10話
【登場人物まとめ】
マッテオ
城代兼医者。仕事を増やしたサミュエルが腹立たしい。
「ニコラス様、大丈夫ですか?」
呆れ顔のテオが、ベッドに横たわるサミュエルの顔をのぞき込む。その目には労りの気持ちなど欠片もこもっていない。相変わらずの冷たい従者の姿に、心の中で舌打ちをした。
「夏風邪は馬鹿がひくって本当なんですね」
こちらが弱っているのを見て、ここぞとばかりに攻撃してくる。これを機に日頃の鬱憤を晴らそうとしているのだろう。反論したいが声が出ない。
昨日エミリアが危惧した通り、サミュエルは風邪をひいていた。ちゃんと浴場で体も温めたし、寝るまでは何ともなかったのに、朝起きたら全身がだるくて身動きできなくなっていたのだ。
助けを呼びたくとも、潰れた喉は全く役に立たなかった。あまりの辛さに、このまま死ぬのではと覚悟を決めたが、いつまでも起きてこないサミュエルの様子を見にきたテオによって無事に発見され、今に至っている。
「熱は高いが、若いしなぁ。一晩寝とれば治るだろ」
問題なしと判じた城代兼医者のマッテオが、胸に当てていた聴診器を片付け始めた。ありがとうございますと唇を動かすと、彼は不機嫌そうにサミュエルを睨んだ。
「朝っぱらから騒がせよって。己を過信しとるからこうなるんだ」
本好きなのが影響してか、彼は少し古風な喋り方をする。誰にでも温和なミゲルとは違って、性格もやや偏屈で、好悪で人を区別するところがあった。当然、サミュエルは悪の方に入る。
「ほれ、この薬湯を飲み干せ。フランチェスカでは昔から風邪をひいた時にはこれを飲むんだ」
テオに支えられながら体を起こし、カップを受けとる。だが、そこに入っていたのは、いかにも不味いですと主張しているおぞましい液体だった。
何で作られているのか、溝に溜まったヘドロのような濃い緑色をしている。鼻がつまっているおかげで、匂いがわからないのだけが幸いだった。
「何しとる。ほれ、ぐいっといけ。ぐいっと」
うながされ、覚悟を決めて中身を煽る。口内に濃厚な草の味と苦味が広がり、咄嗟に吐き出しそうになる。
「駄目ですよ。飲み込まなきゃ」
容赦無く口を押さえられ、涙目になりながらも必死に飲みくだす。それを見ていたマッテオが、呆れたようにため息をついた。
「奉公人の割に、主人に容赦ないな」
「元なので!」
本当は元でも奉公人でもない。いい笑顔をしているテオを睨みつけて、サミュエルは再びベッドに横たわった。
「何かあれば呼べ……と言いたいが、声が出なかったな。鈴を置いておくから、用がある時は鳴らしなさい」
ベッドの横の小棚に銀色の鈴を置き、マッテオは部屋を出て行った。城代兼医者の彼はとても多忙だ。この小さな鈴を鳴らしたところで駆けつけてくれるとは思わなかったが、他に人を呼ぶ手段もない。ありがたく頂いておくしかなかった。
「俺もこれから訓練所に行くので、大人しく寝ていてくださいね。また様子見にきますから」
水を絞った布を額に乗せ、心配そうな顔ひとつせず、テオは部屋から去って行った。演技でもいいから、少しぐらい気遣う素振りを見せてほしい。
覚えてろよ、と心の中で呟き、熱で潤む目でぼんやりと天井を見つめる。窓から差し込む光に反射して、空中に舞う埃がキラキラと輝いて見えた。
――ここまでひどい風邪をひいたのも久しぶりだな。
最後にひいたのがいつだったのかも覚えていない。まだ本当の両親が生きていた頃だったような気がする。ロドリゴに引き取られてからは寝込んだ記憶がないからだ。
サミュエルも弟も体は丈夫な方だった。常に外を駆けまわっていたし、大した悪さもしなかった。その点ではあまり気を揉ませない子供だったと思っている。
だからこそ、たまに寝込んだときに献身的に介抱してくれるのが嬉しかった。弟が生まれてからは特に、母親を独り占めしているような気持ちになれたから。
今思い出しても優しい母親だった。常に笑みを絶やさず、声を荒げたところも見たことがなかった。サミュエルにそっくりな父親も、穏やかな紫色の瞳で常に息子たちを見守っていた。まさかそれが、永遠に失われるとは思っていなかった。
村を焼いたエンリコの姿が頭に浮かぶ。彼を憎む気持ちは今も変わらない。しかし、シルヴィオの言う通り、それをエミリアや領民たちにぶつけるのは間違っているとわかっていた。
――エミリア、か。
水を引っかけられて楽しそうに笑う彼女の姿は、まるでただの少女のようだった。戦争を仕掛けるつもりはないと言っていたが、結局のところ疑念が晴れたわけじゃない。それでも、今すぐ断ずる必要はないという気にはなっていた。
――なんであのとき、かばったんだろう。
地震が起きたときのことを思い出す。エミリアが傷つかないように、咄嗟に体の下に抱き込んでかばっていた。執務室で対峙したときも、剣を握れなかった。
――俺はいったいどうしたいんだ?
