星の日常
数日後、外が騒がしくなり部屋を出ると、彼が藍家を訪れていた。
凛鳴専用に手入れされた庭の東屋で、美しい琴の音色が響く。力強さがあるのに、優雅で優しい。
琴を弾いているのは、この国の王の息子・第二王子の龍翔貴だ。
白地に美しい刺繍がほどこされた衣が良く似合っている。
普段は凛々しく勇ましさに溢れる端正な顔は、琴を弾く時だけは中性的な美しさを醸し出す。
今日は肩までの髪を下ろしており、使用人までもうっとりと見惚れていた。
美形の王族の中でも、一番美しいと言われる王子だ。
剣術にも優れており、王宮の剣術大会では毎回勝利を掴んでいる。王宮や国中の娘の憧れの人だ。
凛鳴はこれ以上見つめたら、穴が開くのではないかと思うほど翔貴を見つめている。
心地よい琴の音が止まった。翔貴は星華に気づき視線を移す。それを遮るように凛鳴が話しだす。
「殿下聞いてください。星華の縁談が決まりましたのよ」
「そうか。相手は?」
「皇守衛の陵燈星という方らしいです。陵家は名門ですし、側室も持っておらず、星華は正室として迎えられるのですよ。どうか星華の門出を祝ってやってください」
いつもより高い声が響き渡る。星華とは似ていない少し吊り上がった目も優しく垂れ下がっている。
好きな男の前では、凛鳴もただの娘だ。
「あぁ、おめでたいな」
凛鳴からは見えない角度で送られてくる翔貴の熱い視線に、星華は頭を少しだけ下げた。
その夜、琳おばさんの麵屋に着くと、民の衣を着た青年がいつもの席で待っていた。
雨衣は昔の知人の所へ行っているため、途中で別れて来た。時々、雨衣は星華が知らない昔の知人の元へ会いにいく。
星華は迷わず、青年の目の前に座った。端正な顔が真っ直ぐと見つめて来る。
民に扮していても、その高貴さは隠せていない。
「翔貴。貴方はきっと、私より早く知っていたのでしょう」
そう言うと、翔貴はこちらの胸が締め付けられるほど切ない表情をしていた。
「叔父上の命令だ。何度もかけよったが、今回は止めることができなかった…すまない」
今まで凛鳴により酷い相手を選ばれそうになるたびに、翔貴が陰で動いて縁談を壊してくれた。
両親が亡くなってしまった今、この世で心から星華を想ってくれているのは、雨衣とこの国の王子である翔貴だけだ。
「星華…私と逃げるか」
本気で言ってくれている。そうわかっているからこそ、苦しくなる胸を押さえて首を横に振る。
「私には…逃げる場所なんてないもの」
両親を亡くしてすぐの時は、雨衣と共にあの屋敷を出ようとしたが、見つかっては連れ戻されるのは繰り返しだった。
今の状況で逃げたとしても、結局捕らわれて翔貴までも罪を問われてしまう。
「星華…私は…」
翔貴は星華の手をとると、痛いほどの力で包み込んだ。しかし、その先は星華によって遮られた。
「私は貴方と雨衣が家族でいてくれたら、それでいい」
あの惨劇の日、隠し扉に身を潜めていた星華を見つけてくれたのは翔貴だった。泣いて震える星華を強く抱きしめてくれた腕も震えていた。
すくむ足で庭に出ると、王弟が手配した私兵が庭中に倒れていた亡骸たちを運んでいた。
翔貴に手を繋がれ支えられながら、両親の亡骸を見た。両親は抱き合うように倒れていた。
二人は最後まで深く愛し合っていた。
母は命を失うことをわかっていてもなお、あの時父の元へ駆け寄った。
それならば、なぜ星華も一緒に連れて行ってくれなかったのだろうか。
両親にしがみ付き、泣きさけぶ星華のそばに翔貴はずっといてくれた。
翔貴は、握った手を絶対に離さなかった。
星華の両親と伯母が生きていた頃は、王宮で星華と翔貴は良く一緒に遊んでいたらしい。その記憶が薄くなってしまってからも、翔貴だけは変わらずにいてくれた。
翔貴がわざわざ藍家で凛鳴に琴を教えているのも、自由に外出できない星華の様子を知るため。
表向きは疎遠になった振りをしているが、いつだって遠くから星華を守ってくれている。
王子の政務をこなしながら、琳おばさんの麵屋まで今日もこうして会いに来てくれる。
あの時翔貴がいてくれたから、今もこうしていてくれるから、星華は今ここにいる。
その手を離す時が来たようだ。
