第六話:ハンスとグレーテ
「なあぁあああーん、つぃごんにゃー!ババギ!チババぁー」
ジャーン。
透き通った清流に、瑞々しい新緑。そしてパソコンのお絵かきソフトで塗ったみたいに真っ青な空。美しい大自然に、力強い歌声とアコースティックギターの音色が響き渡った。
さっきまで川辺の大きな岩の上に座って、両手を掲げる不思議なポーズを取っていた飛瀬さんの兄・六海さんは(「何してるんですか?」と恐る恐る声をかけてみたところ、「光合成」という答えが返ってきた)、今度は担いできたケースからギターを取り出して誰もが知っている動物映画のテーマソングを演奏し始めた。け、けっこうエキセントリックな人みたいだな……。
「ちょっとお兄ちゃん。遊んでないで早く火起こしてよ」
バーベキューコンロをセットしていた飛瀬さんから、呆れたような声が飛んでくる。持ってきた食材をクーラーボックスから出していたキノも、「私たち初心者なので、お願いしまーす!」と声をかけた。
そう、ぼくたちは今、奥多摩のキャンプ場に来ている。
ことのはじまりは二週間前……。
『キノさん
いきなりなんですけど、キャンプ行きませんか?』
最新型のホットプレートを手に入れたうちの母親が「このセットたこ焼きのやつも付いてるの!たこパしようたこパ!キノちゃんも誘って!」と言い出したので、仕事帰りのキノとぼくの実家に向かっている途中、飛瀬さんからキノにLINEが入った。
「キャンプ?」
「キャンプ……えっ本当にいきなりだな」
ピコンピコン、と続いて届くメッセージを、歩きながら一緒に覗き込む。
『来週の土曜に、うちの兄貴の友達カップルと四人で奥多摩のキャンプ場行く予定だったんですけど、突然その二人が別れちゃったらしくて』
『四人で予約してるから、友達とかも声かけたんですけど、その日にかぎってみんな予定入ってるみたいで ;(』
『もしよかったらなんですけど、キノさんと彼氏さん一緒にどうですか?もちろん無理そうならだいじょぶです!』
なるほど、ピンチヒッターか。それにしても、キャンプ……万年帰宅部だったぼくが言うのもなんだけど、超インドア派のキノは興味ないだろうな。そもそも、今の状況で飛瀬さんと一緒っていうのも難しいだろうし……。
「行こっか、キャンプ」
「そうだよね……ってええっっ!!??」
予想外の返しに、思わず静かな住宅街に響き渡るほどの大声が出てしまった。
「キャンプって、外でテント貼って寝泊まりとかするあれだよ?」
「知ってるよ。いいじゃん、たまにはアウトドア」
「いやいや嘘でしょ……高校の遠足でバーベキュー行ったとき、キノ先生に隠れて日陰でDSやってたじゃん」
「それ言ったらチョウさんだって、虫が怖くて虫除け置いてある半径一メートル以内から動かなかったじゃん」
「さ、最近はもう平気だよ……焼肉屋でGを退治したことだってあるし」
そのときもほとんど半泣きになっていたことは黙っておく。
「それに、飛瀬さんと一緒っていうのもあれじゃない?」
「大丈夫でしょ、この前が初対面って振りすれば。今のチョウさん見て、同一人物だなんて絶対思わないって。行こうよ」
なんだか妙にキャンプに対して積極的なキノに戸惑いつつも、もしかしから案外いいのかもなーなんて思いはじめる。あれだけジーンに色々言われたにもかかわらず、相変わらずキノとぼくの日常は前となんにも変わっていない。会うといったら一緒にゲームするだとか、こうやって家族ぐるみとか……。キャンプという非日常の空間でかっこいいところの一つも見せられたら、もしかしてキノにちょっと見直してもらえるかも?なんていう都合のいい考えが頭をもたげた。
「わかった。来週の土曜、佐藤さんにバイト代わってもらえればだけど」
「オッケー。そう返信しとくね」
そういうわけで、異色のメンバーによる一泊のキャンプ旅行が実現した。
「わっもう付いた!すごい!」
ギターを火起こしキットに持ち替えた六海さんは、あっという間にコンロの中に小ぶりなキャンプファイヤーを作り出してくれた。それもライターとかマッチは使わず、縄文人がやるみたいなくるくる回る木の道具で。か、かっこいい。対してぼくときたら、着いてすぐやったテントの設営でも周りをウロウロするだけで全然役に立たなかったし、さっき川で釣りをした時にも一人だけ一匹も釣れなかったし……。ぼくと同じく釣り初体験のはずなのに、キノは入れ食い状態で釣れていた。「Fishing Planet結構やり込んでたからね!」って言ってたけど、それって関係あるのか?
