第五話:灯台の上の姫
あー、疲れた……。
会議が長引いてしまったせいで、今日はしっかり残業になってしまった。おじさんたちってなんであんなに話が脱線するんだろう?松崎さんがうまいこと進行してくれたおかげで、なんとか話がまとまってよかった。松崎さん、終始笑顔だったけど、たまにこめかみが怒りでピクピクしていたような気も……。こんな日はスーパーに寄るのさえ面倒くさい。私は自宅の最寄駅よりも一駅先で降りて、好物のフライドチキンを食べて帰ることにした。
チキン三本とフライドポテト、それから仕事終わりにかかせないビールを注文して、さっそく奥のテーブル席に陣取ってかぶりつく。口に入れた瞬間、じゅわっと染み出す油と肉汁……追いかけるようにビールを流し込むと、仕事の疲れがすーっと和らいでいくのが感じられた。うーん、これこれ。手がべったべたになるのも気にせず夢中になって食べていると、急に誰かに声をかけられた。
「あの、もしかしてキノさんですか?」
「ふぇ?」
顔を上げると、トレーを手にそこに立っていたのは見覚えのある女の子だった。あれ、確かこの子……。
「やっぱりそうだ」
「あ!えーっと、ななみちゃん!」
黒目の大きい瞳にちらっと見える八重歯がかわいい小動物っぽい顔の彼女は、チョウさんの焼肉屋でのバイト仲間、飛瀬ななみちゃんだ。前にチョウさんと焼肉屋の店長さんと三人で飲んでいたときに途中から合流して、ちょっとだけしゃべったことがある。
「すごい偶然!席、一緒にいいですか?」
「もちろんもちろん!」
向かいの席に座ると、ななみちゃんはトレーの上のチキンサンドを開けることもなく
「会えてめっちゃラッキーです。キノさんに聞けたらなーって思ってたんだけど、この前は連絡先、交換しないで終わっちゃったから……」
と言った。
「ん?聞けたらって何を?」
ななみちゃんは飲み物を一口だけ飲むと、深刻そうな顔をした。
「チョウさん、どうしてるのか知りませんか?」
口に放り込んだポテトがうっかり詰まりそうになった。そうだった!すっかり忘れてたけど、前のバイト先の人たち含め、チョウさんの周りの人たちはチョウさんがああなったのを知らないままなんだった。え、ていうかチョウさん、どうするつもりなんだろう?ずーっと黙っとくわけにもいかないだろうし……。
「なんか家の事情でしばらくバイト休むっていうのは、店長から聞いたんですけど。でも一度も顔出さないなんておかしくないですか?LINEは返ってくるけど、今どうしてんの?とか、いつバイト戻ってくるの?とか聞いても、なんかテキトーなこと言って答えてくれないし」
慌ててポテトをビールで流し込みながら考える。どうしよう……勝手に色々教えるわけにいかないし、ていうかそもそもどう説明していいのかって感じだしなぁ。
「チョウさん、大丈夫ですか?もしかしてどっか悪いとかじゃないですよね?」
「えっ!いや、そんなことはないよ。元気げんき!ただ、そのー……あ、そうそう!チョウさんの親戚がね!ちょっとこーう、地方でお店やってるらしいんだけど、色々あって人手が足りないみたいで……住み込みで臨時のバイト?みたいなの、頼まれたらしくて」
我ながらナイスごまかし。こんなにスラスラと嘘が出てくる自分が怖いぜ……。
「親戚……地方ってどのへんですか?」
「え、えーと、長野?だったかな?伯父さんのやってる蕎麦屋さんとかなんとか」
確か秀さんの弟さんが蕎麦屋だったのを思い出して、適当に答える。お願い、あんまり突っ込まないでぇー!
