星の好敵手
「睡月様によるものだと言わないのですか?」
雨衣の問いに、星華は庭を歩きながら黙り込んだ。
詠星苑での、燈惺の表情が忘れられない。
完全に、睡月から嵌められた。
あの部屋が禁忌だとわかっていて、星華を住まわせた。燈惺には、星華が自らあの部屋を望んだと、吹き込んでいるのだろう。
意地であの部屋に住み続けているが、ますます悪女扱いされているに違いない。
「私が説明したところで、信じてくれるとは思えない。何よりあの冷たい陵燈惺が、睡月のことは大事にしているみたいだもの」
それだけは、数日の付き合いである星華でもわかった。
この屋敷にいる燈惺の家族は、妹の睡月だけだ。父親は田舎に隠居していると聞いている。
一番近い存在の妻である星華は、燈惺にとって一番遠い存在だ。
そのまま広い庭を歩いていると、風にのって花の香りがした。
花の濃い香りだ。香り袋かしら。
振り返ると、とても可憐な娘が立っていた。
「藍星華、会いたかったわ」
金の刺繍が入った素敵な赤い衣をなびかせ、腰までの艶やかな髪。とても豪華な衣に引けを取らない、整った美貌。
切れ長な瞳は、誰かに似ているような気もする。
「貴方は…?」
高貴な人だとは思うが見覚えがない。覚えていないことが気に入らなかったのか、娘はがらりと態度を変えた。
「あなたが燈星の結婚相手と聞いて驚いたわ。噂とは違い、地味な衣を着ているのね」
彼女は星華を知っている。両親を亡くす前に会っているのかもしれない。
あれから星華は、藍家から唯一持たされたお下がりの衣を着続ている。
汚いものを見るかのような視線に失礼な子だと思ったが、
「公主様、ここまでいらっしゃるとは突然どうしたのでしょう?」
いつの間にか現れた燈惺の言葉に、ぽかんと口が開く。その後ろから睡月もやってくる。
「…公主様!無礼をお許しください」
公主とは、王の娘だ。星華は急いで頭を下げる。
なぜ、そのような方が陵家に?
「燈惺。あんなに縁談を断ってきた貴方が結婚する相手がどうしても気になって、お祝いを言いに来たのよ」
公主は燈惺の登場に表情を変える。顔なじみのようで、燈惺に駆け寄りその手をとった。
どうみてもお祝いを告げる態度ではない。
燈惺はいつもより明るい深藍色の衣を着ており、ますます美しさが際立っている。燈惺と公主が並ぶと、あまりの美しさにため息がでそうだ。
そんな二人を見て、睡月はどうだと言わんばかりの視線を送ってくる。
「こたびの結婚は王弟からのご縁です。断ることなど出来ましょうか」
しかし、燈惺は相変わらず口元は笑っているが目が笑っていない笑みで、公主の手をさらりとかわした。
「それなら、私だって何度も父上に頼んだのに」
「春搖、大人げないぞ」
後ろから聞こえて来た声に、星華は勢いよく振り返る。この声を聞き間違えるわけがない。
「兄上こそ、わざわざついてくるなんて大人げないわ」
「翔貴…」
やはり、そうだ。
声の主は、翔貴だった。春搖は翔貴の異母兄妹のようだ。
翔貴は今日も髪を下ろし、気品が溢れている。いつもは星華を見ない使用人たちも、翔貴のことを盗み見している。
つい名前で呼んでしまったことに気づいても遅かった。王子を名で呼ぶなど本来なら許されない。
燈惺は涼しい顔で翔貴へ頭を下げているが、何を考えているかわからない。
「殿下、ご挨拶申し上げます」
「こちらこそ、お祝い申し上げる」
「星華と殿下は、面識があるのですね」
やはり燈惺は、この短い間で何か勘づいている。
間者と疑われている以上、翔貴と親しいというのはますます疑念を抱かせるだろう。
「星華の伯母が、王弟夫人だったことは知っているだろう。王弟夫人には、本当に世話になったのだ。伯母に恩返しができなかった分、星華を実の妹のように思ってきた。今日は春搖が陵家へ行くとうるさいので、お目付け役でついたきたのだ」
翔貴は賢い。勘違いされないように助け舟を出してくれた。
星華は翔貴の機転に安堵したが、