キノにいいとこ見せるどころか、逆効果になっているような気が……。せめて得意な料理では活躍しないと!と意気込むと、ちょうどキノが野菜を切ろうとしているところが見えた。キノは普段まったく料理をしないので、手つきがかなり危なっかしい。包丁の刃がかぼちゃの表面をつるんと滑って、代わりにキノの手を切りそうになっていたので、慌てて包丁を取り上げた。
「ぼくやるよ」
「そう?じゃあかぼちゃはお願いして、私は玉ねぎを……」
「あ、それもあたしが切りますよ!バイトでもよくやってるんで、目に染みないやり方知ってるんです」
キノの様子から何かを読み取ったらしい飛瀬さんが、すかさず名乗りを上げる。ナイス!「そお?」と言いながらまな板の前を譲ったキノは、手持ち無沙汰そうに調理器具や食材の置いてある辺りを眺めた。
「キノちゃん。じゃあ燻製作るの手伝ってもらっていい?」
コンロの上に鉄板を置いて、バーナーも設置し終えた六海さんが声をかける。
「えっ燻製って作れるんですか?」
「これ使って作れるよ。ソーセージとかチーズとか、適当に入れて燻すだけ」
六海さんの手元にあるのは、縦長の段ボール箱のようなものだった。
「えー楽しそう!やるやる!」
「じゃあ燻製したい食材選んで、あっちの風通しいいとこでやろう」
キノは「これ燻製したらどうかな」なんて言いながら食材を選んでいる。思いのほかテンションが高くてちょっとびっくりだけど、楽しんでるみたいでよかった。天気もいいし、なんかいいなーこういうの。
「あ、とび……ななみさん、はい」
玉ねぎを切ろうとしている飛瀬さんに割り箸を一膳渡す。今日は「飛瀬さん」が二人いるし、怪しまれないためにも下の名前で呼んでるけど、なんだか慣れない。
「あれ、割り箸使うってよくわかりましたね。もしかしてジンさんもこの裏ワザ知ってました?」
「へっ。あ、まぁね!ぼくも家でよく玉ねぎ使うから」
割り箸を咥えて玉ねぎを切ると涙が出づらい、というのは、焼肉屋の厨房では誰もが実践している裏ワザだ。それにしてもぼくが「チョウさん」だとバレないためとはいえ、またホストの時の源氏名を使うことになるとは……。
「場所変わろっか。ぼくこっち来るよ」
飛瀬さんは左利きなので、腕が当たらないように横並びになっていた左右の場所を入れ替わる。
「え、あぁ……ありがとうございます。助かります」
こっちにも玉ねぎの汁が飛んでくるかもしれないから、ぼくも割り箸を咥えて、しばらく無言で野菜を切った。そういえば前に焼肉屋でも、こんな風に一緒に盛り合わせ用の野菜切ったことあったなぁ。
トントントン……と小気味いい音がしばらく続いたあと、飛瀬さんが玉ねぎを切り終わったので、割り箸を口から外した。
「このへんはグリルでそのまま焼くとして、あとは焼きそば用にキャベツとかにんじんとか細かめに切っときますか?」
「そうだね。あ、あとぼく後でパエリア作ろうかなって思ってるから、ちょっとだけみじん切りに……」
残りの野菜を確認しようと振り返ったところで、ぶんっと目の前を小さな影が通った。
「うわっ、ぎゃー!虫がっ!」
「あ!ジンさん、それハチです!動かないほうがいいかも」
飛瀬さんに言われて、虫を追い払おうと振り回していた両腕をフリーズさせる。こここここ、こわいいいいぃいい……!