長い間、二人は見つめあう。翔貴の瞳から涙は零れていなかったが、泣いていると星華は思った。
「星華、私は決して…諦めない。君と共に自由な暮らしをするのが私の夢だ。今もその夢は変わらない」
「昔よく語り合ったわよね。懐かしい」
両親を失ってからの数少ない楽しい記憶だ。懐かしくて、あの時のことを思い出すと自然に笑みが零れる。
翔貴と雨衣と自由に過ごせたら、どれだけ幸せだろうか。何度も夢みたが、忘れては行けない。翔貴はこの国の第二王子だ。
翔貴が抱えているのは、この国だ。
「星華…それなら」
「もう決めたの。この縁談から逃げたら、皆に迷惑をかける結果になる。私は自分のためにも、陵家へ嫁ぐわ」
その決意は、不思議と固かった。このままあの屋敷にいても何も変わらない。だからと言って、翔貴と逃げることもできない。
それならば、新しくできた道を進むしかない。
「もしや、両親の死を探る気か?」
途端に、翔貴の顔が険しくなる。この表情の時は、翔貴はまるで親のように心配性になる。
「まあ、それも少しはあるけれど…」
「それなら、なおさら駄目だ。あの事件を掘り返すことはあまりに危険すぎる」
口ごもっていると、目の前には珍しく怒った翔貴の顔だ。
普段優しい人を怒らせると面倒だと、翔貴によって学んだ。怒りを鎮めさせるため、星華は笑顔を浮かべる。
「わかった。わかった。危険なことはしないし、もちろんそれだけではないわ。そりゃあ、今までは縁談を避けて来たけれど、よく考えたらあの屋敷にいるより良いかもしれない。ちゃんとした食事も出て、衣もあって、部屋もあるかもしれない。ねっ?」
両手を顔の前に上げて、降参の振りをする。
眉を下げて見上げると、翔貴は堪えきれず笑みを零し、変わってないなと呟いた。
そして、人差し指で星華の頭を優しくつつく。
「陵燈惺は思っているより手ごわいぞ」
「やっぱり、会ったことがあるのね?」
「あぁ、立場上会ったことはあるが、あれは喰えない男だ。奴の武術は私と同等か、それ以上。こたびの羅国との戦は、陵燈惺がいなければ確実に敗北していただろう。数少ない兵を率いて、敵陣へ乗りこみ勝利を収めて来た。武官だが戦略にも長け、頭も切れる。そのかわり、何を考えているか読めない」
「難しそうな相手なのね…」
麵屋の手伝いをしながら、星華も結婚相手の情報を集めてみた。
陵燈星は、泣く子も黙る皇守衛だ。
皇守衛は普通の近衛兵や、軍兵とは違う。
直接王を護衛し、王に関する事件を取り扱う選ばれし武官たちだ。
民たちにとって皇守衛は雲の上の存在で、王宮でもその存在は特別だ。
高官などの不正なども皇守衛が調査にあたるため、高官たちからも恐れられているという。
かなり危険で厳しい試験を通らなければ、まず皇守衛になることはできない。
武術に優れているのは当たり前、王の命ならば仲間の命を奪うことさえ必要となる職のため、冷酷さも必要と聞いた。王のためならば戦上にも出る。
陵燈星は武術に優れ、つい最近まで隣国との戦に出て勝利を収めてきている。
長い間、龍永国は羅国との戦に苦しんできたが、まだ若い凌燈星の働きで属国としての和平を結ばせたという。
その功績をたたえられ、皇守衛第二部隊の指揮官の座を与えられた。
第一王子との後継者争いに巻き込まれぬよう、しかし、第二王子の威厳と存在を保ちつつと、王宮で上手に人付き合いをしている翔貴に喰えないと言わせる男は中々いない。
「叔父上に、陵燈惺、星華…君は王宮の曲者に達に今囲まれている。もう少し危機感を持ってくれ」
そう言いながら、翔貴は星華の頭を荒々しく撫でる。翔貴の癖だ。
「わかってるわ。でも、一つ気になるのが、長い間王弟とは会っていないのにこの縁談の話が来た。王弟の考えを知りたくて、王弟に挨拶に行きたいと駆け寄ってみたけれど、理由をつけて断れたわ」
何のために、星華を陵家へ嫁がせたいのか。
今の星華の状況を見ても、王弟が得することはないように思える。
「陵燈惺の方も今まで多くの縁談を断ってきている。叔父上の命と言えど、今回の縁談を受けたのには何か理由があるはずだ。ただ星華を歓迎とは行かないだろう」
