1話
フランチェスカ異聞のはじまりはじまりです。
お楽しみいただけますと幸いです。
肉が焼ける匂いがする。
煙る視界の向こうでは、地面に倒れ伏す人々が今にもその生を終えようとしていた。轟々と鳴る火炎が何もかもを飲み込み、暗い夜空を染め上げていく。
その中心に立つのは、青と黄色の貫頭衣を身にまとう偉丈夫な男だった。深く被った兜の裾からは、あでやかな金髪がのぞいている。
――あいつがこの村を焼いたのか。
憎しみに顔を歪めるサミュエルの手を、小さな手がぎゅっと握った。自分と同じ、サリカ人特有の黒髪と紫色の瞳を持つ、たった一人の弟だ。
ニコラス、と名前を呼ぼうとして、声が出ないことに気づいた。急に視界が狭まり、弟の不安げな顔が遠ざかっていく。
――待ってくれ!
手を伸ばそうとしたとき、何かが自分の体に触れた感覚がした。
「……エル様……サミュエル様!」
ハッと目を覚ますと、明るい栗毛が見えた。
煉瓦色の目を細めた従者のテオが、呆れ顔でサミュエルをのぞき込んでいる。どうやらまた昔の夢を見ていたらしい。胸に置かれたテオの手を払いのけ、気だるげに体を起こす。
「もういい大人なんですから、図書室でサボるのはやめてくださいよ」
「暖かくて静かなんだよ、ここ。昼寝するには持ってこいだ」
採光のために特別に大きく作られたガラス窓からは、初夏の日差しが差し込んでいる。生あくびをして大きく伸びをすると、肩を落としたテオが深くため息をついた。
「ロドリゴ様にチクりますよ。近衛騎士としての自覚はないんですか」
「ないよ。元々は平民だし、俺」
「貴族になって何年経つんですか。いいから行きますよ。陛下がお呼びです」
「陛下が?」
騎士団長である養父のロドリゴならともかく、一介の騎士を呼ぶとは穏やかではない。悪夢を見たからだろうか。無性に嫌な予感がした。
「サミュエル・ディ・アヴァンティーノ。ただいま参上いたしました」
執務室の扉を開けると、机で羽ペンを走らせていたカルロが顔を上げた。見事な金髪青眼は王族だけに現れる血の証だ。
カルロは十八歳の成人式を迎えると同時に流行り病で両親を亡くし、そのまま即位してから十年間、国王の座に座り続けている。そのせいか目に宿る光は鋭く、美しい顔立ちも相まって、ひどく冷ややかな印象を受けた。
ここ、ランベルト王国は豊かな国だ。北と東に山、西に砂漠、南に海を有する陸の孤島が故に他国からの侵略を跳ねのけ、約四百年もの間、繁栄を謳歌してきた。かくいうサミュエルの家も建国から続く侯爵家で、代々近衛騎士を輩出している。
「よくきた。まあ入ってくれ」
テオを部屋の外に残し、うながされるままカルロの前に進み出る。彼の目はなぜか、こちらを探るような気配を帯びていた。
「フランチェスカをどう思う?」
カルロの意図がわからず黙り込む。
フランチェスカは王国南部に位置する公爵領だ。建国の際、初代国王アウグスト一世自ら、弟である初代フランチェスカ公爵に譲渡した土地である。
王国に属するとはいえど自治を与えられており、実質的には独立国に近い。隣国ミケーレから流れる二本の川に挟まれた中州状の土地で、その恵みを受け、王国一の小麦の産地となっている。
「昨年末、領主のエンリコが戦死したのは知っているな?」
「はい。我が王国軍の矢に倒れたと聞いております」
「その息子のエミリオが後を継いだ。フランチェスカはまだ健在だ」
後ろ手に組んだ指がぴくりと跳ねた。あふれそうな怒りをグッとこらえる。
この国には、もともと八つの自治領が存在していた。北部のファウスティナ以外は南部の土地で、サミュエルの村があったサリカもその一つだった。独立心の強い気風とはいえ、王領とは付かず離れずの関係を保ってきたのに、エンリコによって全て壊されたのだ。
十年前、エンリコはサミュエルの村をはじめ、サリカの土地を次々と襲撃した。武装したサリカ人がフランチェスカ領内の村を襲った報復だというが、真偽は定かではない。
サリカ側は迎撃しようと試みたが、相手は公爵領だ。滅ぼされる直前まで追いつめられたところを、救援要請を受けた王国軍が駆けつけ、サリカを王領とすることで決着はついた。
しかしその五年後、別の自治領で同じことが起きた。領境を侵したという理由だったが、こちらも真偽は定かではなかった。攻め込まれる前に自治を返上し、王領となることで事なきを得たが、この一件でエンリコが南部の土地を奪おうとしていることは明白になった。
――次は自分たちかもしれない。
サリカの二の舞を恐れた自治領は揃って自治を返上し、王国の庇護下に入ることを選んだ。唯一、武力で知られていたヨシュナンだけは自治を保っていたが、それも昨年末の戦争で無に帰した。
「……息子がいたのですね」
南部には深い傷跡が残ったが、エンリコが死んだ今、平和が戻ったと思っていたのに。
――また同じことが繰り返されるのか?
