第七話:早すぎるキャロル
「チョウさんなんでしょ?」
想定外の展開に何も言えないでいるぼくに、飛瀬さんは畳みかけた。ぼくは、どういうわけかものすごい勢いでどっどっどっどっと鳴っている心臓が落ち着いてくれるのを願いながら、急激にカラカラになってしまった口を開いた。
「なんでわかったの……?」
飛瀬さんは一瞬目を見開いて、それからゆっくりと一つ、息を吐いた。
「まさかと思って言うだけ言ってみたんだけど、本当にそうなんだ……」
「はったり!?っていうかそうだよね、普通そう思わないよね。えっ本当になんでわかったの?」
パニックになってワタワタしているぼくに、飛瀬さんはちょっと頬を緩ませた。
「今日一日ずっと、なんかおかしいなーとは思ってたんだよね。「ジンさん」が妙に、あたしのことよく知ってるみたいな気の使いかたしてくれるから。左利きとか熱いのだめとか、知ってるはずないのに。なぁんかチョウさんみたいだなー、そういえば話しかたとか似てるなーって」
「ぜんぜん無意識だった……話しかたとかよく気づいたね」
体重が全然違うから、声もけっこう変わってるのに。
「それにチョウさん、何回もあたしのこと「飛瀬さん」って呼ぶんだもん。お兄ちゃんもいるのに変だなって」
「うっまじで?うっかりだった……」
しまったーとうなだれるぼくの顔を、飛瀬さんは覗き込むようにしてまじまじと見てきた。
「言っといてなんだけど、ぜんっぜん信じらんない。チョウさんなんだなって納得はしてるけど、めーっちゃ違和感。ねぇ、どうなっちゃってこうなっちゃてるの?」
「うーん、話せば長くなるんだけどね」
ぼくは若かりし日の父とジーン、そしてそこから生まれた呪いの話をなるべくかいつまんで話した。いちいちびっくりしたリアクションをしながらも真剣に聞いてくれていた飛瀬さんは、ぼくが話し終えると「はぁー」と感心したような声を出した。
「呪いってそんな。まじであるもんなの?ディズニーの世界じゃん」
「ね。ぼくも実際こうなるまでは信じてなかったよ、正直」
「ていうかそのジーンて人、何者なの?悪い魔法使いってこと?」
「んー。悪い、とも言い切れないんだよなぁ。なんだかんだ色々アドバイスくれるし、ぼくももはや親戚のお兄さんくらいの感じに思ってるっていうか」
なにそれチョウさんらしーい、とちょっと笑ってから、飛瀬さんは少し考え込むような顔をして「でもさ」と続けた。
「なんでもっと早く教えてくれなかったの?そりゃあはいそうですかってすぐ信じられる話じゃないけどさ、今のこれがほんとのチョウさんなわけでしょ。なんとか同一人物だって証明する方法も、なんかあったんじゃないの」
ちょっとだけ怒っているような様子で言う飛瀬さんに、ぼくは思わず大きなため息をつきながら、
「それがまたややこしいところでだね」
と返した。
「もしかしたら、今年の年末にはまた元に戻っちゃうかもしれないんだよね。細かく言えば、えーっと、クリスマスのちょっと前、二十一日かな」
「へ、そうなの?」
「うん。それこそおとぎ話と一緒だよ。その日までに「真実のキス」ができないかぎり、呪いはちゃんとは解けないんだって」
「なんだそれ、ロマンティックか!」
飛瀬さんは芸人のように手をつけながらツッコんだ。
「ロマンティックっていうかドラマティックなんだよ、ジーンは。そういうわけで、今のところかなりの高確率で前のぼくに戻っちゃいそうだから、まぁ今年のあいだは様子を見ようかなと思って……。ほら、焼肉屋も新しいバイトの人が入るかもじゃん?そうなったらもう、どう説明すればいいのかって感じだし」
「なるほど」
「ごめんね、何も言わないで消えちゃって。あまりにも現実離れした話で、ぼくもいっぱいいっぱいだったっていうか。急だったからシフトも迷惑かけたよね」
すみませんでした!と頭を下げると、気にすんなよーと言いながらバシバシと肩を叩いてくれた。
「……真実のキス、ってさ。できそうにないの?」
飛瀬さんは、今度はちょっと気まずそうなトーンで聞いた。
「どうだろ。望みは薄いかなーと思ってるけど」
言いながらさっきのキノの言葉を思い出して、ちょっとだけ希望を持っている自分に気がつく。そんな単純じゃないってわかってるけど、あんなに大切だって思ってくれてるってことは、もしかしたらってことも……?
