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第四話:夜のチョウ

「さいってー!」

 響き渡る大声と共にばしゃっという音がしたほうを見ると、窓際の席に座った二人組のお客様の男性が、女性に顔面からアイスティーをかけられたところだった。ゴールデンウィーク真っ只中、おかげさまで満席のパティスリー・ノーマにいるお客様とスタッフ全員の視線が集中する。

「信じらんない、そんな嘘ついてたなんて!」

「待ってよあやちゃん、話を聞いて……」

「聞きたくない!もう連絡してこないで!」

 テーブルにお金を置くと、女性はものすごい勢いで店を出て行ってしまった。一瞬、追いかけようと男性も椅子から立ち上がりかけたけど、すぐにもう一度座ってしまう。ラグビー選手のようにがっしりとガタイのいい体を丸めてうなだれるそのお客様の髪からは、ぽたぽたとアイスティーが滴り落ちていた。はっと我に返ったぼくは、急いでタオルを持ってそちらの席に向かう。

「大丈夫ですか?こちらお使いください」

「ありがとうございます。すみません、お騒がせした上、汚してしまって……」

「いえいえ、気になさらないでください」

 意気消沈した様子の男性にタオルを渡す。申し訳なさそうに濡れた髪や服を拭いていたお客様は、ふいに顔を上げてぼくと目が合うと、驚いたような表情になって急に立ち上がった。

「きみ!」

「えっはい!はい?」

 びっくりしているぼくの両手をがしっと掴むと、これまた店内中に響き渡る声でお客様が叫んだ。

「ホストやる気ない!?」


「さっきはすみません、いきなり……でも本当に、にっちもさっちもいかない状況で困ってまして」

 五月の暖かい日とはいえ、頭からたっぷり一杯分のアイスティーを浴びてそのまま帰ったら風邪を引いてしまうかもしれないということで、先ほどのお客様――郷田さんは店のバックルームで服や髪を乾かすことになった。以前、地域のお祭りに参加したときに作ったというパティスリー・ノーマのノベルティTシャツをお貸ししたけど、ピチピチでボディービルダーのようになってしまっている。

「とにかく話だけでも!」と鬼気迫る様子で頼み込んでくる郷田さんに、ちょうどシフトが終わるところだったぼくはひとまず事情だけ聞いてみることにした。

「わたくし、新宿の外れのほうでホストクラブを経営してまして。といっても数人でやってる、こじんまりとした店なんですけど。あ、これ名刺です」

 手渡された名刺には、キラキラした加工の文字で『Club Rain Shelter』と書いてある。

「自転車操業で細々とですが何とか続けてこれたのは、昔から来てくださる常連のお客さんと、うちのナンバーワンのシュンヤってやつのおかげだったんです。ところが先日、突然シュンヤが辞めてしまいまして。どうやら大手の店から引き抜かれたらしくて」

 見た目こそちょっと怖そうだが、郷田さんの話し方は丁寧で礼儀正しくて、失礼かもしれないけどぼくが想像していたホストクラブのオーナーのイメージとは全然違っていた。思わず話を聞くこちらも真剣になってくる。

「引き抜きの誘いは前々からしょっちゅうあったんですが、シュンヤは断り続けてくれてたんです。だから、ついにあいつがもっと大きい所に行きたいって思うのは全然、応援したいことなんですけど……いかんせんタイミングが悪くて。今夜はうちの店のオープンからずーっと来てくれてる、一番のお客さんの誕生日なんですよ。華のないお祝いになってしまいたくないんです。でもナンバーワン不在な上、うちはいつでも人手不足で……そこで!」

 郷田さんはまたぼくの両手をがしっと掴むと、真っ直ぐな目で見つめてきた。

「白鳥くん!今夜一晩だけでもいいんで、うちの店で働いてくれませんか!?」

「えぇっそんな、無理ですよ!経験もないですし」

「大丈夫だいじょうぶ!他のスタッフはベテランばっかりだからサポートするし!きみみたいにかっこいい新人がいるってだけで、間が持つと思うんですよ」

 お願いします!と土下座する勢いで頼んでくる郷田さんにノーとは言いづらい。でもいくらなんでも、ぼくにホストなんて無理だよ……。

「あ、そういえばさっきの女の人は?」

 とりあえず落ち着いてほしくて気になっていたことを聞くと、郷田さんはさっきびしょ濡れになっていたときと同じくらい落ち込んだ様子で下を向いてしまった。

「彼女です……実は、ホストクラブをやっていることはずっと内緒にしていて。経営してるのは普通のバーってことにしてたんです。でももう付き合って半年になるからいつか話さなきゃとは思っていたし、今日は店のことで頭がいっぱいだったから、つい本当のことを話してしまって……そしたら」

