグルス山脈の影響で雪深いからな。冬はみんな家に籠るんだ。それに……」
そこで言葉を切り、エミリアは遠い目をした。孤児院で見せたものと同じものだった。エンリコは冬に死んだ。それを思い出しているのかもしれない。
「そろそろ帰ろうか。ミゲルとマッテオも待ってるだろうし」
「あ、ちょっと待ってください。これを……」
立ち上がろうとしたエミリアを押しとどめて、ずっと懐に隠し持っていた包みを手渡す。
「私に?」
エミリアは戸惑いつつも包みを受け取り、宝物を扱うように丁寧に中身を取り出した。緊張しているのだろうか。生唾を飲み込む音が聞こえる。
少し震える指で、簡素な木箱の蓋を開いた彼女の瞳が大きく見開かれる。そこには、サミュエルの瞳の色と同じ色をした、アメジストのペンダントがあった。
「誕生日を祝ってくれたお礼です。どうか、受け取ってください」
木箱を握りしめる手をそっと包む。しかしエミリアは黙ったまま、何も言ってくれない。
――気に入らなかったか?
不安になって顔をのぞき込むと、彼女は顔を真っ赤にして、今にも泣きそうにくしゃりと笑った。
「ありがとう、ニコ。本当に、本当に嬉しい。ずっと憧れていたんだ。この紫色の輝きに」
「そ、そうなんですか?」
胸が高なるのがわかった。ここまで喜んでもらえるとは思わなかったので、素直に嬉しい。
「うん。母上も若い頃、アメジストを持っていてな。父上が隠し持っていた絵を見たことがあるんだが、赤毛によく映えて、とても綺麗だったんだ」
「今はそれは……?」
「大切な親友にあげたらしい。だから、私の手元にあるアメジストはこれだけだよ」
どうやら被らずに済んだようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
「そうだ。これ、代わりに。お前が身につけてくれ」
エミリアが自分の首に下げていたペンダントをサミュエルに手渡した。まさかそうくるとは思わず、一瞬言葉がつまる。それを躊躇と取ったのか、エミリアは寂しそうな笑みを浮かべて、「嫌ならいいが」と呟いた。
「いえ、頂きます。ありがとうございます」
慌てて首から下げると、エミリアは安堵したように息をついた。
「よかった。それ、母上の形見なんだ」
「えっ」
――それって俺がもらってもいいものなのか?
激しく狼狽えるサミュエルに、エミリアはペンダントにまつわる言い伝えを聞かせてくれた。ペンダントに使用されている赤い石はケルティーナの守り石で、一度だけ過去の過ちをやり直しさせてくれる力があるという。
「どんなに望んでも戻れなかったから、きっとお伽話に過ぎないだろうが、どうかお守り代わりに持っていてほしい」
「そ、そんな大事なもの頂けませんよ」
「いいんだ。ニコに持っていてほしい。それに、私にはこれがあるから」
そう言ってアメジストのペンダントを下げるエミリアの笑顔は、この世にあるどんな宝石よりも美しく見えた。
――ああ、駄目だ。俺はもう、この人から離れられない。
「ニコ?」
小さな体を黙って抱きしめる。
――ごめん、親父。母さん。アヴァンティーノのみんな。
瞼に浮かんだ家族たちの姿を覆い隠すように、サミュエルはそっと目を伏せた。
西洋といえば舞踏会、ということでダンス(祭り)回です。
決まった形はないといえど、王都はどことなく洗練されています。
フランチェスカは元気さで勝負です。