じっとりと冷や汗をかきながらもじっと耐えていると、そのうちにハチは遠くのほうに飛んでいった。ようやくほっと体の力を抜く。
「あ、あー……びっくりした」
「……ぶっ。あはは、ジンさん、虫そーとー苦手なんですね」
飛瀬さんが思わずといった感じで吹き出して、一気に恥ずかしくなる。いい大人が大騒ぎして、とは思うんだけど、どうしても体が反応しちゃうんだよね……。
「お恥ずかしいところをお見せしまして」
「いえいえ、全然。そういえば虫除けのやつ持ってきてたのに、出すの忘れてました。ハチに効くかはわかんないけど」
飛瀬さんが笑いを堪えながらリュックから出してくれた虫除けを見て、ちょっとほっとする。気を取り直して、また野菜を切るのに取り掛かった。
「大丈夫かな、なんかすごい声聞こえたけど」
「たぶん虫が出たとかなんで、大丈夫ですよ」
六海さんが設置してくれた燻製ボックスの中に食材を並べなから、わちゃわちゃと騒いでいるチョウさんとななみちゃんにちらっと目をやった。ちょっと複雑な気持ちもするけど、楽しそうな様子に安心する。
「ほんとありがとね、急に誘ったのに乗ってくれて」
「いえ、むしろ誘ってもらってありがとうございます。こういうのって詳しい人がいないとなかなか来れないから」
「てかさ、タメ語でいいよ。キノちゃんもジンくんも、俺と同い年だよね?」
六海さんはガンガン来るわけでもないけど適度に話しかけてくれて、コミュ力の高いタイプみたいだった。正直、すごく助かる。自然にチョウさんとななみちゃんを二人にもできるし、私の気も紛れるし。
チョウさんも言うように普段まったく屋外でのアクティビティをやらない私が、今回のキャンプに乗ったのは、チョウさんとななみちゃんが話せる機会が作れないかな、と思ったからだった。チョウさんは何か事情があって呪いのことを周りにまだ言えないって言ってたけど、ななみちゃんはあんなにチョウさんを心配してたし、会いたがってた。好きな人がどうしてるのか、何も知らないままひたすら待つのってきっとすごく辛いはずだ。だからたとえこういう形でもコミュニケーションが取ることで、むしろチョウさんのほうからななみちゃんに本当のことを言いたくなってくれないかな、っていうのを少し期待していた。もしかしたらその「事情」っていうのも、私には言い辛くても、ななみちゃんなら話せるって思う可能性もあるし。
そうなってくると、ゲームセンターで「彼氏だ」って言っちゃったのはまずかったけど……。まぁそれも後々チョウさんがななみちゃんに本当のことを話したら、「嘘でした」ってちゃんと説明すれば大丈夫かな。
自分の気持ちを自覚しちゃった今、二人が並んでる姿を見るのはやっぱりちょっと辛い。でも、何があっても私はチョウさんの親友だし、恋愛とか抜きにしても大好きだから、幸せになるチャンスは絶対に掴み取ってほしい。チョウさんみたいな超絶いいやつには、ななみちゃんみたいに真っ直ぐな気持ちを向けてくれる人がお似合いだと思う。外見が変わってから意識するようになった、馬鹿な私なんかじゃなくて。
「キノちゃんってさ、チョウさん?の仲良しなんだよね?」
食材を並べ終わった燻製機の扉を閉めながら、おもむろに六海さんが聞いてきた。
「え、あぁはい。中学のときからの同級生で」
「チョウさんってどんなやつ?」
ははーん、これは。妹の好きな相手を査定しようと探りを入れるお兄ちゃんの図だな?