サミュエルの脳裏に、先ほどの悪夢がよぎる。
思い出のつまった家も、優しかった両親も焼かれ、まだ幼かった弟は戦後の劣悪な環境の中で衰弱して死んだ。ロドリゴに拾われて養子になった今でも、その屈辱を忘れてはいない。
「悪人の息子は善人だと思うか?」
「……いえ、そうは思いません。蛙の子は蛙です。いずれこの国に災いを及ぼすでしょう」
絞り出すように答えると、カルロは目を細めて満足げに笑った。
「エミリオを殺せ、サミュエル。これ以上フランチェスカの好きにさせるな」
「拝命いたします」
頷いたカルロが、机の上に置いてあった革袋を投げてよこした。中をのぞくと、数ヶ月分の生活費にあたる銀貨と銅貨が詰めこまれていた。当面の資金ということだろう。
――仇を取ってやる。
革袋を握りしめ、虚空を睨むサミュエルの瞳には、薄暗く剣呑な光が宿っていた。
「ああ、腰が痛い……乗合馬車に二週間も乗るもんじゃないですね」
よろよろと馬車を降りたテオが、情けない声でうめいた。
ここはフランチェスカ領西端の町、クノーブル。王領との境の宿場町だ。ここからエミリオのいるフランチェスカ市までは、馬車で後二日といったところである。降りずに行くこともできたのだが、食料が乏しくなってきたため、途中下車することにしたのだ。
「よかったんですか。ロドリゴ様たちに黙って出てきて。今頃心配してると思いますよ」
王城を辞した後、サミュエルは『旅に出る。当分帰らない』と自室に書き置きを残し、気づかれぬように最低限の荷物だけを持って家を出た。
引き止められたくなかったし、失望されたくなかったからだ。
血の繋がりはなくとも、養父のロドリゴも、養母のソフィアも、サミュエルを本当の息子のように愛情深く育ててくれた。だからこそ、未だエンリコに対する憎しみを抱えていることを知られたくはなかった。
「……さっさと殺せば、すぐに戻れる。まずは情報収集だ。行くぞ」
「えぇー、ちょっと休憩しましょうよ」
ぶつぶつ文句を言うテオを引きずるようにして城門をくぐる。ささやかな木造の城壁の中には商店や宿屋が立ち並び、なかなか賑わっていた。
フランチェスカは隣国ミケーレへ続く唯一の領地のため、旅人や行商人、そして流民が多い。町から町を移動する彼らにとって、南部の戦争など、もう過去のものなのだろう。
「案外、活気があるんですねぇ」
テオが感心したように呟く。
悪役の名を冠するフランチェスカである。さぞかし領民たちの顔も暗いだろうと思っていたのに、彼らは拍子抜けするほど明るかった。南部の気質特有の人好きのする笑顔を浮かべ、自分の店の商品に目を止めてもらおうと、しきりに声を張り上げている。
「クノーブルって栄えてるんだね」
近くの店で保存食を買い足しながら、売り子の女性に笑顔を向ける。王城謹製の質の良い銀貨を渡すと、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「辺境の田舎町とは思えないでしょう。領主様のおかげよ。町や街道を整備して、先祖代々フランチェスカを守ってくださってるの」
「今の領主様はまだ十八だって聞いたけど」
「エミリオ様は立派なお方よ。エンリコ様が亡くなられてまだ半年も経っていないのに、精力的に執務についていらっしゃるって。喪が明けたから、そろそろ視察にまわってくるんじゃないかしら」
お会いできるといいわね、と微笑まれ、愛想よく返事をして店を離れた。他にもいくつかまわってみたが、誰も彼も同じことしか言わない。言わされているという感じでもない。
「本当に悪人なんですか」
「悪人に決まってるだろ。俺の故郷を焼いたやつの息子だぞ」
苛立ちの混じった口調にテオが肩をすくめる。お互い気心の知れた仲だ。サミュエルが黙ると、それ以上テオも話しかけてはこなかった。
――さて、どうしたもんかな。
石畳で舗装された大通りの向こうを見上げる。盛り土で小高くなった丘の上に、一際大きな建物が見えた。領主が滞在時に使用するマナーハウスだろう。視察にくるというのなら、警護が厳しい市内よりもクノーブルに留まっていた方が、暗殺できる可能性は高いかもしれない。
どう接近するかと考えを巡らせていると、道を歩く少年と肩がぶつかった。少年が抱えていた紙袋からカラフルな包みがこぼれ落ち、ばらばらと地面に散らばっていく。
――やってしまった。