そこで星華は声を上げた。あんな噂がある陵燈惺に多くの縁談とは、どういうことなのだろうか。
「待って、なぜ?陵燈惺は冷酷な死神と恐れられていると聞いているわ。だから、凛鳴も私を嫁がせたいのよ」
麵屋のお客たちも冷酷な死神の噂は知っていた。
噂を信じるなら、誰も喜んで嫁ぎたいと思わないだろう。
翔貴は黙ったままだったが、星華が見つめ続けると、重たそうに口を開く。
「…凛鳴は王宮に上がったことがないから、実物を見たことがないのだろう。噂は知っていても、王宮で奴を見た娘は態度をかえる。まあ、会ってみたら噂の真意がわかるだろう。きっと面倒なものもついてくる。そのおかげで私も陵家の屋敷へは良く訪れることが出来そうだ」
「どういうこと?」
「ほら、麺が出来たわよ」
なぜか悔しそうな翔貴の真意が気になるが、琳おばさんが熱々の麺を持ってきてくれた。
翔貴が頼んだのか、おかずまでたくさんついている。
「おばさん。ありがとう。ほらたくさん食べろ」
翔貴は話の続きを避けるように、星華の口におかずを詰め込んだ。
とうとう愛する女性が、他の男へ嫁ぐ時がやってきた。
屋敷へ帰っていく星華の背中を見つめていると、後ろから雨衣が現れる。二人は人目がつかない場所へ移動した。
「凛鳴の様子は?」
「星華様の縁談が決まり毎日ご機嫌ですが、三日前に凛鳴様の食事が遅くなったということで、星華様はまたお仕置き小屋へと入られました。棒打ちはありませんでしたが…平手打ちを一度浴びせておりました」
「相変わらず許せない。私の前では決してそんな素振りは見せないくせに、大した名演技だ。反吐がでる」
穏やかな姿が嘘かのような翔貴の冷たい声が響く。しかし、その表情は苦悶へと変わった。
星華を守るために、自分だって凛鳴の前では優しい王子を演じている。心では星華を傷つける凛鳴を軽蔑し、決して許さないと思っているのに。
翔貴が傍にいれば、凛鳴は星華を雑に扱わない。
猿芝居をしてでも、藍家に出入りできるのは都合が良かった。
こんな縁談に星華をとられるのならば、全てを捨てていれば良かった。毎日、後悔を繰り返している。
「翔貴様、陵家は星華様を本当に受け入れてくれるのでしょうか…」
「陵燈惺は、おそらくあの事を探るために縁談を受け入れたのだろう」
「星華様は…何も知りません」
「あの事を知ったら、星華は見過ごすことができないだろう。伯母の死にも関わるからな。あの事は深く知られないように徹底的に注意してくれ」
「わかりました。他には?」
翔貴が秘密を共有しているのは二人。
雨衣は星華さえも知らない星華の秘密を知るもう一人の者だ。
四年前、雨衣を星華の侍女にしたのは翔貴だ。
「叔父上の真意はまだわからない。今まで通り、星華に力のことを知られないように守りとおしてくれ。腕輪だけは絶対に外させてはいけない。あの子は、また人のために力を使ってしまう。何かあったら、すぐに私を呼べ。今まで通り頻繁に報告はできないだろうが、可能な限りであの子の様子を教えてくれ」
「はい。しかし、陵家に疑われないでしょうか…」
「奴は何にしても疑うだろうから、逆に堂々と行こうではないか」
後悔の日々の中で強くなる想いがある。何があっても、あの輝きを守りとおして見せる。
母を亡くし孤独の中にいた翔貴に手を差し伸ばしてくれたのは、たまたま王宮に訪れていた星華だった。
あの時の彼女の笑顔は、星のように眩しかった。
いつもの隠し扉で屋敷へ戻ると、使用人の男達が待ち構えていた。引きずれられ凛鳴専用の東屋の前へと連れていかれる。
「…相変わらず乱暴者ね」
星華は、東屋で優雅にお茶を飲んでいる凛鳴を見上げた。
「勝手に屋敷を出て行く方が悪いでしょう。誰と会っていたの?」
そこが気になってたまらないらしい。
「話す必要はないわ。ここではまともな食事ができないから、外にでているだけよ」
「お金もないのにどうやって食事をするの?泥棒でもしているのかしら」
「私が誰と会っているのか…そんなに気になるのね」
「打ちなさい!」
凛鳴の一言で、星華は男達に体を押さえられ、太い棒で体を打たれる。
傷が見えないように、衣で隠れる背中やお腹を狙われる。それも凛鳴の指示だ。