「いいやつですよ、ものすごく。ちょっと気の弱いとこもあるけど、さりげなーい気遣いが自然にできるし、悪口とか絶対言わないし。めちゃめちゃやさしい、昔から」
まだ野菜を切っているチョウさんを遠目に見ながら答える。
「そっか」
六海さんは川辺の砂利の上にどかっと座って両手を組むと、少し落ち着かない様子で顎に当てた。私も隣に腰を下ろす。
「あいつ、なながさ。実家帰ってきてから「チョウさん」の話ばっかするから、気になっちゃって。余計なお世話だってわかってるんだけど……色々心配で」
「前の人の、こともあるし?」
「あ、聞いてる?うん。あれもさ、結構大変だったんだよ。元彼がめっちゃキレた状態でうちに乗り込んできて、親父と二人でなんとか追い返したこともあって。別にななの見る目を信用してない、ってわけじゃないんだけど」
静かな口調で話す六海さんの声に、穏やかに流れる川の音が重なる。
「……あとはまぁ、単純に寂しいってのもあるかな。せっかく戻ってきたのに、また行っちゃうのかーみたいな気分っていうか。あ、これななには内緒ね」
「ふふ、はい」
ぽろっと出たであろう本音に、思わず微笑む。いいな、きょうだいって。自分は一人っ子だからうらやましい。まぁ私にとってはチョウさんが兄弟みたいなものかもしれないけど。
「正直、ここ二年くらい……ずっと寂しかったのかも」
私に言っているのか、独り言なのか、わからないくらいのトーンで六海さんが呟いた。
「あ、ごめんね。変な話して」
「ううん、全然。燻製まだかかるよね?雑談しましょうよ」
スモーキーな香りを漂わせている箱をちらっと見て、六海さんは「そうだね」と話し始めた。
「男女のきょうだいでめずらしいってよく言われるんだけどさ、俺たち子供の頃からめっちゃ仲良くて。歳も五つ離れてるんだけど、あんまり差も感じたことないし。ななが中学くらいまでは、ほんとにべったり一緒にいた気がする。休みの日も二人で遊びに行ってたし、ちょっと夜中にコンビニ行くだけでもわざわざ付いてくくらい」
「ええー、それはまじで仲良しだ!」
「……俺がちょっと学校とかで浮いてたっていうか、友達もそんないないタイプだったから、ななが気ぃ使ってくれてたのもあったんだろうな」
六海さんはしゃべりながら、近くに落ちていた小さな石を一つ拾うと、付いている泥を指でこすり落とし始めた。
「最初の方はさ、元彼も普通っていうか、うまく行ってたみたいだったから気にしてなかった。でもななが高校卒業して、元彼の家にほとんど住むようになったくらいからかな。明らかに様子がおかしくなって」
「うん」
「会うたびにちょっとずつ、ななが暗くっていうか……なんか行っちゃいけないほうに向かってってるのがわかるんだよね。でも、なんもできない。とうとう我慢できなくなって「あんな男別れろ」って言ったこともあったんだけど、ななには全然響いてなくて。姿は見えてんのに、声は通さない壁の向こうにいるみたいに耳に入ってなかった。……無力感、ってこういうものなのかって思った」
ふいに、チョウさんとななちゃんの笑う声が遠くに聞こえた。屈託なく笑う彼女の可愛いえくぼが目に浮かんで、なんだか胸がきゅっと締め付けられる感じがした。
「結局ななは自分でちゃんと気がついて、軌道修正して戻ってきたけど。でも、またそういう事が起きたらって思うと不安になる。だってそうなったら、俺はまたきっとどうにもできない。……そんなこと心配しても意味ないって、わかってるんだけどね」
少し緊張してしまった空気を緩ませるように、六海さんは苦笑いをした。
「ううん。心配になるのは当然だし、ななみちゃんもきっと家族のそういう気持ち、わかってるんじゃないかな」
「そうかな」