「いるんだ、チョウさん。真実のキスしてほしい人」
「えっ。あぁ、うん。まぁ」
「それってキノさん?」
ずばり聞かれて、なんだか急に照れ臭くなってくる。
「……うん。誰にも言ったことなかったけどさ、ずーっと片想いしてきたから」
口に出してみて、突然ふっと胸のあたりが軽くなったのを感じた。そっか。ぼくは知らず知らずのうちにずっと、キノを好きな気持ちに蓋をしてきたんだな。こんな恋心持ってたって意味ないって、なるべく見ないようにして、誰にも話さないで。呪いのことがなかったら、きっとぼくは一生、この気持ちと真っ直ぐ向き合うことはなかった。蓋を開けるのはものすごく怖いけど、でも同時に自分自身を許してあげているようでもあって、ぼくはほんの少しだけジーンに感謝したい気分になった。ほんとに少しだけ。
「そうなんだ。そっかそっか。呪いのことは、もちろんキノさんも知ってるんだよね?」
「うん。ぼくだってバレないために、キノも色々ごまかしてくれてたんだよね」
「あ、じゃあ彼氏って言ってたのは……」
「嘘うそ!全然そんなんじゃないんだ。ほら、ぼくあんな感じだったし?そもそもそういう対象としてまったく見られてないっていうか」
「……そんなことないと思うけどなー」
「今だったらさ、チャンスあるかもって思ったんだけど。やっぱだめだねー、もうすっかり関係性ができちゃってるから。外見が変わったくらいじゃどうにもなんないのかな」
中身はおんなじぼくだしなー!と、思わず夜空に向かって嘆く。
「色々かっこつけようともしたんだけど、ことごとくだめだったし。今日もなんか、六海さんのほうがよっぽどかっこよくて、キノがときめいちゃうんじゃないかってヒヤヒヤしちゃって」
「お兄ちゃんは大丈夫だよ、心配しなくても。それにさ、あたしはチョウさんいい彼氏要素いっぱいあると思うな。料理うまいし、めっちゃ気が利くし」
一生懸命なぐさめてくれる飛瀬さんに、嬉しいような情けないような気持ちが溢れてくる。うぅ、ありがとう……。
「……やっぱり、告白するしかないよなー」
暗闇に向かって呟くように言うと、飛瀬さんは一呼吸置いてから、
「そうだよ、やっぱはっきり言わないと伝わらないよ!アイラブユーって」
と茶化すように言った。
「でも正直ぜんぜん言える気がしないよ。考えただけでめちゃめちゃ緊張するし、普段どおり遊んでるときに言っても、冗談だと思われそうな気がする」
「えぇー?まぁでも、十何年も知ってる相手だったらそうか。なんかないの?ちょうどいいイベントっていうか、あらたまった話ができそうなタイミング」
「うーん、ちょうどキノの誕生日が来月だけど」
「それだよ!なんか特別なお祝い考えてさ、その流れで言ったらいいじゃん。真剣な雰囲気で」
一緒になって考えてくれる飛瀬さんに、ありがたさが込み上げてくる。持つべきものは友達だなぁ。
「だね、なんか考えてみる!ありがとう飛瀬さん。飛瀬さんも、なんか悩みとかあったらなんでも聞くからね!大したアドバイスできないかもしれないけど」
「……うん、ありがと」
そういえば、飛瀬さんは彼氏さんとどうなんだろう。前にちょっと悩んでるみたいだったけど……。聞いてみようかなと一瞬口を開きかけたけど、もしかしたら話したくないかもしれないと思い直してやめておいた。飛瀬さんが話したいってなったら、いつでも聞こう。
「さすがにちょっと眠くなってきちゃった。テント戻ろっか」
ランタンを持ってテントの方に戻っていく飛瀬さんの背中を、ぼくはなんだか名残惜しいような気持ちで追いかけた。
『女性がもらって嬉しかった誕生日プレゼントランキングTOP10!堂々の一位はやっぱり定番のアクセサリー』
「うーん」
「白鳥くん、お待たせ。むずかしい顔で何見てんの?」
「あ!いやぁちょっとね……」