「それなら、どうでしょう。せっかくのご縁です。殿下は琴が得意で、藍家でも琴の師匠を務めていたと聞きます。睡月も琴を習っているのですが、中々上達しない。睡月の琴の師匠となってはくれぬでしょうか。そうなれば星華も心強いでしょう」
一体、燈惺は何を考えているのだろう。
これでは、翔貴の助け舟が台無しだ。
星華は信じられないと燈惺を見たが、本人は相変わらず目が笑っていない笑みを張り付けている。
「お兄様、そうしましょう。私も睡月と共に陵家で琴を習うわ。兄上も一緒なら、陵家に通うのも許してもらえる。ねえ、お願いよ」
この機を逃がさないと、春搖は翔貴へ何度も頼んでいる。
「…わかった。その話を受けよう」
この機を逃がさないとの春搖の押しもあり、翔貴は少し悩んだと燈惺の提案を受け入れた。
明らかに春搖は、燈惺のことを想っている。形だけとはいえ、妻の星華の前でもお構いなしだ。
その後、陵家を出入りできる理由ができ、春搖は上機嫌で帰って行った。
お見送りが終わった後、隣にいた睡月は星華の方を勢いよく振り返る。可愛い顔で、ぎろりと星華を睨んだ。
「良く分かったでしょう。公主様は、ずっと兄上のことを慕っているの。私は兄上の妻は公主様だと思っていたのに、貴方が邪魔をしたのよ。貴方が陵家の嫁だなんて、絶対に認めないんだから」
早口で言い切ると、星華の答えを聞かずに去っていった。腹は立つが、可愛らしい所がどこか憎めない。
「これで、冷酷な死神様の噂を流した人が分かったわね」
「公主様と、睡月様なのですね…」
燈惺に変な虫がつかないように、二人は結託してきたようだ。燈惺は、春搖にあくまで皇守衛として接していた。
彼も賢い。上手く噂を利用して、引く手あまたの縁談から逃げて来たのだろう。
冷酷な死神を春遥が慕っているなど、思ってもいなかった。翔貴が言っていた、面倒なものがついてくるとはこのことだ。
公主相手にどうしろと言うのだ。
「翔貴はわかっていたのに、教えてくれなかったのね」
それに、燈惺はあえて翔貴を出入りさせるように、睡月の琴の師匠を願った。
翔貴と星華の関係を怪しんで探る気だ。
星華には翔貴との関係にやましいことは何もないが、燈惺の疑い深い性格を考えると、大きなため息が出た。
詠星苑のできごとから、燈惺の心は大きく乱れていた。
星華はあのまま詠星苑で過ごしてる。
庭いじりはやめたようだが、剣を向けられてもなおあそこに居続けるとは。彼女の真意がますますわからない。
まして、勝手にあの衣を身につけるとは。
血に汚れたあの場所で、星華はあの衣を着て無邪気に笑っていた。その笑顔はとても眩しく美しかった。
男なら見惚れるほどの可憐な姿だっただろう。それがより燈惺を苛立たせた。
おまけに、あの部屋を出るように説得したが出て行いかないと、睡月は泣きついてきた。
『あの場所で何があったのかわかっていて…出て行ってくれないの』
睡月の言葉を思い出し、燈惺は行き場のない想いに目を瞑る。
いつもあの部屋で、寂しそうに笑っていたあの人の顔が忘れられない。
そして、あの庭で血だらけになって倒れたあの人の姿は、永遠に燈惺を苦しめる。
あれから星華自体に怪しい行動はなかったが、第二王子の登場には驚いた。
春搖たちの見送りを睡月に任せ、書斎に戻り椅子に腰かけ思いにふける。
翔貴が王子の中で、王弟と親しいのは有名だ。王弟の妻の姪である星華と、面識があるのはおかしくないが、翔貴はそれ以上の感情を抱いている。
「第二王子と公主を出入りさてて良いのですか?」
すぐに玄士が書斎まで追いかけて来た。
「殿下に出入りしてもらった方が情報が探りやすい。どうやら、殿下は星華を想っているようだ」
「まさか…」
「お前もまだまだだな。皇守衛は、表情から感情も読み取れるように訓練したはずだが」
玄士も陵家の遠縁として、皇守衛に所属している。忠誠心があり武術にも長けているが、皇守衛にしては心が優しすぎる。