言葉を切った私たちのあいだを縫うように、小鳥のさえずりが聞こえる。よく晴れた真夏日だけど、やっぱり山の中だから東京よりも涼しくて、水辺にいるのもあるのか想像していたよりずっと過ごしやすい。こんなこと思うなんて自分でも意外だけど、たまにはアウトドアもいいな、なんて気分に本当になってくる。
「……俺、はさ。恋愛の経験がないし、そもそも興味を持ったことがないんだよね」
さっき拾った石を相変わらずいじりながら、川面を眺めたまま六海さんはこぼすように言った。
「そうなんだ」
「うん。もっと若い頃は俺っておかしいのかなって悩んだこともあったんだけど、今はまぁ、それも個性かなって思ってて」
「うん」
「……でもやっぱり、自分が感じたことがないから、わかんないんだよ。たとえば今日ほんとは一緒に来る予定だった二人もさ、大学の同級生で二人とも仲良いんだけど。ついこないだまですごいラブラブだったのに、急に拗れて今はお互いの顔も見たくないくらいにいがみ合ってる。「大好きだったからこそ、ダメになったらもうとことん嫌いになるしかないんだよ」って、彼女のほうは言ってたんだけど……恋愛のそういう、全部を押し流しちゃうくらいの強い気持ちを俺は知らないし、たぶんこの先知れることもない。そのこと考えると、なんだか急に置いてきぼりくらったみたいな感じになるし……そのめっちゃ強くて大っきいものが、ななを連れてっちゃうんだと思うと、なんか背中のあたりがひゅってなるっていうか」
六海さんはその場で片膝を付いた体勢になると、ずっと弄んでいた石を川に向かって投げた。それは川面を何度か跳ねて、向こう岸に着く少し手前で沈んでしまった。
「あー、惜しい。はは、やばいよねシスコンで。こういう性質だからかな、つい家族に対して気持ちのウェイトが重くなっちゃうんだよね」
「全然やばくないよ。……自分にとって一番大事な人って、恋人とか結婚相手とはかぎらないじゃん。別にそれでいいと思うし」
私の頭の中に、呪いが解ける前のチョウさんの顔が浮かんだ。そうだよ、別にそれでいいじゃん。
「ありがと。ごめんねー、今日はじめましてなのにこんな話して」
「ううん。おもしろい……って言ったら語弊があるけど、でも私も目から鱗な話だった。ありがとう」
ちょうどその時、後ろからななみちゃんの明るい声が聞こえてきた。
「お兄ちゃーん!下ごしらえ終わったし、もう肉とか野菜焼き始めてもいいー?」
「おーう!はじめよっか!燻製はもうちょっとかな」
秘密の話をそれぞれの胸の中にしまい込んで、私たちは一度だけお互いに目配せをしてから立ち上がった。
「うぅうううまい!なんだこれ!」
「ほんとだ、パエリアめっっっちゃおいしい!」
肉やら野菜を焼きながらビールで乾杯して、ちょっといい気分になったあたりで出したパエリアを、飛瀬兄妹は大絶賛してくれた。キノも「火が違うからかな、前に家で作ってもらった時よりおいしい!」なんて言いながらバクバク食べている。ぼくは心の中で密かにガッツポーズをした。
「ジンくんすげーね、料理めっちゃうまいんじゃん」
「ありがとうございます。母が料理好きなんで、けっこう子供の頃から教わってて。これも母に習ったレシピなんです」
「まじ?晩飯にパエリア出てくる家とか実在すんの?最大級に手間かかったメニューがとんかつのうちとは大違いだな、なな。ていうかジンくんもタメ語でいいよ」
六海さんはすげぇすげぇと連発しながら、昼に(ほとんど六海さんとキノが)釣った鮎を慣れた手つきで塩焼きにしてくれている。さっきキノと長々と話してけど、何話してたのかな。六海さんって今までぼくたちの周りにはいなかったようなタイプだし、もしかしてもしかするとキノがときめいちゃうなんていうことも……!?思わずちらちら二人を見比べるけど、キノは我関せずといった感じで、パエリアのサフランで唇をてっかてかにしていた。かーわいいなー。