楽しかったキャンプから二週間。店じまいの後、女性陣の着替えを待っている間になにげなく見始めたネットのページをすっかり真剣に読んでしまっていた。ノーマの制服からテニス選手が着てそうなデザインのワンピースに着替えた塩原さんが、スマホを覗き込んでくる。今日はお店を閉めたあとにみんなで飲みに行くことになっていた。
「もりやーん、先に行っちゃってていーいー?」
「うん、これだけ仕上げたら追いかけるから、先にはじめちゃってて」
厨房で明日の仕込みをしている守谷さんがそう言うので、ぼくらは先に店を出て予約してある居酒屋に移動し始めた。そうだ、せっかくだし身近な女の人たちの意見を聞いてみようかな。
「あの、ちょっと質問なんだけど」
「うん?なになに?」
スマホの地図を見ながら佐藤さんが応える。今日のお店は初めて行くところで、予約は佐藤さんがしてくれた。最近知り合ったかっこいい警察官のおすすめらしい。
「誕生日プレゼントって、どういうのもらったら嬉しいもの?やっぱりアクセサリーとか?」
「えー、アクセはやめといたほうがいいよ」
スマホから顔を上げて、佐藤さんは苦々しい顔をした。
「シュミじゃないやつもらったときめっちゃ困るもん。前に付き合ってた年上の人がさ、出張でメキシコ行ったからお土産って、すごい怖いお面みたいなのがついたネックレスくれて。高かったんだーとか言われたら着けないわけにもいかないし……いつもポーチに入れてて、会う直前に着けてた」
「まじか」
でもそうだよな、身に着けるものは好みがあるし。キノはいつもシンプルなのを着けてる気がするけど、具体的にどんなのが好きっていうのはよくわかんないかも。
「私が嬉しかったのはー、この前の誕生日にコーぴがくれた日めくりカレンダーかなっ」
「え、カレンダー?」
ランキングにまったく入っていなかったものを登場させた塩原さんに、思わず聞き返す。
「うん。手書きの日めくりカレンダー。私の誕生日からきっかり一年分」
「て、手書き!?」
コージさん、手間ひまがハンパない……!
「そう、毎日コーぴからの愛のメッセージが書いてあって、毎月の付き合った記念日には二人のツーショットが印刷してあるの」
「うわぁ、それ冷めたとき超いらないやつじゃん」
「不吉なこと言わないでよ!」
茶化す佐藤さんに、塩原さんが本気のトーンで怒る。コージさんとうまくいってるみたいで、紹介したこっちもなんだか嬉しい。
「聖川さんは?旦那さんにもらって一番嬉しかったものってなんですか?」
年上の意見も聞いてみたくて、聖川さんに話を振る。
「うーん、身に着ける系でも嬉しいけどね。兼ちゃんおしゃれだし、服屋さんとか私より詳しいから。でも一番嬉しかったのは……」
聖川さんはどこか遠くを見つめて少し考えると、なぜかにやにやとした笑顔を見せた。
「……ここではとても言えなーい!」
「えーなにそれ!気になる」
きゃいきゃい盛り上がっているうちに、目的の店に着いた。あんまり参考にならなかったな。他にぼくの周りで、プレゼントとかそういうのに明るそうな人といったら……。
「で?なんでおれがショッピングに付き合わなきゃいけないわけ?」
有楽町の時計台の下に現れたジーンは、優雅な所作で腕組みをするとそう言い放った。透ける素材のシャツに裾の広がった黒のパンツ、透明なフレームの大ぶりな眼鏡をかけて、今日もばっちりキマっている。
「いやだって、ぼくの周りでプレゼント選びのセンスがありそうな人なんて、ジーンくらいしか思いつかなくて」
守谷さん経由で頼んだところ、ジーンは「はぁ?めんどくさいんだけど」なんて言いつつも結局は来てくれた。正直かなり心強い。ジーンだったら、女性が喜ぶプレゼントランキング上位のどれでも詳しそうだ。
「なんとなくの目星もつけてないの?」
銀座方面に向かって歩き出しながら、ジーンが聞く。
「うーん、なんか色々ネットで見たり、生まれてはじめて本屋さんでファッション誌見てみたりもしたんだけど、考えれば考えるほどわかんなくなってきたっていうか」
