長い一日
「にしても……儂も溜まっとるしのう……」
精霊は、触れはしなかった。あくまでただ、僕に囁く。それだけだ。それ以外は何もしない。僕から動くのを、じっとりと待っているのだろう。僕は女性と交際をした経験などない。幼馴染の女の子も許嫁もいないし、学校での生活の中で良い関係になった人もいない。強いていうなら、僕はアリガさんに好意を寄せている。それだけ。だからこそ、こうなった時、どう対応するのかわからない。これでも魔法について、戦闘について、体術について、魔術式について、歴史についてと、様々なことを学んできたつもりだ。しかし、こうなってしまった時の事など、学習しようと思ったことさえない。
「深く考えるな……お主は、どうしたい?」
精霊の悪魔のささやきが、僕の頭をぐちゃり、ぐちゃりと悪戯にかき混ぜている。気分が変だ。どう形容したらいいのかわからない。とにかく変なのだ。ドクドクと心音が体中を駆け巡る。
「ぼ、く……は」
精霊は、今にも失神してしまいそうな僕を脇から見つめている。吐息が首筋に当たるたびに、ゾクゾクと背筋に何かが走る。ゆっくりと息を吸う。そして吐く。まず、心を落ち着かせなくてはならない。そして、僕がしたいことが何か、しっかりと考えなくてはならない。向き合う時が来たのだ。僕も男だ。躊躇うことだってある。正直、実行することに、罪悪感を感じる。しかし、この状況を、どうにかする為には、行わなくてはならない。ぐっと拳を握り締め、歯を食いしばる。震えをぐっと抑え、決意する。
「ッ――!」
* * *
「なんで……なんでえ……」
グリヘイリスは頭を抑えながら蹲っていた。正直僕だってこんなことはしたくない。しかし、あんな状況になってしまってはやるしかない。初めての経験だった。かなり勇気が必要だった。女の子の頭を思いきり殴るという行為は……
「僕だって、やりたくてやってるわけじゃないです」
「嘘じゃ嘘じゃ! どーせあれじゃろ! いたいけな女の子を虐げるのに快感を覚える変態じゃろ! この犯罪者!」
僕の拳に衝撃が走る。彼女にはその衝撃と同程度の痛みが走るはずだ。
「いッ――たあああ! きさま! さては殴っても何もしてこないからこいつは好きなだけ殴れるとか思っとるな!」
「いいえ。精霊様や神様に粗相を働いたらどうなるのか実験しておりまして。どうやら迷信みたいでがっかりです」
「おぬぉれぇ……」
グリヘイリスはカーペットをがりがり噛みながら顔を可愛らしい怒りで染めていた。そんな埃まみれのカーペットを口に入れたらおなかを壊してしまいそうだ。僕はそう思いグリヘイリスの腹部を見る。少女であるにも関わらず、彼女の服装はとても過激な物だった。彼女の未発達な胸の膨らみの……中心部というかなんというか、とにもかくにも、そこを隠す為だけの、紐に金で作られたであろう飾りがついた何か。おそらく下着にあたるのだろう……とにかく、かなり露出の強いものを着用していた。殆ど紐のようだ。
正直、女の子が着用していると、性欲が掻き立てられるというより、この奇妙な光景に対しての恐怖心を感じる。この恰好は、踊り子だろうか?
それと、僕より少し年上の女性が着用しているのであれば、納得というか、素直に受け入れられるけれど、容姿も、あと中身も少女が着用しているとなると、悪意ある大人とか言う下衆に騙されているようにしか見えない。正直、こうして彼女に視線をやることに罪悪感さえ感じてしまう。
「……んぅ?」
アリガさんがゆっくりと目を開け、寝ぼけ眼で僕達を見つめている。どうやら僕とグリヘイリスの小規模な争いの音で目覚めてしまったようだ
「あ、え……」
どうしたものか。どうやってアリガさんにこの状況を説明しよう。壁と床は穴だらけで、部屋には僕と淫りがわしい少女、精霊グリヘイリスがいる。これを上手くまとめて納得させられる話術を僕は持ち合わせていない。それを見たアリガさんはなんて思うのか、とにかく考える。敵かと思うか、それとも僕に不信感を抱くか、はたまた別の何かか?
わからないけれど、とにかく返答を考えねばなるまい。どうだ……? どう出るんだ?