「長野かぁ……行ってみようかな」
「えっわざわざ?」
本当に行かれたらまずい!と思いながら聞き返すと、ななみちゃんは「あ、そうですよね。さすがに」と言いながら、汗をかき始めたカップを両手で握り締めた。
「……もういっこ、キノさんに聞きたいことあって」
今度はなんだろうとヒヤヒヤしながらも、平然を装う。
「うん、なになに?」
「キノさんって、その、チョウさんの彼女さん、ではないんですよね?」
「えっうん。違うよ」
予想外の内容に、ちょっと拍子抜けしてしまった。まぁ、よく聞かれる質問ではあるけど。
「チョウさん、誰かそういう人って……?」
「彼女ってこと?」
「とか、好きな人とか」
「いやー、私が知るかぎりではいないんじゃないかな」
長い付き合いだけど、チョウさんが自らの恋バナをしているのを聞いた記憶はまずない。たまーに芸能人で誰々が可愛いとか言ってることはあるけど、それも「橋○環奈ってああ見えて酒豪らしいよ、ギャップがいいよねー」とかそんなレベルだし。どちらかと言うと男性のK-POPアイドルとかを褒めてることのほうが多いから、一時期はチョウさんってゲイなのかな?と思っていたくらいだ。結局それも違うって言ってたけど。
「そっか」
なぜかほっとしたような表情になったななみちゃんは、「やばい、食べるの忘れてた」とようやくチキンサンドの包装紙を剥がして食べ始めた。
「……あの、チョウさんにはぜったい内緒にしてほしい話なんですけど」
「うん?」
ビールもう一杯買ってこようかな、なんて考えていると、ななみちゃんがおもむろに話し始めた。
「あたし、去年の年末に彼氏と別れて」
「えっそうなんだ。前に飲んだときに話してた彼氏?中学のときからっていう」
「はい。元カレは中学の先輩で、あたしが中二のときからずーっと付き合ってて」
「へー!ななみちゃん確か二十歳って言ってたよね?そんなに続くのすごいなぁ」
どの彼氏とも半年以上続いたことのない私は、心の底から関心してしまった。
「続くからいいってもんでもないですよ。一緒にいるのが当たり前になりすぎちゃったからなのかな……ここ二年くらい、向こうが就職してからはちょっと、変な感じになってきちゃって。DV、てほどではないけど、モラハラっぽいというか……」
「えっ……」
最初はほんと、軽くいじられてるみたいな感じだったんです。元々先輩後輩だし、そのノリの延長っていうか。でも向こうが働き出して、色々……ストレスもあったのかな、だんだん言いかたとかもキツいっていうか、威圧的になってきて。「お前バカなんだから」とか「どうせなんにもできないんだから」とか日常的に言われる感じで。
「なにそれ、超ムカつく」
「はは、今になって冷静に考えればムカつくんですけどね。でもなんつーか、そう言われるのに慣れすぎちゃったからなのかな。だんだん自分でもほんとにそう思うようになってきちゃって」
「お前なんか俺と別れたらマジでやばいんだからな」って毎日のように言われるようになって。でもあたし確かに勉強もできないしフリーターだし、彼と結婚したいとも思ってたから、嫌われないようにしなきゃ!ってだんだん気ぃ使うようになっていって。向こうがイライラしてて八つ当たりされたり、怒鳴られたりしてもただただじーっと耐える、みたいな。感覚マヒしちゃってたんでしょうね。あたしがそんな感じで言うこと聞くから、あっちもどんどん、エスカレートしてきちゃって……。
LINEとかもフツーに勝手に見られてたんですけど、秋ぐらいにバイト先の男の子とのトーク見た彼がキレて、あたしのスマホ壁に投げつけたんですよ。もちろん、ただのバイト仲間でなんもない相手だったんですけど。それで壁にも傷つくし、画面もバリバリに割れちゃって。
「それ、普通にDVだよ。物壊すのも、言葉の暴力も」
「あ、そうなのかな。手を挙げられたことはなかったんですけど、さすがにあれは怖かったなー」