「今までだって誕生日プレゼントはあげてたんでしょ?いつもは何にしてんの」
「だいたいリクエスト聞いてゲームソフトか、なんかちょっと豪勢なもの食べに行って奢るとかそんな感じだよ。でもほら、今回はさ。こ、告白しようと思ってるから……」
なんとなく恥ずかしくて小声で言うと、ジーンは「へぇ、ついに」と目を見開いた。
「うん。やっぱりさりげなくアピールとか、ぼくには無理だなぁって。だからとりあえず気持ちを伝えて?そこからキノがあらためて、考えてみてくれればいいかなって……ぼくがそういう対象として、あるのかないのか」
「タイムリミットまでに決めてくれればいいけど」
大通りの向かいにある店のほうを眺めながらジーンが呟いた。うっ確かに。いやでもまだ三ヶ月もあるし!
「ていうかさ、ずっと疑問なんだけど」
「なにが」
「こんなに色々アドバイスとか、協力もしてくれるのに、なんで呪い自体は解いてくれないわけ?」
ちょっとだけ責めるような口調で聞くと、ジーンはしゃれた眼鏡のレンズ越しにきっとこちらを睨んだ。
「うるっさいな、呪いくらい自分で解きなさいよ。悪役に助けてーって頼むやつがどこにいんの」
「悪役って……」
こんな友好的な悪役いないでしょ、と続けようとしたけど、ジーンはぼくを置いてどんどん道を進んでいってしまう。恐ろしくヒールの高いブーツを履いてるのに、足取りは浮いているみたいに軽やかだ。そういえば今日は雨の予報だったのに、蓋を開けてみれば快晴で絶好の買い物日和だった。父の話していたジーンの不思議エピソードを思い出して、ぼくはなんだか感心するような、それでいてちょっと楽しいような気持ちになった。
「だぁめだー、見れば見るほどわかんなくなってきた!」
デパートと路面店の洋服屋さんいくつかを回ったら、すっかり疲れてしまった。休憩がてら入ったカフェで、オーバーヒート気味の脳に糖分を与えるためにクリームソーダをごくごくと飲む。九月に入ったけどまだまだ気温は高くて、外を歩いてるとじわじわ汗が出てくる。ジーンは終始涼しい顔で、今も優雅な仕草でホットのカフェオレを飲んでいた。
「世の中のカップルはすごいなー、毎年イベントごとにこんなに悩んでるのかな」
「そうでもないでしょ。大体プレゼントなんてかなりの高確率で失敗するもんだし」
そうなのか。そういえば佐藤さんもそんなこと言ってたな。
ぼくの苦悩をよそにぼーっと窓の外を眺めていたジーンは、急に何かに気がついたような顔をすると、なぜかにやにやし始めた。
「?なに、どうかした?」
「おもしろいもの聞かせてあげる」
そう言うやいなや、向かい合わせに座っているぼくの耳元まで手を持ってくると、パチンっとひとつ指を鳴らす。瞬間、またあの甘くてちょっとぴりっとする香りが手首から漂ってきた。
「うわっなに?」
びっくりして思わず抑えた左耳に、突然すごく近くで囁かれてるみたいに声が聞こえてくる。
『……んとだー、めっちゃイケメン二人組がいるー』
『ね、二人とも爆イケだよね』
『でもひとりはそっち系ぽくない?もしかしてカップルかな』
『えーそうなのかな!それはそれで萌えるんだけど』
びっくりして見つめると、ジーンはくすくす笑いながらぼくの後ろのほうをさりげなく指さした。そーっと振り返ると、ずいぶん離れたところの席に女性二人組が座っているのが見えた。
「……えっあの人たちの声が聞こえてるの!?」
「カップルだなんて失礼な、こんなガキんちょと」
「ガキんちょって……あ、ていうかジーンっていくつなの?ぜんっぜん見えないけど、うちのお父さんと歳近い?」
「近くない」
「えっ……てことはお父さんもしかして、すごく年下と……?もしかしてジーン、当時未成年だった!?」
「はぁ?何言ってんの、グリニッジ天文台ができたときから成人してるよ」
「へ?」