その時が来る。アリガさんの半開きだった目がバーっと開き、周りを見つめ、口をあんぐりと空ける。そして僕を見つめ――
「……ずいぶんと激しくやったのね」
そう呟いた。
「え?」
予測不能である。アリガさんは手ごわかった。
――
アイラ・ホールネットは怯えていた。彼女は国を、世界を魔族の手から護るべく、日々命を懸け戦っているSS級魔術師の元に生まれた。そこで一人娘として育てられてきた彼女は、やがて八人目のSS級魔術師になるべく、鍛錬を積み、そしてその夢を叶える、はずだった。
「お嬢様、あの無粋な犯罪者に、判決が出たようです」
暗い赤色のタキシードの男、アイラ専属の執事、グッシュがそう告げる。アイラは頭を下げ、震えていた。そして願っていた。
「アイラ様がこのような状態になってしまうなんて……」
違う。アイラは叫びたかった。しかし声はもう出せない。何も言うことさえできない。誰かを見ることも、真実を話すことも出来ない。父と母は数年前から魔族との戦争に行って帰ってこない。アイラの嘘を見透かせる者は居ない。アイラの口から告発されない限り、誰も真実を知らぬまま、この事件は解決される。
貴族を強姦しようとしたアスタリア学院生。
とあるアスタリアの男子生徒が、貴族(被害者、加害者両方の名前は伏せられている)を路地裏で襲おうとしていた所、魔力の流れを偶然察知した警備隊の者が発見。その場で逮捕、されたはずが、加害者の少年は突然失踪。これが事件の真実だ。アイラが口を開かぬ限り、これが真実としてアスタリア王国中に、新聞屋を通して伝わっていく。
「失踪とされていますが、大陸送りの刑に処されたようでございます」
大陸送りの刑、それは、魔族に支配され、謎の赤い粒子によって人間が足を踏む入れる事が一切できない未開の大陸に送られる刑である。赤い粒子についての研究は十六年前に停止しており、それ以来研究は進められていない。もう必要がない。ということなのだろう。赤い粒子を摂取した生物はゆっくりと細胞が壊死して死んでいく。これは現在の医療では治すことも症状の悪化を抑えることもできない。大陸送りの刑にされるほどの罪が何なのか、全く分からないが、今まで大陸送りにされた罪人の罪状からして、貴族に害を加えると、この刑に処される。
しかし、いくつか謎がある。大陸送りにされた罪人の罪状と、死刑にされた罪人の罪状が同じなのであること。貴族を殺したり、貴族に性的暴行を図ったり。何故、死刑以外でなくてはいけないのだろうか?
「ところで、この話をよくエリグ様にお伝え出来ましたね。とても勇気のいることです。お嬢様は頑張りました」
「え?」
「未成年間で起こった犯罪に関しては、両の親権者と裁判所がしっかり話し合いをしなくてはなりません。偽装などを防ぐためだそうです。意味があるかはわかりませんが。つまり、アイラ様がエリグ様、ライザック殿にお話をする、あるいは他の者が代わりにお伝えして、裁判所まで足を運んでもらわなくてはなりません」
「ごめんなさい。ちょっとわからないわ」
「申し訳ございません。私も法については疎いもので――」
「違う……私、このことをグッシュ以外に話してないわ……」
「では、どうやって……」
「グッシュ、まさかあなた!」
他の誰かから親権者に話が渡り、親権者が王国へ確認を取り、起こった事件が事実であると確認が取れれば、裁判を起こすことが可能だ。グッシュがアイラの話を、エリグかライザックに伝えれば、条件は満たせるのだ。
「まさか! 私はお嬢様との約束を破ったことは断じてございません!」
「二度、お菓子を貰えなかったことがあったわよ」
「そ、それは失礼いたしました……ですが誓って、この話を他の誰かに伝えるようなことはしておりません」
グッシュは胸に手を当て、アイラに深く礼をする。アイラはふと目をやり、先程まで見ていた、無を見つめる。壁でも床でも何でもない。何も見たくないが見えてしまっているので、どこでもない何か。
「大陸送り……あいつはどっちみち……」
ロビルガの顔が頭に浮かんだ。魔術が使えもしないのにも関わらず最高峰の魔術学校であるアスタリア学園に在籍しているクラスメイト。今まで努力を重ね、やっとの思いで学園に入学し今魔術師としてそれなりの階級に属しているアイラにとって、彼はとてつもなく鬱陶しく感じるのだ。自身が誇りに思っていた、入学するまで、ずっと憧れていた学園に、魔術が使えない人間がいることが、許せなかったのだ。
最初は、筆記試験満点の実力者ならば、教え込みさえすれば、自分と並ぶまではいかずとも、それなりの魔術師にはなると思い、積極的に関りにいっていた。彼はかなりの聞き上手で、話していて心地よかったのを覚えている。
しかし、自身が何度教えても全く進歩しない彼の動向に、どんどん憤りを感じるようになり、そして、それはやがて、言葉になり、行動になった。アイラは貴族、それも、魔術師なら知らぬ者は居ないであろう、ホールネット家の令嬢だ。そんなアイラが、ロビルガ、彼を嫌っているという情報はすぐに拡散された。そして生徒は彼女の味方に付いた。彼に危害を加える生徒は日に日に数を増し、彼の居場所は殆どない状態になった。唯一、同じクラスメイトのリーフェという女子生徒は、彼と仲良くしていたらしい。
そして今、彼が居なくなった今、自身の言動に後悔し、自身の愚かさに蝕まれている。しかし、ロビルガはもっと心身ともに辛い思いをしてきたはずだ。辛い思いをさせてきたはずだ。様々な感情は、アイラの中で暴れ回り、今日もアイラを苦しめ続ける。あんなことをしなければと思っていても、今更もう遅い。起きてしまったことは取り返すことは出来ない。そして彼に関しては、もう取り戻すこともできない。
「グッシュ、一人に……」
「……かしこまりました」
アイラはか細い声で執事のグッシュに命じる。グッシュはアイラの部屋の戸を開き、部屋から出て行った。
「……ごめんなさい」
謝って許されることではないし、泣きたいのは彼の方だと理解しているつもりだったが、アイラはそうすることしか出来なかった。この行為が自身の精神を守るための事だともわかっている。この状況でも、自分の事しか考えて居ない事実に吐き気を催す。しかし止めることは出来なかった。
そうして、アイラ・ホールネットの長い長い一日は幕を下ろす
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