で、次の日バイト先で休憩時間に割れたスマホ見てたら、チョウさんが「あれ、画面割れちゃったの?」って聞いきて。そしたらなんか……キレられて怖かったとか、めっちゃ悲しいとか色んなものがぶわーって来て、ボロッボロに泣いちゃって。やばいですよね、休憩室でいきなり号泣。チョウさんもビビったと思うんですけど、オロオロしながらも「大丈夫?なんかあった?あっ話したくなかったら全然言わなくてもいいし!」って聞いてくれて。
「ごめん、なんでもない。ちょっと昨日、彼氏怒らせちゃって。あたしが悪いんだけどさ、あたしバカだし、マジで使えないから」
涙が全然止まんなくてなんとかそう言ったら、チョウさんが突然、あたしの目の前で床に膝ついて座ったんです。ちっちゃい子供と話すときみたいな感じで。そんですっごい真剣な顔で、「飛瀬さんはさ、網を替えるタイミングがいつも完璧だよね」って。
「あ、網?」
「そう、網。あと、お客さんが呼んでるのすぐに気がつくし、下げものの重ね方なんてもはや芸術的だよねって」
「ぼくはどんくさいし視野も狭いから、しょっちゅうお客さんに気がつかないで素通りしちゃって怒られるし、不器用だから一度に運べる食器も飛瀬さんよりずっと少ないし。飛瀬さんはさ、ぼくができたらいいなーって思うこといっぱい、いっぱい!できるんだから、「使えない」なんて言われたらぼくの立場がないよ」
冗談めかしてテキトーにはげましてるとかじゃなくて、真顔で一生懸命、そう言ってくれたんです。チョウさん、普段からあーゆう、よくも悪くもお人好しすぎる人だってわかってるから、あーマジで言ってくれてるんだなって、なんかすっと入ってきて……。
それきっかけで、まぁゲンキンっちゃゲンキンなんですけど、ちょっと気持ちが切り替わったんですよね。確かにあたしも、チョウさんが言ってくれるようにできることもあんのかなって。フリーターだけど、あたしなりに真面目に同じバイト何年も続けてきたし、もっと調理もやりたいなーとか、興味のあることもあるし。そしたらなんか、彼とのこともちょっと引いて客観的に?見れるようになって。
なにしろ初カレだったし、十四歳からずっと彼と結婚するんだ!って思ってて、ちょっと意地になってたのかもなって。はじめての相手と結ばれるっていうのにこだわっちゃってたっていうか……。
それで、彼とは半同棲状態だったんですけど、実家に戻って。今までもケンカしたときとか実家帰ったこともあったんですけど、その度に向こうが迎えに来ては戻っちゃってって繰り返してたんです。でも今回はちゃんと、家族にも追い返してもらって。彼の家に残ってた荷物も全部、友達に代わりに取りに行ってもらってってして、やっと完全に切れたのが去年の年末だったんです。
「そっか……大変だったね」
「いやまー、気力体力は使いましたけどね。なにしろ六年続いたんで」
ななみちゃんは苦笑いをしながら、結局途中で食べるのを止めてしまったチキンサンドの包装紙を指先で弄んだ。
ななみちゃんの話を聞いて、チョウさんらしいな、としみじみ思った。チョウさんはいつでも人の良いところを見つけて、それを不器用でも、嘘のない言葉で真っ直ぐ伝えてくれる。私も何度それに救われたかわからない。なんだか喉の奥のほうがきゅっとなって、私は残り少なくなってしまったビールを舐めるように飲んだ。
「それなりに落ち込んだけど、もうどうにもできないくらいダメになってたのはわかってたんで、意外と自分の気持ち的にはすっと切り替えられたんです。で、まぁ新しい生活も落ち着いてきたし、チョウさんの誕生日のタイミングでお礼がてらプレゼント渡して、告ろうと思ってたんですけど」
「そっかぁ、こく……えっ!?告る!?」
「はい。つってもあたしも別れたばっかりだし、とりあえず気持ち伝えて?まずは二人で遊びにいくとかできたらなーって。チョウさんの誕生日の次の日にシフトかぶってたから、その日に言おうと思ってたんですけど、チョウさん急に来なくなっちゃったから……」