「ん?」
高等なギャグなのかなんなのか考えていると、ジーンはもう一度指をパチンとやって耳元の声を消してくれた。
「どう、少しは慣れてきた?注目されるのに」
「へ?あぁ、うん……どうかな。最初のうちは知らない人にイケメンだねーとか言われるのすごいびっくりしたし、まぁ嬉しかったけど……でもさ、中身はやっぱりぼくのまんまだから。かっこいい人って、雰囲気とかオーラとかそういうのも含めてかっこいいんだよね、きっと。最初はぼくの前でキャピキャピしてた佐藤さんとか塩原さんにも、最近ではめちゃくちゃいじられるし」
「真理だね。美人は一日にしてならず!」
ジーンはびしっ!と音がしそうな勢いで指を立てた。誰がどの角度から見ても正真正銘の美人なジーンが言うと説得力がある。
「……最初からその見た目だったらよかったと思う?」
ジーンはぼくから目を逸らすと、はめている指輪を弄りながら聞いた。
「えー?どうだろ、あんまりよくなかったかも」
「なんで?みんなにかっこいいって褒められて育って、中身もイケメンになってたかもよ。彼女もよりどりみどりで、いい思いいっぱいできたかも」
「うーん、それはそれで実際いいものだったのかもしれないけど、でもこの変な呪いありきっていうのが今のぼくなわけじゃん?もしそんなキラキラの人生送ってたらキノとも仲良くなってないかもしれないし。それは困るよ」
そう返すと、ジーンは「あっそ」と短く言いながら、指先まで美しい仕草で手を挙げて店員さんを呼んだ。
「あ、また」
「なに」
「ジーンってなんか香水とかつけてる?動くたびにめっちゃいい匂い」
「つけてる。自分で調合したやつ」
「えっそうなの!?すごー」
「元々はおれのママのレシピだけどね。ちょっとアレンジしてるの、ママのはバニラ入れ過ぎでお菓子つけてるみたいだから」
へぇー、香水って自分で作れるものなのか。おしゃれな人は違うなぁ。
「匂い系とかもいいのかな。キノは香水はつけてないと思うけど、前にちょっと高いアロマキャンドルお土産でもらったときすごい喜んでたし」
自分一人では絶対に思いつかなかったけど、案外いいかもしれない。
「作ってあげようか?」
「えっ?いいの?」
「いいよ。なんかあの子が好きそうな香りの感じとか教えてくれれば」
「えー!ありがとう!!!それめっちゃいいじゃん、特別感あるし!あっお金はちゃんと払うよ」
「いいよ別に、ある材料で作るだけだし」
「いやいや、そういうわけには」
「そのぶん瓶だけ高いやつ買えば?ちょうど近くにチェコの香水瓶扱ってる店があるから。そしたらそれ預かって詰めてきてあげる」
「まじで!えーありがとう!やっぱジーンに頼ってよかったぁー!」
思いがけず決定しためちゃくちゃ素敵なプレゼント案にテンションが上がるぼくを完全に無視して、ジーンはやってきた店員さんにグラスワインを注文した。まだ昼の二時なのに。
ピンポーン。
インターフォンを押して数秒、開いたドアの向こうにいたお父さんは、去年の父の日にプレゼントしたサックスブルーのシャツを着ていた。
「おう、いらっしゃい」
「ひさしぶり。お邪魔しまーす」
お父さんが一人で暮らすこの家には何度か来たことがあるけど、その度に部屋全体の白っぽい雰囲気と物の少なさにちょっと違和感を感じる。リビングにはシンプルなローテーブルにクッションが二つ、開けっぱなしのドアから見える寝室には白いリネンのシングルベッドとパキラの鉢植え。テレビもないし、壁際に置かれた棚は半分くらいのスペースが空いていた。そんな殺風景な部屋なのに、キッチンだけはありとあらゆる調理器具が揃っている。ぶら下げられた形も大きさもさまざまな鍋に、ナイフラックに刺してある何本もの包丁。私にはさっぱり使い方がわからない、銀色で台形の何か。この部屋を見るたびに、かつて家族三人で暮らしたあの家は完全にお母さんの手によって作られたものだったんだな、なんて思う。ここと比べたら、あの家は物に溢れていた。といっても三人暮らしの「普通の」家庭ならどこにでもあるような物ばかりだったけど。玄関に置かれたお父さんのゴルフクラブ、お母さんがピラティスを始めるといって買ったバランスボール、おじいちゃんおばあちゃんが台湾旅行のお土産でくれたよくわからない置物。中学のときに私がレッスンをやめてしまったから、誰も弾かなくなったアップライトピアノ。その上に置かれた、家族三人で撮った入学式のときの写真。