「怒ってアイスティーかけられちゃったんですね」

「はい……」

 段ボールの中の子犬のようにしょんぼりしている郷田さんを見ていたら、何とかしてあげたい気持ちになってきてしまう。ただでさえお店のことが心配なのに彼女ともこじれて、そりゃ落ち込むよね……。

 えーい、こうなったら乗りかかった船だ!

「わかりました、今日一日だけ!果たして本当にお役に立てるのかわかりませんが」

 思い切ったぼくがそう言うと、郷田さんはぱぁっと顔を輝かせた。

「ありがとう白鳥くん!恩に着ます!」



「あれ?松崎さん、今日お休みでしたよね?」

 新作ゲームの発表イベントを終えて会社に戻ってくると、今日はカレンダーどおり休みを取っているはずの先輩がデスクでパソコンに向かっていた。ゲームセンターのアーケードゲームを作る会社に新卒で入社した私は、今は音楽ゲーム、いわゆる音ゲーの企画開発部に所属している。

「あ、木下ちゃんお疲れさま!そうだったんだけど、やっぱりイベントどうなったかなって気になっちゃって。どうせだから会社来て溜まってる経費精算とかも片付けちゃおうと思って。どうだった?盛り上がった?」

「はい、親子連れも多くて盛況でした!テストプレイお願いしたゲーマーさんもさすがで、お客さんからおー!って歓声が上がってましたよ」

「SNSもチェックしてたけど、動画上げてくれてる人も結構いるね。こういうのが一番宣伝になるからねー」

 七年先輩の松崎さんは、若くしてプロジェクトリーダーを任されることもあるほどのやり手だ。今のチームに女性は松崎さんと私だけなのもあって、しょっちゅう相談に乗ってもらっている。

「木下ちゃん、備品置きにきただけでしょ?もしこの後何もなかったら、ちょっと飲みに行かない?」

「いいですね!そういえばあそこもう行きました?新しくできた焼き鳥屋さん」

「まだなのー、行ってみたいと思ってた!」

 ちゃちゃっと片付けを済ませると、私たちはまだ明るい街に繰り出した。



「おー!いいじゃんいいじゃん、それっぽいよ」

 開店前の『Club Rain Shelter』控室で先輩ホストのソータさんに髪をセットしてもらったぼくは、恐る恐る鏡の前に立った。

「すごい。ぼくこんなに髪の毛に何かしたのはじめてです」

「直毛だと幼く見えるから、ちょっとコテで遊ばせちゃった的な?」

 服は「最近のホストはスーツじゃなくても大丈夫」と郷田さんに聞いていたので、キノと買い物に行ったとき以来出番のなかったコージさんセレクトの一式を着てきた。なるほど、これだったらホストに見えないこともない、かもしれない。

「ばっちりばっちり!ちょっと慣れてない感じがむしろ初々しくていいですよ。ところで白鳥くん、源氏名は何にします?レイのまんまでもホストっぽいけど、さすがに本名はまずいでしょ」

 いかにもオーナー然としたスーツに着替えた郷田さんに聞かれて、頭を悩ませる。うーん源氏名、げんじな……。ふとそこで、ぼくが知っている中で一番きらびやかな人物の顔が頭に浮かんだ。

「じゃあ……ジンで」

「ジンね、いいじゃない!それじゃあ、開店します。みんな、今日もよろしく!」


「マナちゃん、こんばんはぁー!来てくれてありがとっ」

「ソータくん、やっほー!」

 ホストクラブと聞いてシャンデリアとかがあるゴージャスな内装をイメージしてたけど、『Club Rain Shelter』の店内は思いの外落ち着いた雰囲気で、どちらかというとスナックのような感じだった(行ったことないけど)。深い赤色のソファ席がいくつかあるけど、席の間もそんなに空いてなくて、今も別々に来た隣同士のお客さん達が一緒に盛り上がっている。ぼくはまず、ソータさんご指名のマナさんのテーブルにヘルプで付くことになった。