シルヴィオに啖呵を切っておきながら、ぐるぐると悩む自分が情けなかった。
そのうちに薬が効いてきたのか、うとうとと睡魔が襲ってきた。夏仕様の薄い布団に潜り込んで、サミュエルはそっと瞼を閉じた。
カタ、と微かな音がして目を覚ました。どれだけ眠っていたのだろうか。薄暗かった部屋は完全に闇に覆われ、そばに置かれた燭台の明かりだけが揺らめいている。
顔を横に向けると、手を伸ばせば届きそうなほど近くに座ったエミリアが、じっとサミュエルを見つめていた。
その胸元にはいつも身につけているペンダントが下げられていた。エミリアの髪の色と同じ赤い石が、燭台の明かりに照らされて淡く光っている。額の布を交換しようとしてくれたらしい。手には水を絞った布が握られていた。
「すまない。起こしてしまったか?」
「エミリオ……さま……」
ひどく掠れてはいたが、声が出るようになっていた。サミュエルの意識がはっきりとしていることに安堵したのか、エミリアはほっと息をつくと、手のひらをこちらに伸ばしてきた。
「だいぶ下がったな。薬が効いてよかったよ。私の魔法は病気には効かないからな」
さっきまで水に触れていたせいか、額に触れる手はヒンヤリとして気持ちよかった。思わず目を細めると、小さく笑ったエミリアが「気持ちいいか?」と顔をのぞき込んできた。
「はい……」
「さっきもそんな顔してたよ。いい夢、見てたんだな」
そうかもしれない。断片的にしか覚えていないが、いつもの悪夢ではなかった。懐かしい匂いのする暖かな家の中で、今はもういない家族たちと共に笑っていたような気がする。目覚めるのが惜しくなるほど、優しい、優しい夢だった。
「ニコ? どうした? 体が辛いのか?」
黙ったサミュエルにエミリアが心配そうな顔を向けた。努めて笑みを浮かべ、小さく首を横に振る。仮にも従者が主人を不安にさせるわけにはいかない。
「……エミリオ様は……大丈夫でしたか……?」
「私は大丈夫だよ。お前が手加減してくれたからな」
そう言って笑うエミリアの瞳は、いつにも増して優しく見えた。
「朝から何も食べてないんだって? オートミールを持ってきたけど、食べられそうか?」
「多分……」
自信はなかったが、食べた方が回復も早い。さすがに明日も仕事をサボって寝ているわけにはいかなかった。
起きようとしてふらつく体をエミリアが支えてくれる。挙句にオートミールを口に運んでくれようとするので必死に抵抗した。どこをどう探しても、主人に介抱させる従者などいない。
「だ、駄目です……。ミゲルさんたちに叱られてしまいます。風邪がうつるかもしれないし……」
「ミゲルたちも許してくれたぞ。言っても聞かないのを知ってるからな」
側近たちはさぞかし気を揉んだだろう。体が回復したら嫌味の一つや二つ言われるかもしれない。それどころか、万が一ロレンツォやルキウスに知られたら、冥界の門を叩くのを覚悟しなければいけない。
「ほら、口を開けろ。あーん、だ。あーん」
まるで子供に言い聞かせるような口調に、気恥ずかしさが先に立つ。首を振って抵抗する素振りを見せてみたものの、彼女には引く気が一切なさそうだった。仕方がないので、差し出された匙を渋々口に含む。
「うまいか?」
とても味なんてわからなかったが黙って頷く。すると、嬉しそうに顔を輝かせたエミリアが、雛鳥に餌を与える親鳥よろしく、さらに献身的に匙を運んでくれた。
おかげで器の中にあったオートミールは綺麗に姿を消し、思ったよりも空腹だったサミュエルの胃はすっかり満たされた。
「次は着替えだな。両手をあげて……」
「流石にそれはやめてください……! 自分でできます!」
ひったくるように着替えを奪い、視界に入らないよう後ろを向かせた。サミュエルの剣幕に、エミリアはぶうぶうと文句を垂れている。
「遠慮しなくていいのに。男の裸なんてエミリオで見慣れている」
「そういう問題じゃありません!」
家族とはわけが違う。エミリアにはもっと自分が女であることを自覚して欲しかった。
グズグズしているとエミリアが手を出してきそうだったので、さっと体を拭き、手早く着替える。寝ている間に汗をかいたらしく、寝巻きはしっとりと湿っていた。
「もういいか?」
「いいです。お待たせしました」
振り向いたエミリアの顔は少し赤らんでいた。
――やばい。うつしたか?