「あ、そろそろ水少なくなってきたな。ジンくんとキノちゃん、悪いんだけどあっち下ったとこに水汲めるとこあるからさ、行ってきてくんない?ついでにちょっと散歩してきなよ、日も落ちたし星めっちゃ綺麗だと思うよ」
六海さんはそう言いながら、軽くなったポリタンクを差し出した。
「そうですよ!せっかく来たんだし、ちょっとデートしてきてください。鮎はじーっくり、焼いたほうがおいしいし」
飛瀬さんがニヤニヤしながら畳みかける。そうだった!この二人はぼくとキノが彼氏彼女だと思ってるんだった……え、これってもしや、めちゃめちゃナイスなアシストなのでは!?燻製したソーセージにかじり付いていたキノも顔を上げる。
「え、でも」
「おっけーおっけぇ!行ってくるよ!」
キノが何か言う前にすかさず立ち上がってポリタンクを受け取った。星空の下のデートなんて素敵なシチュエーション、逃すわけにはいかない。しっかり携帯用の虫除けもベルトに下げて、食べかけのソーセージを名残惜しそうに見ているキノを「ほらほら!」とせっついた。
六海さんの持ってきてくれたランタンと焚き火のおかげで、テントの周りは夜になっても結構明るかったけど、ひとたびそこから離れれば静かな暗闇が現れる。小型のLEDランタンは持ってるけど、かなり暗い。キノは目は悪くないけど、暗いところだと人より見えづらいみたいだからちょっと心配だ。
「キノ、大丈夫?あんま見えないんじゃない?」
「へーき」
と言ったそばから飛び出していた石につまづいたみたいで、うわっと小さな声を上げてキノがよろけた。慌てて腕を掴んで助け起こす。
「ほらー!言わんこっちゃない。やっぱぼく一人で行ってこようか?」
「でも一人であっち戻れないし、ここで待ってるのも超絶怖いから一緒に行く」
「それもそうか。あ、じゃあぼくの腕持ってていいよ」
「……うん」
キノは遠慮がちに、ぼくの肘のあたりを掴んだ。こ、これはもしかしてもしかしなくとも、ものすごくいい雰囲気なのでは……!?ありがとう!飛瀬兄妹!
「あ、星!めっちゃ見える」
ちょっとドギマギして思わず上を見上げると、街中では絶対に見れない数の星が瞬いていた。
「ほんとだ、プラネタリウムみたい。今日天気よかったもんね」
二人して上を見上げながらゆっくり歩く。聞こえてくるのは虫の鳴き声と木の葉が立てる小さな葉音、さくさくという僕らの足音だけ。
「それにしても、ちょっと意外だったな。キノがキャンプであんなテンション上がるなんて。釣りもうまかったし、結構がんがん動いてたじゃん」
沈黙がちょっと重たくなった頃にぼくが言うと、キノは
「うん、自分でもこんなに楽しいと思ってなかった」
と笑った声で言った。
「ずっと苦手だと思ってたことでも、やってみたら意外とよかったりすることあるんだね。ほら、子供のとき嫌いだった食べ物が大人になったら好きになるみたいな」
「食わず嫌いならぬやらず嫌いってことか。ぼくもそういうのありそうだなー」
そういえば外見が変わってみてはじめて、自分が知らず知らずのうちに色んなことをやらず嫌い……というか諦めちゃってたんだな、ということにも気がついたなぁ。おしゃれとか、ケーキ屋さんで働くとか。
それから、恋愛も。
「……さっきさ、六海さんと何話してたの?」
どうしても気になって聞くと、キノは短く「ないしょ」と答えた。えー!内緒って……いやでも、デートしてきなよなんて言ってくれるくらいだから、六海さんがキノに気があるとかはないのかな……?思考がぐるぐるとなっていると、キノが急に立ち止まった。腕を持たれているぼくもつられて歩くのをやめる。
「ん?どうかした?」
振り向いて顔を覗き込むと、真っ暗な中でランタンに照らされているキノは妙に真面目な顔をしていた。
「あのね、チョウさん」
「うん」