「あれっ新人くん?めっちゃイケメンじゃーん!」

「は、はじめまして……」

「こいつ今日から入ったジン!ホスト初めてらしいからお手柔らかにね、マナちゃん。あと浮気は禁止だぞっ」

 芝居がかったポーズを決めながらどんどん場を盛り上げるソータさんに、ぼくはすっかり感心してしまった。こじんまりやっているという郷田さんの言葉どおり、スタッフはホストが何人かと厨房のコックさん一人だけなので、飲み物の注文が入ったら手の空いているホストが取りに行く。マナさんのオーダーしたビールをもらいに行くと、郷田さんが職人のように慣れた手つきでサーバーから綺麗に生ビールを注いでくれた。

「白鳥くん、どうですか?大丈夫そう?」

「はい、ソータさんが色々教えてくれるので……それにしても、正直思ってたホストクラブのイメージとは結構、違いました。なんかもっとギラギラっとしてて、ホストの人達がお客さんに甘い言葉を囁きまくる!みたいな感じを想像してて」

「あはは、いや、普通のホストクラブはそうだと思うよ。うちがちょっと特殊というか。元々、女の人たちが気軽に飲んでしゃべってっていう場所が作りたくてはじめたんです。ガールズバーとかスナックの男女逆転版というか」

「あ、確かにそんな感じですね」

「だから同伴料とかも取ってないし、お客さんとの距離感も各々に任せてます。ソータのお客さんは特に、ちょっとビジュアル系好きな普通のOLさんとかが多いからやりやすいと思う。がんばってね!」

 郷田さんが笑顔で渡してくれたグラスをトレーに乗せて席に戻ると、マナさんは楽しそうにカラオケのデンモクを操作していた。

「ねぇジンくん、なんか歌って!キンプリ聞きたいなぁー」

「えっすみません、ぼくちょっと歌は……」

 慌てて断ろうとしたけど、マナさんの耳には届いてないらしい。あれよあれよという間に、『シンデレラガール』が流れてくる。

「いいんだよ下手でも。この後オレが歌うのの引き立て役になるしな」

 ソータさんに促され、意を決してマイクを両手で握ると、ぼくは大きく息を吸って歌い始めた。

 マナさんは最初、楽しそうにタンバリンを叩いていたけど、だんだんとその音が小さくなってくる。他のテーブルにいたお客さんもどういう訳か話すのをやめて静かになっていった。いつしか静まり返った店内に響き渡る自分の歌声……。

 ピッ。

 一番のサビまでを歌い切ったところで、ソータさんがすっと演奏停止ボタンを押した。

「……わぁー、マナこんなに音痴な人ってはじめて見たかもー!」

「うっすみません。ぼく、本当に救いようのないくらい歌が下手くそで……」

 ど、どうしよう……せっかく盛り上がってたのに白けさせちゃった……!?いたたまれない気持ちでいっぱいのぼくを「ま、気にすんなよジン!ごめんねーマナちゃん」とソータさんがフォローしてくれる。しゃべりもダメだし、せめて何か一発芸でもして盛り上げなきゃ……!と焦ったぼくの頭に、一つのアイディアが降ってきた。

「あの!ソータさん、K-POPとかって歌えますか?」

「もっちろんだよ、マナちゃんBTS好きだもんね」

「ソータくん、Butter歌ってー」

 来た!これならいける!

 イントロが流れると、ぼくはおもむろに立ち上がって少し広いスペースに移動した。



「男なんて!みーんな嘘つき!」

 ドンっと大きな音を立てて空になったビールジョッキを置くと、松崎さんはうるさい店内でも目立つほどの大声で言い放った。私は乱暴に置かれたジョッキが割れていないのを確認してから、ちょうど通りかかった店員さんにおかわりを注文した。

「松崎さんがこんなに荒れてるのはじめて見ました。仕事でトラブルがあってもいつも一番落ち着いてるのに」

「だってぇ、三年ぶりの彼氏だったんだよ!このまま仕事ばっかりして、ずっと一人なのかなぁってぼんやり不安になりはじめた時に、やっといい人に出会えたって思ったのに……それなのに」