パニック。パニックだ、なんだかよくわからないけど、なんかすごい胸がバクバク言っている。
「えっと、ななみちゃんはさ、チョウさんにそのぉーいわゆる、ラブ、なの?」
ななみちゃんはえへへ、と効果音がつきそうなほど可愛らしくはにかんだ。
「ラブ、です。あたし、ぽっちゃりもアリ派なんですよ」
YouTubeもこっそり教えてくれたんで見てるんですけど、お腹がばいんばいんなってるのにめっちゃ踊ってるのとか可愛いですよね!と、完全に恋する乙女のテンションで話すななみちゃんにはっとした。
そっか、ななみちゃんは、前のチョウさんから好きだったんだ。
最近すっかり見慣れてしまって忘れかけてたけど、呪いが解ける前のチョウさんのルックスは、まぁ失礼ながらあんまり女の子受けするタイプじゃなかった。そのときのチョウさんに恋をしたななみちゃんは、イケメンになった今の「白鳥くん」にキャーキャー言ってる女の子たちとは違って、チョウさんの本質を好きになったってことだ。その事実になぜか呆然としている間も、ななみちゃんは冷めてしまっただろうチキンサンドを食べながら、バイト先でのチョウさんの面白エピソードを楽しそうに披露してくれた。
「話いろいろ聞いてもらって、ありがとうございました!チョウさんと話す機会あったら、店長もバイト先のみんなも心配してるって伝えてください」
ちょっとだけ眉を下げてそう言うと、ちょこんと小さくお辞儀をしてななみちゃんは去っていった。その背中を見送りながら、思わず声に出して呟いてしまった。
「まじか……」
「えっ飛瀬さんと?」
ちょうどバイトが入っていなかった日曜日の午後、ぼくとキノはパティスリー・ノーマにお茶をしに来ていた。メニューとお冷を持ってきてくれた塩原さんに、「白鳥くん、休みの日も食べにくるなんてよっぽどこの店が好きなんだねー」とからかわれる。ついでにキノのほうを見てから意味ありげに目配せしてくるのを、しっしっと慌てて追い払った。
「そう、ケンタッキーでばったり。チョウさんどうしてますかーって聞かれたから思わず、長野の親戚の蕎麦屋でバイトしてるって適当に言っちゃった」
「そっか、ありがとう。嘘ついてもらっちゃってごめんね」
まいったなぁと思いながら、ガラスの器に入った白桃のブランマンジェを口に運ぶ。キノは目の前のベイクドチーズケーキを小さく切りながら、「それはいいんだけど」と続けた。
「チョウさん、焼肉屋の人たちもそうだけど、みんなに言わないの?だって、今のこれが本来のチョウさんなんでしょ。信じてもらえるかはともかくとして、ずっとこのままってわけにいかなくない?バイトもずーっと休ませてもらってる状態なんでしょ?」
「うーん、そうなんだけどね……」
キノには呪いの期限については話していない。周りに言わないのは前のぼくに戻る可能性もあるからという、いわば保険の為なんだけど、さてどう説明すればいいのやら……。
「なんで?信じてもらえないのが心配なら、私が一緒に行って証人になるし」
「いやーそういうことでもなくて、なんというか、まだ周りには言えない事情があって」
濁しながら答えると、カーンと音を立ててキノがフォークをテーブルに置いた。
「事情ってなに?チョウさん、また私に何か隠してるの?」
「隠してるなんてそんな」
「じゃあなに?チョウさん、呪いのことだってずっと私に話してくれなかったじゃん。あれ、実は結構ショックだった。私は大事なこと全部チョウさんに話してるのに……」
「呪いのことは、ぼく自身も本当だと思ってなかったから話さなかっただけで」
「じゃあ今の事情っていうのは?」
思いがけない話の展開に焦っていると、ピリついた空気を裂くようにテーブルの上でキノのスマホが鳴った。「ちょっとごめん」と言いながら一度、店の外に出るキノを見送ってから、両手で頭を抱えて俯く。
あー!ぼくは一体どうすればいいんだー!