少年と共に慌てて包みを拾い集める。中身はどうやらお菓子のようだ。チョコレートの甘い香りが、ふわりと鼻をくすぐる。
「ごめんな。ぼうっとしてて」
「いや、こちらこそすまない」
思ったよりも声が高い。目深に被ったフードから、燃えるような赤毛がのぞいている。
赤毛は南洋の群島諸国に住むケルティーナ人の特徴だ。ケルティーナは積極的な外交を好まないため、王国内ではあまり見かけない。身なりがよさそうなので、外遊中の貴族か大商人の息子といったところだろう。
「これで全部?」
「うん、ありがとう」
サミュエルからお菓子を受け取った少年が、その場に立ち上がり、顔を上げた。
日の光を浴びた榛色の瞳が、まるで星のようにキラキラと輝いている。
ひ弱そうな見た目に反して、まっすぐにこちらを見つめる強い眼差しが印象的だった。目の縁を彩る赤いまつ毛も、それを強調するのに一役買っている。
――見てると吸い込まれそうだな。
じっと見つめるサミュエルの瞳を見て、少年の瞳が揺らいだ。サミュエルがサリカ人だと気づいたのだろう。十年前の悲劇に、まだ胸を痛めてくれる人間がいたのか。
「……どうかあなたに双子川のお恵みを。良きパンに出会えますように」
お決まりの慣用句を口にして、少年は去って行った。その後ろ姿をぼんやりと眺めていると、少年をつける男の二人連れに気づいた。護衛というには雰囲気が不穏だ。何より目が荒んでいる。
「ああ、あれ人さらいですね。旅の中継点には多いんですよ。常に人が流れるから逃げやすいし。いいとこの坊っちゃんって金になるんですよねぇ」
さすが元・本職は詳しい。
テオは昔、北部を荒らしまわっていた盗賊団の一員だった。養父である盗賊団の頭と、その仲間たちと共に、無謀にもロドリゴの馬車を襲撃しようとして返り討ちにあい、揃ってアヴァンティーノ家に身を寄せた変わり種だ。今は傭兵団の一員として、そしてサミュエルの従者として、家のために働いてくれている。
気づかれぬようにそっと男たちの後に続く。一息遅れてテオもついてきた。後をつけられていることにも気づかず、少年はのんびりと歩いている。
大通りを抜け、丘に続く道に差し掛かったとき、路地裏から伸びた二本の腕が少年の体を中に引き摺り込んだ。弾みで放り出された紙袋が、どさっと地面に落ちる。それを容赦無く踏み荒らしながら、男たちが後に続いた。
「あらら、かわいそうに」
「呑気に言ってる場合か! 行くぞ!」
路地裏の中に飛び込むと、口を塞がれた少年が大きな麻袋に押しこまれようとしているところだった。人さらいは全部で三人。奥に一人、手前に二人だ。
「邪魔すんじゃねぇよ!」
サミュエルに気づいた手前の男たちが、悪役の見本のようなセリフを吐いてナイフを抜いた。奥の男は少年を羽交い締めにしている。盾にでもするつもりなのだろうか。
――そうはさせない。
剣を抜き、右側の男に一足飛びに近寄り、腕を狙って刃を振るう。サミュエルの速度についていけず、男は斬撃を真正面から受けた。
真昼の日差しの中に、鮮血の花が咲く。
返す剣で左側の男にも一撃浴びせると、男たちは痛みにうめきながら地面にくずおれた。致命傷ではないが、しばらくは動けないだろう。
不利を悟った奥の男が少年を突き飛ばし、路地裏の向こうに走り出す。とっさに抱き止めた少年の体は、まるで女のように柔らかかった。
「テオ!」
「もう、人使い荒いんだから」
唇を尖らせながら、テオがクロスボウに矢をつがえる。こうしている間にも男の背中はみるみるうちに遠ざかっていく。しかし、盗賊団で鍛えられたテオにとってはただの動く的だ。
風を切り裂く矢に背中を射抜かれ、男は地面に倒れた。
「大丈夫か?」
腕の中で呆然としている少年の顔を覗き込む。顔色は悪くない。それどころかほんのりと赤い気がする。緊張と興奮で頭に血が上っているのだろう。
額に手を伸ばそうとしたとき、騒ぎを聞きつけたとおぼしき青い髪の男が、血相を変えて飛び込んできた。
「エミリオ様!」
――今、なんて言った?
テオがこちらを見る気配がする。
運命の女神の悪戯に、サミュエルは唇を噛んだ。
【登場人物まとめ】
サミュエル 黒髪紫目のサリカ人。近衛騎士。村を焼かれた憎しみを抱えている。
テオ サミュエルの従者。元盗賊。
カルロ ランベルト王国の国王。金髪青目の美丈夫。
ロドリゴ サミュエルの養父。近衛騎士団長。
エンリコ サミュエルの仇。故人。
エミリオ エンリコの息子。暗殺対象。