 いつもテキパキと明るい松崎さんも、恋愛のこととなるとこんな風になるのか。なんだかちょっと可愛いな、なんて思ってしまう。

「まぁまぁ、その人自身がホストってわけではないんですよね?」

「でもホストクラブのオーナーなんだよ?女を騙してるんだよ!?」

「ホストクラブは行ったことないんでわからないですけど、水商売全部がそんなに悪どいわけではないと思いますよ」

 大学時代のことを思い出しながらそう言うと、松崎さんは「えーそう?」と疑わしそうな顔をした。

「……本当にここだけの話ですけど、大学の頃にちょっとだけキャバクラでバイトしたことがあるんです」

 思わず小声になって告白すると、松崎さんは「えーうそー!木下ちゃんが!?」と目を丸くした。

「まぁ、社会勉強で短期間だけですけど……」

 態度が悪くて速攻でクビになったことは黙っておく。

「もちろん悪どい感じの人もいると思いますけど、働いてる女の人たちも色々でしたよ。本当にお家の事情でどうしてもお金が必要だからって人もいたし、好きなバンドのツアーを追っかける資金が欲しいからってライトな感じでやってる子もいました。お客さんも、気のいい近所のおじいさんみたいな人もいましたし」

 きゅうりの浅漬けをつつきながら聞いていた松崎さんは少し赤くなった目を伏せた。

「確かに、職業で人を差別するのはよくないかもね……私もホストクラブ行ったことあるわけじゃないし、正直、偏見はある」

 新しく来たジョッキのビールをぐっと流し込むと、松崎さんは「百聞は一見にしかず!」と言って立ち上がった。

「木下ちゃん、私が全部おごるから、もう一軒付き合って!」

「えっ松崎さんまさか……」

 伝票を引っ掴む彼女の目は、なぜかメラメラと燃えていた。

「そう、乗り込むの!彼のホストクラブに!」



「すごーいジンくん!振り完璧だしキレッキレ!」

 伸びやかに歌い上げられるBTSに合わせて(ソータさん、歌うまいですね……!)、ぼくはフロアの真ん中で完コピしたダンスを披露していた。いつのまにかマナさんだけでなく、他のテーブルのお客さんからも手拍子や歓声が聞こえてくる。

 ほとんど周りには言っていないけど、実はぼくは時々「スイーツ太子たいし」の名前でYouTubeに踊ってみた動画を投稿している。高校の時にBIGBANGにはまったのをきっかけにダンスを練習しはじめたんだけど、最初は太っている自分が全然踊れていないのがむしろおもしろいな、と思って動画を投稿していた(事実、それをおもしろがってもらって再生回数もちょっと伸びた)。けれど継続は力なり、だんだんと踊れるようになってきて、最近の動画のコメント欄には「踊れるデブ」「太子さん今日もキレッキレwww」なんて文字が並ぶようになっている。それにしても今日はいつもより動けてる気がするな。ってそうか!二十五キロ軽くなったんだった……!

 最後のキメのポーズまで踊りきると、店中から大きな拍手が巻き起こった。「うぉい!おれより目立ってんじゃねーよ!」と言いつつ、ソータさんも笑顔で手を叩いてくれている。

 場があたたまったのに安心してほっと息をつくと、店の入り口近くにいた別の先輩の「ご新規、二名様でーす!」という声が聞こえてきた。新しいお客さんが来たらしい。

「ジン、人足らないから新しいテーブルのほう付いて」

 とソータさんに言われて入り口のほうに行くと、そこにいたのは……。

「キノ!?」

「チョウさん!?」



 松崎さんの彼氏さんがやっているホストクラブは、新宿歌舞伎町のかなりはずれのほう、新大久保に近いくらいの場所にある小さなお店だった。店構えもぱっと見はホストクラブというより普通のバーみたい。中に通されると、なんとそこにいたのは、前に新宿で待ち合わせたときに着ていたギラギラコーデに身を包んだチョウさんだった。

「は?えっなんで?キノこんなところで何してるの?」

「それはこっちのセリフだよ!チョウさんこそ何してるの!?」

「バイト」

「バイトぉ!?えっケーキ屋さんはどうしたの?」

「えーと、これには事情があって……」

 あまりの驚きに思わず声が裏返ってしまう。目の前の情報を処理できずにいると、「お客様、どうなさいましたか?」と言いながら、大柄ないかにも責任者といった感じの男の人が奥から出てきた。その人は私の後ろにいた松崎さんに気づくと、細い目をめいっぱい丸くした。