そのときふっとスパイスと花が混じったような甘い香りがしたかと思うと、目の前から艶のある声が降ってきた。
「言わないの?」
ぱっと顔を上げると、さっきまでキノがいたその場所に、涼しげな薄緑の着物に身を包んだジーンが座っていた。
「わっジーン!びっくりした。ていうか着物だー、すごい、似合うね」
素直に感想を言うと、ジーンはちょっと照れたのか、きちんとセットされた前髪を軽く触った。
「それはどうも。ところで、呪いがまた戻っちゃうこと、あの子に話してないんでしょ。言わないつもりなの?」
聞かれて、ぼくはなんとなく少し崩れたブランマンジェの表面を見つめた。
「……ぼく、期限までにはキノに告白しようと思ってるんだけど」
「そうしたほうがいいでしょうね」
「でもそのときにキノが呪いの期限のこと知ってたら、断れなくなっちゃうんじゃないかなって」
「……まぁそうかもね」
ジーンは少し気まずそうに、今日はベージュ色に塗られた自分の爪を眺めた。ふと窓ガラス越しに外を見ると、店の前でスマホを耳に当てて話し込んでいるキノの後ろ姿が見えた。まだしばらくかかりそうかな。ちょうどいいので、ずっと気になっていたことを聞いてみる。
「あのさ、いっこ確認なんだけど」
「なに」
「真実のキスってさ、ぼくが好きな相手からでも、その相手がぼくのこと本当に好きじゃなかったら、やっぱり効果はないんだよね?」
「そうだね、逆も然りだけど。相手がどんなにあんたのことが好きでも、あんたに気持ちがなかったら成立しない」
「そうだよねー」
わかってはいたけど、かぎりなく薄そうな希望に一瞬、天を仰いでしまう。
「……たとえばキノが気を使ってオッケーしてくれたとしてもさ、キスして呪いが解けなかったら、たぶん一生立ち直れない。だから、キノには期限があること言わないでおこうと思って」
「なるほど」
「……ねぇこの呪いってそもそもさ」
もう一つ気になっていたことを聞こうとしたところで、厨房から出てきた守谷さんが足取りも軽やかに近づいてきた。なぜかいつものコックコート姿ではなく、落ち着いたグレーのジャケットを着ている。
「やぁやぁ、お待たせしちゃって」
「あれ、守谷さん今日は早上がりですか?」
「そう。後はひじりーに任せて、これからジーンさんと歌舞伎観劇に」
「へぇーって、えっ!?ジーンと!?」
呆気に取られているぼくをよそに、ジーンはさっさと立ち上がると、ぼくに向けて手をひらひらさせながら出口に向かっていってしまった。守谷さんも慌てて「じゃあみんな、あとはよろしくね」と言いながら後を追う。
「いいねぇ歌舞伎、大人のデートって感じで」
いつの間にか厨房から出てきていた聖川さんがしみじみと言う。
「で、デートって、もしかしてあの二人ってそういう?」
「いやーそれが難攻不落らしいよ、白鳥くんのお友達。もりやんは相当がんばってるけどね、昨日も店終わったあと、ジーンさんにあげるフィナンシェいそいそ焼いてたもん」
まじか。守谷さんが独身だとは聞いてたけど、そういうこととは思わなかった。いやでも、守谷さんもなかなかミステリアスな人だし、案外お似合いなのかも……?新展開に動揺していると、電話を終えたキノが帰ってきた。
「ごめん、お待たせ。お母さんからだった」
「あ、そうなんだ。お母さん元気?」
「うんまぁ、相変わらずって感じ」
気まずい沈黙。どうしようか迷っていると、アイスコーヒーをちびちび飲んでいたキノが口を開いた。
「さっきはごめん。なんか、チョウさん私には相談したくないのかなー、そんなに頼りないかなーとか思ったら悲しくなっちゃって……でもよく考えたらチョウさんもいつも、私が話したくなるまでは無理やり聞かないでくれるなって気がついた。チョウさんが話したくなかったら話さなくて全然いいし、言いたくなったらいつでも聞くから」