どれもこれも、もうこの世界には存在しない物たちだ。あの家を、あの家で過ごした時間を断ち切るために、お母さんが全部捨ててしまった。
「昼飯、魚でもいいか?」
「うん。あ、でも量はそんなに。少なめでいいよ。夜もチョウさんとご飯食べる約束してるから」
うちの会社はバースデー休暇を導入していて、誕生日当日に毎年、休みがもらえる。ここ三年くらいはなんとなく、昼にお父さんの家に行ってご飯を食べてプレゼントをもらう、というのがお決まりになっていた。
「ああ、チョウさん。あの子は昔から変わらないよな。確か焼肉屋でバイトしてるんだっけ」
「最近はめちゃくちゃ変わったけどね……」
壁際の本のタイトルをなんとはなしに見ながら言うと、キッチンで魚を捌き始めていたお父さんが「うん?なんか言った?」と聞き返してきた。慌てて「なんでもない」と応える。チョウさんの呪いだの何だのをいきなり話すには、ちょっとお父さんとはひさしぶり過ぎる。
「お店のほうはどう?」
「うん、なんとかね。自転車操業だけど。常連さんも増えてきたから」
「そっか」
大手銀行の経済調査部門で働いていたお父さんが、仕事を辞めて幼なじみとレストランを開くと言い出したのは、私が大学二年生のときだった。何の相談もなく辞表を出してきた上、そのレストランの開店資金としてすでに一千万円を使ってしまっていたお父さんに、当然お母さんは激怒した。泣いて喚いて物を投げつけて(そうだ、あの台湾の置物はそのときに割れたんだった)、お願いだから考え直してほしいとお母さんが毎日言い続けても、お父さんは折れなかった。話し合いは平行線のまま家の中がどんどんめちゃくちゃになっていって、最後にお父さんは離婚届を出してきた。
「本当に、ほんとうに申し訳ないと思ってる。でも残りの人生を今までみたいに過ごして終わりたくないんだ。もちろん鈴の大学卒業までの学費は十分にあるし、残りの貯金はすべて慰謝料として渡す。だから、俺を自由にしてくれ」
……あの頃のことを思い出そうとすると、どういうわけだか頭がぼんやりとしてしまう。起こった一つ一つはちゃんと覚えているはずなのに、記憶の映像にはどこか靄がかかっていて、別の世界での出来事みたいにさえ感じる。
どんどん悪くなっていく家に帰りたくなくて、自分でも酷いってわかってるけどお母さんの側にいたくなくて、チョウさんの家に泊めてもらったとき、泣きながら愚痴をこぼす私を見た花英さんはお父さんに電話をかけて、私が大学の近くで一人暮らしできるように取り計らってくれた。それから自慢のパエリアをお皿いっぱいによそってくれた。この前キャンプでチョウさんが作ってくれたのももちろんおいしかったけど、あの夜のパエリアを超えることは絶対ないと思う。
チョウさんとチョウさんの家族がいてくれなかったら、きっと私はお母さん共々、あの家の中で潰れちゃってた。
「ちょっとだけ飲むか?白身によく合う白ワイン、冷やしてあるんだ」
「うん、一杯だけ」
いつも仕事で家にあんまりいなかったお父さんは、キッチンに立つこともほとんどなかった。だから私は、お父さんという人間の一体どこらへんに料理へのものすごい情熱が隠れていたのか知らないし、何がきっかけでそれが表面に出てきたのかもわからない。たぶん、わかりたくもないと思う。