「あやちゃん!なんで?」

「郷田さん……」

 どうやらこれが松崎さんの彼氏らしい。しばしの沈黙のあと、松崎さんは静かな、でもきっぱりとした声で

「飲みにきたの。店長さん指名で」

 と言った。

「……えーっと、はい。では、こちらのテーブルにどうぞ。ジンくんもこっちに付いてくれる?」

 彼氏さんの案内で空いていたテーブルに座ると、松崎さんたちは気まずい雰囲気のまま黙り込んでしまった。それを横目に、隣のチョウさんにこそこそ声で話しかける。

「で?なんでホストクラブでバイトなんてしてるの!?」

「いやーそれが……今日の昼にうちの店であの二人が喧嘩してるところに居合わせて」

「ケーキ屋さんで?」

「うん。それで郷田さんから色々と事情を聞いて、なんだかんだあって今日だけ手伝うことに」

「なんだそりゃ!なんでそうなるのよ!」

「キノは?郷田さんの彼女さんと知り合いなの?」

「うん、会社の先輩」

「えーまじで!?世間せっま」

 ひそひそと話していると、急に郷田さんが「あやちゃん」と声を出した。思わず私たちも黙って二人の会話に耳をすます。

「よく店の場所わかったね」

「……前にお店の名前だけは聞いてたでしょ。飲みに行きたいって言っても恥ずかしいって場所は教えてくれなかったから、あの時は調べなかったけど……ネットで検索したらすぐに出てきた」

「そっか」

 またしても沈黙。どうしようかとオロオロしていると、別のテーブルにいたホストの人がおしぼりと全員分のビールをグラスに注いで持ってきてくれた。なんだか妙に喉が渇いて、何も言わずに置いていってくれたそれを一気にあおる。

「……おれの母親さ、茨城の田舎町でスナックやってたんだ。『あまやどり』って名前の。だからそこから取って『Rain Shelter』。お袋の店はもうないんだけど、姉妹店みたいなつもりで」

 ビールに手もつけず話し始めた郷田さんに、ずっとテーブルの上を見つめていた松崎さんが顔を上げた。

「お袋はまぁいわゆる、地主さんの愛人でさ。別れる時の手切れ金みたいな感じでその店をもらったらしいんだよな。だから基本的にはずーっとお袋と二人きりで……家が水商売やってるっていうので嫌なこと言われることも多かったけど、おれはお袋の店が嫌いじゃなかった。独り身のおっちゃんが夕飯がてら飲みにきたりして、なんだろう……帰りたい家のない人が、擬似的に帰れる場所みたいな感じがして」

 郷田さんは一度言葉を切ってグラスを取ると、ビールを一口だけ飲んだ。

「東京に出てきたばっかりの頃バーテンをやってたんだけど、そこに来る女の人たちを見ててなんか……なんだろう、帰りたい家がないのかな、って思うことが多くてさ。そういう人たちが、本当の家に帰る前にちょっと一息つけるような場所が作りたいなって思ってこの店をはじめたんだ。スタッフも他のホストクラブではちょっとあぶれちゃうような、あんまりガツガツしてないやつだけ集めて。お袋がやってたみたいな店を、おれも作りたいなって」

 ずっ、と鼻を啜る音が聞こえて横を見ると、チョウさんが目に涙を溜めていた。おいおい、お前が泣いてどうする!

「とは言っても水商売は水商売だし、あやちゃんが嫌がるのも当然だと思う。嘘ついてて、本当にごめん」

 大きな体を折り曲げて深々と頭を下げる郷田さんを、松崎さんはしばらくじっと見ていた。

「お母様、今は……?」

「地元でのんびりやってるよ、庭で野菜作ったりして」

「そっか」

 そこではじめてビールのグラスに手を伸ばすと、松崎さんはその半分くらいを一気に飲み干した。

「じゃあ、今度ご挨拶に行きたいな」

 松崎さんの言葉にぱっと顔を上げると、郷田さんは小さな声で「いいの?」と呟いた。

「お母様がご迷惑じゃなかったら」

「母ちゃんめちゃくちゃ喜ぶよ。今すぐ嫁に来てくれって大騒ぎするかも」

「それについてはもうちょっと、考えたいけど」

 微笑む松崎さんの表情はすっきりしていた。郷田さんも満面の笑みで目が糸みたいに細くなってしまっている。よかったよかった……と安心して横を見ると、チョウさんがおしぼりを手に号泣していた。