そう言って微笑んでくれるキノを見て、ぼくは胸の真ん中がじわーっとあったかくなるような気がした。こういう風に生真面目で、相手に寄り添える優しいところも、キノの好きなところの一つだ。
「ありがと、いつか絶対ちゃんと話すから!」
それからぼくは、今さっき目撃した衝撃の事実について報告した。キノは「え、さっきすれ違ったけど、あの着物のきれいな男の人がジーンだったの?」と驚いていた。そっか、そういえばキノはまだジーンと会ったことなかったのか。ぼくたちはそれぞれ飲み物をもう一杯ずつ頼んで、それからキノが担当している音ゲーをプレイするために、数駅先のゲームセンターに向かった。
「だぁーっあ!あーー、あああああー!」
「あはははは!チョウさん、ぜんっぜん間に合ってないじゃん!」
五月にデビューした『パッドマニア』は、音楽と共に流れてくる画面上の音符に合わせて、複数の四角いパッドを叩いたり、その上で手をスライドさせたりするゲームだ。上級者はスティックを使ってプレイすることもできて、その場合はスライドの他に円やジグザグを描くような動きも追加される。チョウさんは手を使う初級者モード、私はスティックを使ったハードモードにするハンデを付けて対戦したけど、まったくもって勝負にならなかった。
「あーっ!だめだ、難しいよこれ!キノやっぱうまいなぁ」
「いやーでも、これ最近追加されたばっかの曲だから、私もあんまスコア伸びなかった」
何度かの惨敗の後、チョウさんは大袈裟に手を付けて「まいりました」と頭を下げた。
「この雪辱、どうやって晴らそうか……あ、ダンレボやろうよ」
「えー絶対チョウさんが勝つじゃん」
ふざけながらゲームを物色していると、騒がしいゲーム音に混じって名前を呼ばれる声が聞こえた。
「キノさん?」
振り返ると、通路を挟んだクレーンゲームコーナーに立っていたのは、なんとななみちゃんだった。
「あれっ飛瀬さ……」
思わず普通に駆け寄って行こうとするチョウさんを慌てて小突く。チョウさんもそうだった!とはっとして、大人しく私の後ろに引っ込んだ。
「すごーい!ばったり連続ですね!」
「ほんとだね。ななみちゃん一人?」
「いえ、うちのお兄ちゃんと一緒です。なんかどーしても欲しいレア物がUFOキャッチャーにあるとかいって付き合わされて。やばいんですよ、さっきからもう五千円くらい使ってんの」
ななみちゃんが指さすほうを見ると、高円寺とか下北沢にいそうなファッションに大きな黒縁メガネをかけた男の人が、クレーンゲームにへばり付いていた。思いがけず遭遇したななみちゃんにかなり動揺しているのか、チョウさんはずっと不自然に目線を逸らしながら小刻みに動いている。いやいや、あやしいって……。
「えーっと、そちらは?もしかして、キノさんの彼氏さんですか?」
挙動不審なチョウさんを見ながらおずおずと聞くななみちゃんに、いよいよパニックになったらしいチョウさんが口を開きかけた。その瞬間、私は衝動的にチョウさんの腕を掴むと、自分の手をそこに絡ませた。
「そう、彼氏」
何度も何度も聞かれてきた質問。私ははじめて、はっきりと、それを肯定する言葉を吐いた。驚いてこっちを見つめてくるチョウさんの視線を感じたけど、大丈夫、と言うようにチョウさんの腕を握っている手に力を込める。
「そーなんだ!えー、めっちゃお似合いですね」
そうかな、と微笑むと同時に向こうのほうから「やったー!獲れた!やったぁー!なな!兄ちゃんやったぞ!」という大声が聞こえてきた。
「うわっうるさ……すいません、じゃあまた!キノさん連絡しますね」
お兄さんのほうに駆けていくななみちゃんを見送ってから、組んでいた手をすっとほどく。
「ごめんキノ、めっちゃ慌てちゃった……ごまかしてくれてありがとう」
「うん、いいよ」
行こっか、と歩き出しながら、私は自分の中で固まっていく事実にひとり愕然としていた。
そう、私はさっき嘘でも、一瞬でも、「チョウさんの彼女」になりたかった。
だって私にはもう、その資格はないんだから。