こうして罰を受ける時は、星華に彼の影が見えた時だ。凛鳴もわかっているから、怒りを抑えきれないのだろう。
「気になるなら、知らない方が良いわ」
その言葉に、凛鳴は顔を真っ赤にして立ち上がった。しかし、考え込むとにやりと微笑む。
「あれ、雨衣もいないわね。主人の躾がなっていないせいよ。帰ってきたら、私が教えてあげないとね」
「いつも言っているでしょう。私にはいくら怒りをぶつけてもいいけれど、他の人は傷つけないで。雨衣の分も私が受けるわ」
凛鳴は、星華の他人を犠牲にできない性分を良く知っている。
「貴方の使用人想いは素晴らしいわ。倍にして返してやらないと。やりなさい」
打たれるたびに顔を顰め、押さえきれない声を上げる星華を見ながら、凛鳴はお菓子を食べ始めた。
これが彼女なりの復讐なら、こんなもの耐えてみせる。他人を傷つけない限り、この哀れな従姉妹を見放さないと決めたのだ。
雨衣が帰ってきたところで、棒打ちはやめられた。凛鳴は雨衣だけには一目置いていて、存在を利用することはあっても、直接手を下すことはない。
「…酷すぎます」
「大丈夫よ。部屋に戻りましょう」
部屋に戻ると、雨衣がすぐに薬を取り出して衣を脱がしてくれる。
「星華様、凛鳴様への仕返しをお命じください。私には簡単です」
「だめよ。貴方の素晴らしい腕がもったいないわ。大丈夫だから、ほら見て。凛鳴に負けない名演技だったでしょう」
と言って、星華は子供のようににやりと笑って見せる。衣の下には、胸から下を守るように古い布がぐるぐる巻きにまかれていた。これなら、痛みを和らげることができる。
星華もただやられているわけではない。
この理不尽な屋敷で生きていくために、それなりに作戦を考えている。
雨衣はぐるぐる巻きになっている星華を見て思わず笑ったが、すぐに仏頂面に戻り布をはがしていく。
「確かに何もないよりはましですが…ほら赤くなってますよ。痛くないはずがありません」
雨衣は赤くなった背中に薬を塗っていく。翔貴からもらった王宮の良く効く薬だ。
この薬のおかけで、今までうけたたくさんの傷の痕は薄くなってくれたが、とても染みるのだ。
「痛い!叩かれるより痛いわ…」
結局、屍部屋からは星華を悲鳴が聞こえることとなった。こうして、残り少ない藍家での日々が過ぎていく。
都の西方に堂々と立つ陵家の屋敷は、今日もどこか重々しい。
陵家は名門貴族にあたり、代々武術に長けた人材が多く、王宮や都の危機を救ってきたため王族からの信頼も厚い。
屋敷の主である陵燈惺に仕える玄士は書斎で書物を読む主へと視線を送る。
二十歳の玄士より二つ上の主は、二十二歳とは思えない貫禄を放つ。
「燈星様、本当に縁談を受けるのですか?」
「あぁ」
相変わらず淡泊な返事に、小さなため息をつく。主は椅子に掛け、水晶でできた小さな珠をただ見つめている。
「貴方という人が、あんな噂がある娘をなぜ」
陵家にも、藍星華という娘の噂は十分伝わっていた。美貌を盾に、我儘、贅沢し放題で、男遊びが酷い。彼女と契りを交わしたとい男は数知れずいると。
また、ともに住む従姉妹をいじめ、民へも横柄な態度で悪評高い。
「仕方がない。切れたはずの王弟との縁ができる。これで兄上たちの死を探れる」
「…とうとう調査に力を入れるのですね」
「羅国との戦もようやく終わった。陛下の信頼も得たところで、王弟からの縁談だ。彼は唯一の手掛かりでもある」
「逆に利用するというのですか?しかし、解せません。王弟と凌家には、あの事件により溝があるはずです。王弟自ら姪の縁談相手に陵家を選ぶとは…」
「表向きは、その溝を解消するための縁談だ。向こうも魂胆があり姪を送るのだろう。しかし、その姪は血の繋がりもなく、名だけの藍家だ。良い捨て駒なのだろうな。噂通りなら相当の男たらしだ。私が相手しなくてもいいだろう。嫁いできて怪しい行動をとるようなら、すぐに調べ処分するだけだ。ここへ来る前に、その女の動きや情報も調べてくれ」
「はい」
主の表情は読み取れない。
正義に忠実な人だが、感情を全く出さない人だ。きっと結婚した女性とも愛など交わすことはないだろう。
未来の花嫁に少しの憐みを感じた。