「私は何があっても、ずっとチョウさんの味方だからね」
「へっどうしたの急に」
キノはぼくの腕を離すと、両手を握ったり開いたりしながら続けた。
「いやなんかさ、チョウさんがこうなってしばらく経つじゃん。私もいっちばん最初は、知らない人と一緒にいるみたいに感じちゃうときも正直あったし、色々考えたりもして……でもね、それであらためて思ったんだよね。私ってずーっと、ものすごくチョウさんに救われてきたんだなぁって」
一つ一つ言葉を探るように話す声を聞き逃さないように、ぼくはキノの正面に立った。
「私はほら、チョウさんみたいにすぐに誰とでも仲良くなれるってわけじゃないし。家族にもさ、自分のことってあんまり話さないから。本当に素直に思ってることを、なーんにも考えないで話せるの、チョウさんだけなんだよね」
「うん」
グーパーするのを繰り返している手を見つめていたキノは、そこで顔を上げた。
「もしチョウさんがいなかったら、私はきっともうちょっと、幸せじゃなかった。だからね、チョウさんも呪いが解けて色んなことが変わっただろうし、これから変わることもあるかもしれないけど……私はずっと変わらずに、チョウさんの近くにいるからね」
暗闇の中でキラキラ光るキノの目が真っ直ぐにこっちを見ていて、ぼくは目の奥のほうに涙が湧いて出てくるのがわかった。ぼくもキノがいなかったら、もうちょっとどころじゃなく幸せじゃなかった。不器用なところもあるけど、本当の意味で優しいキノは、今までもこれからも、ぼくの一番大事な人だ。
そう言いたかったのに、ぼくの声は涙で詰まってしまって、絞り出したみたいな「ありがと」しか出てこなかった。そうしてるうちにキノはさっさとそっぽを向いてしまって、暗い道をどんどん先に進もうとするから、慌てて腕を取って先導した。
ポリバケツいっぱいに水を汲んで戻ると、鮎はちょうどよく焼けていた。香ばしいそれを堪能したあと、ぼくは用意してきたとっておきの逸品を出した。
「じゃーん。このビスケット、バイト先のパティシエさんにもらって。マシュマロも買ってきたんで、焚き火であぶって挟むやつやりません?」
「うわー!最高!」
甘いもの好きな飛瀬さんがうれしそうな声をあげる。そのへんで拾ってきた細い枝に輸入系スーパーで買ってきたおっきなマシュマロを刺して火にかざすと、何かのCMみたいにいい感じに焦げ目がついた。
「あっななみさん気をつけて、ぜったい舌やけどする!」
できあがったマシュマロサンドに意気揚々とかぶりつこうとした飛瀬さんを慌てて止める。飛瀬さんはものすっごい猫舌なのに、いつも網から取ってすぐの焼肉を口に放り込んでは失敗していて、店長に「そんなしょっちゅうやけどしてたら、お前そのうち味覚なくなっちまうぞ」なんて言われていた。飛瀬さんは一瞬きょとんとした顔をしたけど、ちゃんとふーふー冷ましてからそれを口に入れて、
「うっま……なにこれ、めちゃくちゃ罪深い味がする……!」
と呟いた。
「ほんとだ、ビスケットがちょっとしょっぱいのが絶妙においしいー!ワインに合う」
「ねぇお兄ちゃんこれやばくない!?」
「なな、話しかけてくれるな。俺は今、すべての神経を味覚に集中させたい」
六海さんはなぜか目を閉じて食べていた。やっぱ変わった人だな。
さっきキノがくれた嬉しい言葉がまだ頭の中を回ってて、なんだか最高の気分だ。ごはんも空気もおいしいし、こんな完璧な休日があるんだって感じ。そのうちに六海さんがギターを弾き始めて、いよいよできすぎた青春映画みたいな夜がふけていった。
「違うって……緑色なのは店長のほう……そっちの人は元グランドホッケー部」
「……」