それでも私は、お父さんのことを嫌いじゃない。恨んでる、はちょっとあるかもしれないけど。こうやってたまーに会って話す分にはいいし、昔よりずっと顔色のいいお父さんを見てよかったな、なんて思えるようにもなってきた。あのままの生活を続けてたら、いつかストレスで病気になってたかもしれないし。
でも、お母さんは違う。二度とお父さんの顔も見たくないと言って、連絡先も知らないらしい。私が毎年こうして誕生日に会ってるのも、お母さんには内緒だ。
六海さんの友達の「好きだったからこそ、ダメになったらもうとことん嫌いになるしかない」という言葉が、私にはよく理解できた。いや、理解とは違うのかな。でもすぐ近くでお母さんを見ていて、自分のことのように痛かった。
「できたぞ」
うすーいガラスでできたワイングラスに、お父さんが琥珀色のワインを注いでくれる。
「鈴、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
お父さんの作ってくれた魚料理はおいしかったけど、なんだか他人の味がした。
「キノー!誕生日おめでとー!!!」
大きな袋を両手に下げたチョウさんは、待ち合わせていたうちの最寄駅で顔を合わせるなり満面の笑みでそう言ってくれた。ちょうど赤いTシャツを着てるその姿がなんだか季節外れのサンタさんみたいに見えてきて、自然と笑みが溢れる。
「へへ、ありがとう。何持ってきてくれたの?」
「お母さんの作ったフライドチキン、とノーマのケーキ!聖川さんが特別に、二人で食べきれる小っちゃいホールケーキ作ってくれた」
「えーやったー!」
ケーキの袋を受け取って歩き始めたところで、ピコンとLINEの通知音が鳴る。
「ななみちゃんだ。お誕生日おめでとうございます、だって。あれ、なんで知ってるの?」
「あ、こないだぼくが教えた!キャンプのとき」
「……そっか」
あのキャンプの帰り、飛瀬きょうだいと別れたあと、ななみちゃんがチョウさんの正体に気づいたっていう話を聞いた。そんなこと思うこと自体変だけど、徹底的に負けたなぁと思った。
私は全然気がつかないで、警察に突き出しちゃったし……。誰よりも長く一緒にいるのに、私はいつだってなんにも見えてない。
家に着くと、チョウさんは甲斐甲斐しくチキンをオーブントースターで温めて、これはチョウさんが作ってきてくれたという付け合わせのサラダを出してくれた。お酒は秀さんからの誕生日プレゼントだという、ちょっとめずらしい赤のスパークリングワイン。私の好物だからフライドチキンにしてくれたんだろうけど、テーブルに並べたらいよいよ誕生日というよりクリスマスのご馳走みたいだった。
「はいじゃあ、あらためて!誕生日おめでとう、カンパーイ!」
「ありがとう、かんぱーい」
花英さん特製のフライドチキンはやっぱりめちゃくちゃおいしくて、懐かしくもあった。一人暮らしをはじめたばっかりの頃はよくチョウさんに持たせてくれたっけ。さっぱりしたサラダはビネガーが効いてて、チキンの脂身をいい具合に中和してくれる。ワインとの相性もばっちり。うーん、おいしいなー。
ちょこっとだけお腹に余裕を残したところで、チョウさんがケーキを出してきてくれた。
「せっかくホールだしさ、ローソク立てようよ。太いの二本と細いの六本もらってきたから」
「歌は歌わなくていいよ」
「わかってるよ!」
暗くした部屋でローソクに火をつけてから、チョウさんは定番のを歌う代わりにiPhoneでaikoの曲を流してくれた。中学の頃好きでよく聴いていた、ちょっと変わり種のバースデーソング。透き通った歌声の「Happy birthday to you」はすごく沁みたけど、蝋がどんどん垂れてきちゃったから、曲の終わりを待たずに慌ててローソクを吹き消した。
「あ、お願いし忘れた」
「えー!もったいない。今からでも遅くないんじゃない?」
「いやだめでしょ」