拳を固めるルキウスたちの姿がよぎり、不安にかられてエミリアの額に手を当てる。特に熱はなさそうだった。
「な、何してる?」
「いや、顔が赤いんで……。この部屋、暑いですか? 窓を開けましょうか?」
「だ、大丈夫だよ。病人が人の心配をするな。それより、もう一度薬を飲んでくれ。マッテオから預かってきたんだ」
差し出されたカップは相変わらずすごい色をしていた。思わず顔をしかめると、嗜めるように「飲まないと治らないぞ」と言われ、一息で煽る。
「うえっ……」
「よし、よく頑張ったな」
強烈な苦味にむせるサミュエルの背中を撫でながら、エミリアが口直しの果実水を差し出す。
「さあ、後はゆっくり休め。休養も仕事のうちだぞ。早く復帰してくれないと困るんだ。ニコがいないと張り合いがない」
お世辞かもしれないが、なかなか嬉しいことを言ってくれる。体が弱っているからか、仇の娘だと反発する気持ちも起きなかった。素直にベッドに潜り込んで布団を被り直すと、赤子をあやすように胸を優しく叩いてくれた。
「俺、もういい大人なんですけど……」
「今日ぐらい子供に戻ったっていいじゃないか。おやすみ、ニコ」
心地の良いリズムに安心したのか、また眠気が押し寄せてくる。朦朧とする意識の中で、微かに響くエミリアの歌が聞こえた。どこか懐かしいような旋律は、夢の中の母親が歌ってくれたものと同じものだった。
鳥の鳴き声が聞こえる。ゆっくりと目を開くと、部屋の中には朝の光が差し込んでいた。どうやらぐっすりと寝入っていたようだ。今度は夢も見なかった。
熱も完全にひいたようで、あれだけ辛かった体のだるさも消えている。小さく声を出すと、多少の掠れはあるものの痛みはなく、ほぼいつも通りの調子に戻っていた。
心の中でマッテオに感謝しながら身じろぎすると、何か柔らかいものが手に触れた。視線を落とすと、燃えるような赤毛が目に飛び込んできた。
布団に顔を伏せたエミリアが、すやすやと寝息を立てて眠っている。どうやら一晩中、看病していてくれたらしい。手にはまた、絞った布が握りしめられていた。
彼女の眠りを妨げないよう、そっとベッドに体を起こす。伺うように顔をのぞき込むと、エミリアは微かに口元を綻ばせた。良い夢を見ているのかもしれない。
手を伸ばして肉付きの薄い頬に触れる。マリアンナが丹念に手入れしているきめ細かな肌は、男とは違ってなめらかだった。そのまま指を滑らせ、唇に触れる。初めて触れた彼女の唇は、思った以上に柔らかかった。
「ん……ニコラス……」
くすぐったそうに笑ったエミリアが、サミュエルの名を呟く。その声で、堰を切ったように胸の中を熱いものが込み上げてきた。任務も、過去の憎しみも、何もかも忘れて目の前で眠る少女を抱きしめたい衝動に駆られ、必死に自制する。
――この人を殺したくない。
そう思った瞬間、サミュエルはエミリアへの恋心を自覚した。
「んん……? ニコラス……? 目が覚めたのか……?」
目を覚ましたエミリアが、ゆっくりと布団から体を起こした。潤んだ瞳で見つめられ、びくりと体がすくむ。そんなサミュエルの様子には気づかず、エミリアは手を伸ばすと、昨日と同じように額に手を当てた。
「熱、完全に下がったみたいだな。よかった」
嬉しそうに笑うエミリアを、サミュエルはただ見つめ返すことしかできなかった。
サミュエル自覚回でした。
エミリオが病弱だったので、エミリアは看病慣れしてます。