テントは二、三人寝泊まりできるタイプを二つ設置したから、当然部屋割りならぬテント割りは二:二になる。「キノさんとジンさんは一緒のほうがいいですよね。お兄ちゃんと同じテントで寝れる気しないけど」なんて言い出す飛瀬さんに、慌てて男女で分かれて寝るのを提案した。さすがにこんなに狭いテントでキノと一晩ふたりっきりなんて、眠れる気がしない。
てっきり相当イビキがうるさいのかと思っていたら、早々に寝入ってしまった六海さんはかすかな寝息すら立てていなかった。なぁんだ、全然大丈夫じゃん、と思っていたら……。
今、夜中の一時くらいだろうか。唐突に摩訶不思議な寝言を言い出した六海さんは、さっきからずーっと夢の中で誰かと議論を繰り広げている。最初は話しかけられてるのかと思ったけど、どう考えても内容がおかしい。よくわかんないけど、プールの水には浸けちゃいけないらしい。
なんだか興奮してなかなか寝付けなかったぼくは、いよいよ全然寝れる気がしなくなってしまった。六海さんの寝言もすごく気になるけど、あんまり聞いても悪いような気がするしな……。しょうがないので少し風にでも当たろうと、そーっとテントを抜け出した。
LEDのランタンを持って川のある方まで歩いていくと、同じようにランタンの灯りだけを手元に、飛瀬さんが座っていた。
「あれ、ジンさん。もしかしてお兄ちゃんの寝言はじまりました?」
「うん……すごいねあれ」
「あはは、ごめんなさい押し付けちゃって。どうせあたしも眠れなかったから、やっぱテント逆にしとけばよかったですね。交代します?」
「えっううん、全然大丈夫だよ。キノは?」
「残ってたワイン瓶ごと飲んで、そのまま寝ちゃいました」
しょーがないなー、と思いながら、ぼくは飛瀬さんの隣に腰を下ろした。飛瀬さんは川の方を向いてたけど、あたりは暗くて流れは全然見えない。雨みたいにただザァザァと流れる水の音だけが聞こえてきて、なんだか少し恐ろしい。
「今日、二人が来てくれてほんっとによかったです。すんごい楽しかった」
飛瀬さんはすんごい、のところに力を込めて言った。
「こちらこそ、すんごい!楽しかった。ぼくもキノもインドア派だからさ、誘ってもらわないとこういうの絶対やらないし。でもさっきも話してたんだよね、やらず嫌いでもったいなかったねって」
そう返すと、薄暗い中で飛瀬さんは八重歯を見せた。
「あたしも結構ひさしぶりだったんです。子供の頃はよくお兄ちゃんに連れられて、高尾山とか行ったんですけど。お兄ちゃんのアウトドアスキルが上がりすぎててまじびびった」
「ね!火起こしすごかったもんね!魚の扱いとかも手慣れてたし」
「ふふ、確かに。昔っから器用なんですよね。兄妹なのにあたしとは全然違って、勉強も運動も得意で。苦手なことないっていうか。お母さんのお腹の中で、いいもの全部吸収してっちゃったんじゃないの?っていうくらい」
飛瀬さんは目を伏せると、自嘲するように笑った。前に焼肉屋の休憩室で、泣き出した飛瀬さんと話したときのことがフラッシュバックした。どうしてだろう、飛瀬さんはすごくすてきな人なのに、いつだって自分のことがあんまり好きじゃないみたいだ。
「ぼくは、六海さんはすごくいいものたっくさん、お母さんのお腹の中に残してって、飛瀬さんはそれをぜーんぶ吸収して出てきたと思うけどな。飛瀬さんにとっては六海さんが100点に見えるのかもしれないけど、もしかしたら六海さんにとっての100点は、飛瀬さんかもしれないし」
人は誰しも総合点100点。子供の頃、何度も聞いた母親の声が耳に響く。今のぼくは、ぼくなりの100点に近づいていけてるんだろうか?
飛瀬さんが何も言わないので、変なこと言っちゃったかなと思ってそちらも見ると、彼女はまるで宇宙人にでも遭遇したみたいな顔をしていた。びっくりしすぎて、何がなんだかわからないっていうような。
「……チョウさん……?」
飛瀬さんの口からこぼれ落ちたのは、すっかりキノ以外から呼ばれなくなった名前だった。