「よ、よかった、二人が仲直りできて」

 嗚咽しながらびぇーびぇー泣いているチョウさんに若干引いていると、向こうのテーブルから「ジンくーん!USAおどれるー?」というテンションの高い声が聞こえてくる。

「誰だよジンくんって」

「ぼくは今日だけジンくんなんだ……マナさーん!踊れます!」

 そう言って涙をぬぐうと、チョウさんあらためジンくんはフロアの中心に行って踊り始めた。そういえばこの曲もYouTubeに上げてたなぁ。ジャンプするところの振りが「ごむまりが跳ねてるみたい」なんてコメント書かれちゃってたけど、今やすっかりスタイルの良くなったチョウさんが踊ると普通にかっこいい。店内のいたるところからキャー!ジンくーん!という黄色い歓声が聞こえてきて、なんだかちょっともやもやする。


 うん?「もやもや」?


「じゃあおれは裏に戻るけど、二人ともゆっくり飲んでってね」

 そう言って郷田さんがテーブルを後にすると、松崎さんは「よーし!飲み直そう!」とグラスを掲げた。

「木下ちゃん、付き合ってくれて本当にありがとうね」

「いえいえ、郷田さんがいい人そうで私も安心しました」

 かんぱーい!とあらためてグラスを合わせると、松崎さんは少し声を落としてチョウさんを指さした。

「ところであのイケメンは?もしかして、木下ちゃんの彼氏!?」

「違いますよー。中学の時からの親友です」

 なーんだ、と言いながら松崎さんはソファに身を沈める。

「でも、あんなかっこいい子と友達だったら好きになっちゃわない?」

「えっ?」

「中学くらいから一緒だと意識しなくなるものなのかなー」

 意識……意識?チョウさんを?

 USAを踊りきったチョウさんは、すべてのテーブルから沸き起こる拍手を一身に浴びている。

「あー楽しかった!ジンくんありがとー。じゃあマナ明日も仕事だから帰るねっ」

 曲をリクエストしたお客さんはお会計を済ませると立ち上がって、綺麗にネイルが施された手をチョウさんの体に回すと、ぎゅーっとハグをした。

 チョウさんは相当びっくりしたらしく、行き場のない手をワタワタさせている。その間に、お客さんは「ばいばーい」と言いながら、ずっと隣に座っていた金髪のホストさんと腕を組んで店を出ていった。



 マナさんからの突然のハグに仰天したぼくは、しばらく呆然としてしまった。お、お母さん以外の女の人とこんなに密着したのはじめてかも……お腹のちょっと上くらいに当たったやわらかい感触について深く考えないようにしながらやっと体を動かすと、キノが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてこっちを見ていた。えっ見られた?うわー!なんか恥ずかしい!し、なんだろう気まずい……。

 落ち着かない気持ちをなんとか抑えようと無駄にうろうろしていたら、店の入り口のほうからまたいらっしゃいませー!という声が聞こえてくる。

「ジンくん!例の常連さんが来たから、こっち手伝ってくれる?」

 郷田さんに呼ばれて行った新しいテーブルには、深い紺色の上品なワンピースを着た年齢不詳の美人が、優雅に脚を組んで座っていた。

「あら、見ない顔。新しい人?」

「は、はい!今日から入りました、しら……じゃなかったジンです!」

 丁寧な所作で電子タバコを吸う常連さんの隣に腰を下ろす。

「ミヤコさん、今日お誕生日でしたよね。おめでとうございます。これ、お店からのプレゼントです」

 シャンパンのボトルを持ってきた郷田さんに、ミヤコさんと呼ばれた女性は少しだけ眉をひそめながら

「嫌なこと律儀に覚えてるのね、郷ちゃん。ありがと、じゃあこれと同じの他のテーブルにも一本ずつ私から」

 と事もなげに言った。お酒に詳しくないぼくでもわかる、これってお店で飲むと一本何万円もするやつなんじゃ……なるほど、ミヤコさんのおかげでお店が持ってるって郷田さんが言うわけだ。他のテーブルにもボトルが配られると、それぞれのテーブルから「やったー!ミヤコさんありがとうございます!」と、お客さんやホストの先輩たちから明るい声が上がった。

「ところでシュンヤは?今日はいないの?」

 背の高いグラスに注がれたピンク色の液体を飲みながらミヤコさんが聞くと、郷田さんは焦った顔をした。

「え、ええ……今日はお休みをもらってまして」

 シュンヤさんが辞めたって知ったら、もしかしてミヤコさん来なくなっちゃうのかな……なんて勝手に心配になってしまう。

 すごく緊張したけど、不器用ながらもお酌をする。ミヤコさんのほうから色々と質問してくれるおかげで、なんとか会話のキャッチボールもできそうだ。ふがいないなぁ……と申し訳ない気持ちでいると、ふいにソータさんのびっくりしたような声が聞こえてきた。