おっきなブドウがトッピングされた大人な味のショートケーキを味わっていると、チョウさんは小さく咳払いをしてから自分のリュックをごそごそとやり出した。
「あの、さ。誕生日プレゼントあるんだ」
「えっご飯とケーキがプレゼントじゃないの?」
「いや、もちろんそれもだけど。でも他にも用意してて」
そう言ってチョウさんが取り出したのは、光が当たると虹色っぽく見える白い包装紙に赤いリボンが結ばれた、小ぶりな箱だった。
「えーかわいい!開けていい?」
「もちろん」
中に入っていたのは、繊細な金細工とラインストーンに覆われた長細い瓶と、折り畳まれた桜色のカードだった。
「これ香水なんだけど、ジーンが調合してくれたんだ。ほら、ぼくがこうなってからさ?キノにも色々、迷惑かけたり気を使わせちゃったりってあったと思うんだけど……そういうエピソードを話したら、その思い出?みたいなのも盛り込んでくれたみたいで。あ、そのカードにどんな香りが入ってるか書いてくれたって!」
カードには美しい深緑のインクで、トップノード、ミドルノード、ラストノートと分けられた横に香りの名前が書いてあった。恐る恐る瓶を手に取って、蓋を開けてみる。一番最初に飛び込んできたのは、トップノートの欄にあるザクロの甘酸っぱい香りだった。あの夜にチョウさんがくれた、フレッシュなジュースの匂い。その奥にはかすかに、海風の塩っぽさが隠れているような気がした。
「ミドルノートのとこに桜って書いてあるけど、桜って香りはないんだって。だから桜の香水って大体、桜の塩漬けの匂いらしいよ。でも塩漬けの匂いもぼく結構好きだなー。お湯に入れて飲むやつとかおいしいもんね」
ミドルノートの欄には他にマシュマロとブラウンシュガー、それからラストノートにはいくつかの花の名前と、サフラン。瓶を持つ手が少しだけ震えてきて、私は中身をこぼさないように慌てて瓶の蓋を閉めてテーブルに置いた。
これは、これはだめだ。特別すぎる。
私は、私は本当はわかってた。チョウさんの浮いた話なんて聞いたことないなんて言って、ゲイなんじゃないかなんて言ったりして、心の底では気づいていた。気づいていて、でも知らない振りをしてきた。
チョウさんが、どこかで私のことをそういう風な意味で想っていてくれること。もしかしたら、だからこそこんなに優しくしてくれて、どんな時でも側にいてくれるのかもしれないこと。知っていて、蓋をしていた。見ないように考えないようにしていた。自分にとって都合が悪かったから。
チョウさんにそういう気持ちを持ってるのを自覚して、チョウさんのことを「彼氏だ」って言葉にしたあのときですら、私は本当にそうなってほしいとは願っていなかった。
私は、ずるくて汚くて最低だ。この前のキャンプのときにあんなことを言ったのだって、チョウさんを繋ぎ止めようとしてたんだと思う。ななみちゃんがチョウさんを連れてっちゃう気がして、どうにかチョウさんの人生の中に自分の居場所を確保しようと必死だった。チョウさんの気持ちを無視してきたくせに。
でも、それでも、どんなにずるくて最低でも。私は私の望むような形で、チョウさんにずっと近くにいてほしい。
「それで、さ。ぼくキノに、どうしても伝えたいことがあって」
チョウさんは少し居住まいを正すと、うかがうような目でこっちを見てからそう言った。
だめ。お願い、やめて。
「ぼく、ずっとキノのこと……」
その瞬間、私は反射的に両手を伸ばして、小さなテーブルを囲んで座っているチョウさんの口を塞いでいた。そこから、決定的な言葉がこぼれ落ちてしまわないように。
「お願いチョウさん、言わないで……」
チョウさんは大きな目を見開いてこっちを見つめている。鼻の奥がつんとして、じわじわと涙が湧き上がってくる感じがした。
「私、チョウさんとはずっと親友でいたい」
泣くなんて変だ。だって泣いたりしたら、まるで失恋みたいじゃない。