翔貴が星華へ向ける想いは、公主の春遥のようにあからさまな見せつけの感情ではない。翔貴はきちんと線は引いていたため、気づかないのも仕方ない。
「…私の力不足です。しかしそれなら、殿下といえ…星華様を想う男性を自由に出入りさせるとは…」
「形だけの妻だ」
利用するためだけに結婚した。そこに迷いはない。
「…そうはいっても、燈惺様は星華様のことを…気にしておられます」
玄士は不満そうに言葉を紡いだ。
なぜそう思うのか。
驚きで顔を上げたが、玄士は撤回する気はなさそうだ。
「怪しんでいるだけだ。思っていた通り、わざと屋敷の警護を薄くしていたら、間者が入り込んでいる」
どうだと言わんばかりに見上げると、玄士は怪訝そうに目を見開いた。
「星華様が入れたと…。しかし、それならあまりにも堂々としていませんか?」
腕の立つ間者のようだ。玄士が言う通り、星華の仕業と決めつけるのには早すぎる。
「まだあの女の性格は良く分かっていないから、今は泳がせている。ただ、怪しむには十分だろ?」
「…わかりました」
玄士はまだ何か言いたげだったが、部屋を出て行く。
一人になったと思い息をついた時、玄士は意外な人物を連れて戻ってきた。
「燈惺様、…殿下がおいでです」
「ここまで来られるとは、何用でしょうか?どうぞお座りください」
星華に聞かれたくない話のようだ。燈惺は立ち上がり客人用の椅子を手で指したが、翔貴は立ったまま口を開いた。
「燈惺殿のことだ。星華と私のことを疑っているだろうと思ってね。誤解して星華を冷遇しないように伝えておく。私が、一方的に想っているだけだ。星華は、私を実の兄のように思っている」
「これは、驚きました」
この行動は予想外だった。
長い間、二人は見つめ合いお互いの心情を探り合う。
沈黙を破ったのは燈惺だった。
「あなたほどの人がなぜ、あんな女を?」
「口には気を付けろ。お前は星華のことを何も知らないだけだ」
翔貴が怒りをあらわにしたのを始めて見た。
あえて挑発したつもりだが、この反応で偽りではないとわかる。
皇守衛として王宮にいる燈惺は、王族を守る身として、王子達の人格は把握している。
だからこそ、なぜ翔貴ほどの人が星華のためにここまでするのか、余計にわからない。
「まあ、貴方と悪女の噂を持つ女の結婚が許されるとは思いません。死神と悪女ならお似合いだ」
「どうしても、星華を悪女にしたいようだな」
挑発を続けて真意を聞き出すつもりが、翔貴の言葉に少し心が乱れる。
翔貴はその凛々しい容姿でにやりと笑った。星華は悪女ではない。それが、翔貴からの答えだ。
「偶然、藍星華が私の花嫁に選ばれたとでも?私はそこまで愚かではありません」
今の燈惺には何を言われても、星華へ向ける疑念をぬぐうことはできない。
「私の…無駄足のようだな」
燈惺の様子に、翔貴は話にならないと背を向ける。部屋を出て行こうとした翔貴に、なぜか言葉が止まらなかった。
「殿下が愛する女性を駒にするような人とは思っていません。そんな人なら、ここまでの人望などないでしょう。ご心配なく。いくらでも会いに来てもらってかまいません。そして、その時が来たら、いつでも連れて行ったらいい。私の心は全く動かない」
「本気で…言っているのか?」
翔貴は立ち止まり振り返った。普段は穏やかな瞳に、怒りと悲しみが激しく混じっていた。
「彼女には、男遊びは好きにしたらいいと伝えています。事が上手く済んだら離縁するつもりでした。まさか、遊びではなく殿下との純愛があるとは思ってもいませんでしたが」
そう言って、燈惺は口角を上げた。
冷酷な死神、今の燈惺は誰が見てもそう思うだろう。
翔貴は勢いよく燈惺の胸倉を掴んだ。その手は怒りで震えている。
「その言葉、忘れるな。後悔しても知らないからな」
静かな声でそう残すと、翔貴は今度こそ部屋から出て行った。
『その時が来たら、いつでも連れて行ったらいい』
その言葉を後悔する日が来るとは、その時の燈惺は思ってもいなかった。