「あれ、お前どうしたんだよ!」

 思わずそっちを見ると、そこに立っていたのは、ちょっと見たことがないくらいのイケメンだった。すらっとしたモデル体型にグレーがかった金髪が相まって、ファッション雑誌から出てきたみたいだ。

「シュンヤ!今日から新しい店じゃなかったのか?」

 郷田さんも驚いた声を上げる。この人がシュンヤさん!わー、さすがナンバーワン!俳優さんみたーい!失礼かもと思いつつジロジロ見てしまっていると、シュンヤさんはポケットに手を突っ込んだまま、バツが悪そうにこちらのテーブルに近づいてきた。

「胸くそわりぃやつばっかだったから、やっぱやめた」

「ははは、なんだよお前。じゃあ、またうちに戻ってくるか?」

 呆れたような顔をしながらも、郷田さんは嬉しそうだ。けれどシュンヤさんはそれには答えずに、ミヤコさんに向かって

「今日は客として来たから。ここ相席いい?」

 と聞いた。

「もちろん。よかったらこのシャンパン一緒に飲んでちょうだい」

 ミヤコさんがすすめると、シュンヤさんは置いてあったグラスに自分でお酒を注いでからソファにどかっと座った。郷田さんは「じゃジンくん、このテーブルはあとよろしくね」と言い残して裏に戻ってしまう。隣同士に並んだミヤコさんとシュンヤさんの間には、なんだか妙に緊張感のある空気が流れていた。も、もしかしてぼく、ここにいないほうがいいのでは……?

「あのー……、ぼくも席外しましょうか?」

「あらどうして?むしろいてちょうだい。あなたならちょうどいいわ」

 すかさずミヤコさんに言われてしまい、席を立つわけにもいかなくなる。仕方なく、空になりかけたミヤコさんのグラスにシャンパンを注ぎ足した。

「お店辞める気だったの?もしかして、この前のこと拗ねてる?」

「そんなんじゃねーよ」

 穏やかな声で諭すように話しかけるミヤコさんとは対照的に、シュンヤさんは機嫌が悪そうだ。

「……ごめんね。あんた優しいから、私が喜ぶと思ってくれたんだよね。でも枕営業なんてしなくても、もっとお金使ってほしいならいくらでも使ってあげるのに」

「だから違うって!」

 繊細なグラスを割れてしまうんじゃないかと思うくらいの力でテーブルに置くと、それまでずっと前の一点を見つめていたシュンヤさんははじめてミヤコさんのほうを見た。いきなりの展開に一瞬肩がびくっと跳ねてしまったけれど、強い口調とは裏腹に、シュンヤさんの表情はもどかしいような、もしかしたら泣き出してしまうんじゃないかと思うくらい切ないものだった。それに気づいて、ぼくは思わずドキッとしてしまう。

「わざと言ってんだったら本当に趣味悪いよ。そういうつもりであーゆうことしたわけじゃないって、わかってんでしょ?」

 あくまで静かな、でも確実に怒った声で言うシュンヤさんのほうを見ないまま、ミヤコさんはシャンパンを飲み続けている。

「この店辞めたのだって、拒否られたのはホストと客だからなのかもって思ったからだよ」

「それは違う」

 ミヤコさんはグラス置くと、ゆっくりと体ごとシュンヤさんのほうを向いた。

「……ここに私が来るのは、開いてる穴を埋めるためじゃない。むしろ穴があるのを確認するために来てるの。私が自分で選んだ人生の中で埋まらなかったものは、そのままにしておきたい。でも、あんたは埋めようとしてくれちゃうでしょ」

 薄暗い店内で、シュンヤさんの綺麗な目は少し潤んでいるように見えた。

「そしたら私はきっと、あんたのことでたくさん悩むようになっちゃうと思う。手に入れなかったおかげで悩まなくてよくなったはずの色んなことが、全部舞い戻ってきてしまう。それが怖いの」

 ごめんね、と言うミヤコさんからやっと視線を外すと、シュンヤさんは涙目のまま苦笑いをした。

 そっか……二人の間に何があったのかはわからないけど、シュンヤさんはお客さんとホストっていう関係を超えて、ミヤコさんのことが好きなんだなぁ。それに、シュンヤさんに向ける優しい目や声から、ミヤコさんもシュンヤさんのことを大事に思ってるのは明らかだ。でも色んな理由があって応えられない。ぼくに残ってほしいと言ったミヤコさんの気持ちが、なぜか急にわかった気がした。

「じゃあこの先ずっと、ただのホストと客かぁ」

 悲しい気持ちを押し殺すかのようにふざけた口調で言うシュンヤさんに、ミヤコさんは微笑みかけた。

「恋人にはなれないけど、あしながおばさんになったげようか」

 シャンパンのグラスを持ち直したシュンヤさんが、「なにそれ」と聞き返す。ぼくも張り詰めていた肩からようやく少し力が抜けて、ぬるくなってしまったシャンパンを一口飲んだ。

「あんた顔だけじゃなくて頭も悪くないんだし、中年になってもホストやるわけにもいかないでしょ。私がいっぱいお金落としてあげるから、勉強するなり他のことに挑戦するなりしなさいよ。その代わり、年に一回、手書きでありがとうのお手紙ちょうだいね」

「なんだそれ、めんどくせぇ」

 悪態をつきながらも、シュンヤさんは嬉しそうだった。ぼくにもわかる。好きな人とはどんな形であっても、他より少し特別な絆が欲しいものなんだ。

「あーあ、じゃあこの前いきなりキスしたの、最初で最後だったんだなー。もうちょっと堪能しとけばよかった」

 冗談めかしてシュンヤさんが言うと、ミヤコさんは少し考えるような顔をしてから、グラスをテーブルに置いた。

「今日誕生日だし、一回だけしてもらおっかな」

 ミヤコさんの言葉に、シュンヤさんが一瞬固まる。それからぼくに向かってまだ半分以上残っているシャンパンのボトルを指さすと、

「おい新人。これと同じやつ持ってこい。ゆっくり行ってこいよ」

 と指示を出した。はい!と元気よく立ち上がると、ぼくは気になってしまう心を必死に抑えて、振り返らずにテーブルを後にした。



「いやー、なかなかない体験だったね」

 終電で帰るというキノを見送るために店の外に出ると、空気は少しひんやりとした深夜のそれになっていた。

「ほんとにね。ぼくもまさかホストをやる日が来るとは思ってもみなかったよ」

 危ないから駅まで送ってきていいと郷田さんから言われていたので、新宿駅に向かって肩を並べて歩く。

「チョウさん、これからもあそこでバイトするの?」

「うーん、楽しかったけど、ぼくはやっぱりケーキ屋さんのが性に合ってるかな。お酒強くないし、今すでにもう眠いもん。それに、結局シュンヤさんも戻ってくれるみたいだし」

 そう返すと、キノは短く「そっか」と言った。

 今夜、シュンヤさんとミヤコさんを見て、正直ぼくは考えさせられてしまった。

 好きな人とどんな形で、どんな距離にいるのかには色んな正解がある。恋人になるだけがすべてじゃない。ずっとそれがわかってたから親友でい続けられたのに、自分の呪いを解くためにキノとの関係を変えたいって思ってるぼくは、もしかしてすごく自分勝手なんじゃないだろうか?

「ふふ、じゃあ夜のお仕事の最短記録はチョウさんのほうが上だね。私は三日だったもーん」

「ああ、そういえば!くそー、郷田さんにあと二日だけやらせてくださいって言ってみようかな」

「……えー、やめなよ」

 ちょうど新宿駅の東南口に着いたので、じゃあまた連絡するねー!と言ってキノは改札に吸い込まれていってしまった。

「なーんだ、案外いい感じに来てるじゃない」

 突然、背後から聞こえた声にびっくりして振り返ると、キラキラの付いたジャケットを身に纏ってそこにいたのは、ぼくが今日名前を借りた人物だった。

「うわっジーン!なんでここにいるの?」

「別に尾けてたとかじゃないからね。たまたまこの近くで人と待ち合わせしてるの」

「こんな遅い時間から?……ていうかいい感じって何が?」

 ダークな色に塗られたジーンの唇が、にまーっと笑った形になる。

「La jalousie peut être la meilleure épice pour l'amour」

「へ?なんて?」

 よくわからない言葉を言い残すと、ジーンは指輪のいっぱい付いた手をひらひらさせながら、夜の街に消えてしまった。

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